100年後の楽しみ 豊中名曲シリーズvol.25「かちどきと平和」について思うこと
ずっと謎解きをしている気分だ。
山田耕作といえば、「赤とんぼ」?
山田耕作の作が「筰」だと、改名されたのは、いつの頃か。
「この道」「待ちぼうけ」「からたちの花」など、童謡の作曲家として、あまりにも有名ですが、実は、日本初の交響曲に挑んだ方でもありました。
豊中名曲シリーズのチケットを購入した頃に知ったことだ。
時計の針は、10時52分頃を示している。頭を白く濡らす霧雨は止み始めていた。
阪急と阪神って、別なのか、と、御堂筋線梅田駅を降り立ち、乗り場を探した。宝塚線の車両は、明治時代の鹿鳴館から馬車に乗るような気分になった。モスグリーンや深紅色のビロード仕立ての椅子、小学低学年のお子さんが座っても床に足がつく高さに設定されており、親子連れで乗れる車両は、背もたれなくとも、座れる高さだった。広々とした各駅停車の車内に揺られて、曽根駅で降りて、やや下り坂を歩いて6分ほどでたどり着いた豊中市立文化芸術センター。
「100年経ったら戻ってこよう」と、受付で渡されたパンフレット表紙に書かれており、どうやら、未来行きの切符を渡されたようです。
それから、1995年生まれの演劇作家・藤井颯太郎が示した100年後の楽しみについて、考えていた。
ホワイエ奥での声の展示の朗読は、100年後からメッセージのようでした。
そして、
「100年後、私達はもう一度ここへ帰ってくるのです!」(センチュリー豊中名曲シリーズvol.25 パンフレットより)
帰ってくるのです???どういうことだろう。
リアルな時間に限りがあるというのに、
ちなみに、
山田耕筰に改名されたのは、1956年。髪の乱れを指摘されて、坊主に……。カツラを嫌がり、名前に毛を二つ乗っけた(ケケ)の竹冠を乗せたと、エッセイ『竹かんむりの由来』(岩波書店)の中で記されており、勝気でウィットにとんだ人だったと伺える。
次に何をやってしまうのだろう、謎だらけ、つい先日、サントリーホールでパイプオルガンを弾いていた同じく1995年生まれの角野隼斗の名前に誘われ「かちどきと平和」を聴きに来た。
残されたメロディーと会場に訪れた方々のそれぞれの時間、そして、100年後の未来について、交差する空間に身を置いていたが、開演と同時刻、とても、大事な用事があり、大事なことは、いつも重なり、うれしいことだが、苦渋。そんなわたくしごとを別に気にしない「時」は、過ぎていて、会場スタッフの方がたが、「開演を15分遅らせる」アナウンスを会場入り口付近を歩いて周り、声で伝えていた。
私が降りた後の宝塚線は、事故に伴い大幅に遅れていた。ホールに足早に向かう人々の群れがやってきた。
迎え入れる箱舟は、まだ、出発していなかった。
旅の始まりは、人と隣り合わせることから始まるのかもしれない。
開演に伴い、私用であり公用でもある時間が切れ、ホールに入ると15分以上待ったであろう、隣の席の方は、目を閉じて祈るように眠りについていた。苦渋の選択をしていた私の隣では、贅沢な時間を過ごしている方がいらっしゃる。
眠りながら聴くクラシックコンサートがあってもよいですね。お昼寝クラシックみたいなこと。ストランヴィスキー『火の鳥』では、おそらく起きる。
後から後から後方扉が開き、途中乗車の方がやってきた。事故の影響で、それぞれのダイヤは乱れているようだった。
開演から15分の間に、会場に見た心象風景は、青空の広がりでした。晴れ渡った空をふと眺められる日常が戻ってきた。15分遅れの開演に間に合ってよかった。冒頭を聴き、そう思った。なんて素直なお人なんだ。
1912年山田耕筰26歳、現在のベルリン芸術大学卒業制作で作られた交響曲は、日本人作曲家として初の交響曲となった。
「かちどきと平和」
そうか、1912年から100年後の未来に向けて、当時26歳の山田耕筰からのメッセージが届いたわけだ。
現在の26歳〜27歳のメッセンジャーにより、「かちどきと平和」の時間は静かに引き継がれた。
ほんとうは、何かもっと話したいことがあったはずなんだけれど、終わった後に、ほうけていた。
ようやく、山田耕筰の描いたタイムカプセルから降りて、現在地にたどり着いた。晴れやかな日となった。
ガーシュウィンのラプソディーインブルーやアイガットリズムを聴き終えて、ガーシュウィンも山田耕筰も決して、順風満帆ではない人だった、とエピソードを思い起こしていた。
軽やかに舞う音、未来への約束が語られたようだった。
約束を描くことで、未来は形になるんだと思う。
「100年後に戻ってこよう」
幸せとは、不確かなものだから、そんな約束をしたくなった。
タイムマシンで、戻ってこられる異次元の未来に。