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乖離しかけたもの

 ここしばらく、自分の感情や考えをきちんとまとまった言葉として綴るという作業を怠ってきた。
 正直に述べると、いろいろなことをふわっとさせて見て見ぬふりをしてきた、ということになるのかもしれない。
 ここ最近、Instagramの個人アカウントにばかり、いわゆる“リア充”的な投稿を繰り広げている。内容は事実である。美味しいご飯屋さんに行った時の記録や備忘録的に投稿してはいるのだが、リアルタイムではなく少しずつ時をずらして投稿している。
 そして時間が経ってから自分の投稿を振り返ってみると、ちょっとした虚しさに襲われる。

 サロンのアカウントの投稿だけでは感じられない、生身の人間ぽさのようなものを少しだけ覗き見していただければ、との狙いで個人アカウントを始めた。
 どんな人間が経営しているのか、どういうつもりでやっているのかが少しは伝わるかもしれず、興味を持っていただいた方にご来店いただき新たな出会いが芽生えるかもという期待を込めている。
 しかし、食事の度にパシャパシャ写真を撮りまくっている自分にたまに嫌気が差すこともある。
 ただ、本当に美味しいと思ったご飯屋さんは純粋に感謝を込めて紹介したいし、本当に美味しくいただいてはいる。
 正直に言ってしまうと、本当の意味で純粋に、食事を楽しめているかどうかと自分に問うと、疑問が残る。
 どうしても、少しの罪悪感がつきまとう。考え過ぎだろうか。

 おそらく客や知人にnoteの記事まで読んでもらえる確率は低いと思い、ここでは言葉を選びつつも自身の本音を静かにぶちまけている(つもりである)。ここで罪悪感から解放されるために正直にものを述べたとして、表面的に見えている部分に変わりはないが、地に足をつけるためにも必要な作業であると思い、今文章にしている。

 客の前では、気分の落ち込みも体調不良も一切知られてはいけないというポリシーが私の中に根付いているのだが、それがプライベートにおいても深く根付いてきてしまっているようだ。
 つまり、どの場面においてもカッコつけ過ぎて、カッコつけていない自分を解放できなくなってしまってきた。
 少し厄介なことになってきている。

「本当の自分って何?」
「どの場面においても、それぞれ全てが本当のあなただよ」

 なんてやりとりをたまに聞くが、そんな綺麗事はどうでも良い。

 本当かどうかが重要なのではなく、ただ心地良くありたいだけなのだ。
 自分の心と身体のどこにも負担をかけず、健やかに過ごすこと。
 それが今はとても難しい。
 
 何を検索しても、誰に聞いても解決しない。

 休養か、動き続けるか。どちらかに寄ることはできないので、とりあえず動き続けながら休むとしよう。


 


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