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【試し読み】鈴木三子 『かせきこのかっぱ』

文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、各編集部員による個人創作の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。


鈴木三子 『かせきこのかっぱ』


新田久恵が家の裏手の池からやってくるカッパに悩まされて、もう一週間になる。
カッパ、というか、正直何と呼ぶべきかわからない生き物であるのだが、いつも濡れているし、頭はざんばら髪のようになっていて、二本の足で歩くので心の中での便宜上カッパと呼ぶことにしている。日が暮れるころに勝手口にぬうと現れ、夕食の準備をしている久恵が開けるまでべたんべたんと戸をたたいて、開けるとこちらを見つめてけろけろごぼごぼと何ごとかをしゃべり、踵を返してぺたぺたと池の方へと姿を消してゆく。池は勝手口からさびれた道を挟んで向こう側にあるが、めったに人の通らない寂しいところで、久恵以外の目撃者はないようだ。はじめはずいぶん驚きおそろしく思えたが、特に何か害をなそうという勢いも感じられないので、そのままにしている。このことは誰にも話していない。

五月の日没は遅い。昨日は味噌汁をよそっている時にやってきた。今日あたりはちょうど夕食どきに重なるだろうか。久恵はイカの皮を剥ぎながら、台所の格子窓の向こうで傾いた太陽の光をちらちら返す水面に目をやる。すうすうと細切りの刺身になってゆくイカの身を見て、ふとあのカッパは何を食べているのかな、と思った。人を襲うようなことはないようだ。池から出てくるようなのだから魚くらいは食べるのかもしれない。陸に上がって歩くのだから虫やネズミもあり得る。世にいうカッパと言えばキュウリだが、菜食主義ということはあるだろうか。ゲソをぶつりと切って大根と炊き合わせる。どうせ一人分には少々多いのだ。使っていない小皿を出して刺身と煮物を盛りつける。青菜もつけてやろう。捨てるつもりでビニール袋に入れたイカの内臓や目玉が目につく。こういうものが好みということもあるだろうか、いちおう出してみよう。窓の外を見やればいつの間にか日は沈んでいた。白けた空に暗い青色が下りてくる。来る。

べたん。べたん。

来た。べたべたべたん。はいはい。支度してあった一人分の食事をテーブルに残して、一匹分の食餌を盆に載せる。引き戸を開けると、目線よりも一段下にカッパがいる。

けろけろけろ。

いつもと同じようにつるりと光る眼で久恵を見つめ、のどを震わせている。眼はゆっくり盆に向かう。床の上に置く。なかなか手をつけない。カッパは土間にしゃがみこんで、じっとして出されたものを見つめている。モルタルにじんわり黒い水染みが広がる。久恵は自分の分を台所のテーブルではなく、続きの居間で食べることにした。人が近くにいると落ち着かないのかもしれない。勝手口が開けっ放しになるが、少しのあいだ風通しを良くしても不用心というほどのことはない。裏に池、前には川に挟まれて、家の周りには馴染みのご近所さん数軒と田んぼがあるばかりだ。
動きの止まったカッパに背を向けて居間の円卓で夕食をとる。久しぶりに割引でないイカを買った。さくりと歯ごたえがある。煮物は思ったよりも味が濃くなったが、あのカッパ、そういえば、塩分とか大丈夫だろうか。
そろりと腰を浮かして台所を振り返ると、カッパの姿はもうなかった。皿は舐めたようにきれいになっている。開け放した戸の先はもう暗闇で、い風が水の匂いを運んでくるばかりだった。

ぴーん、ぽーん。明くる日の午前、居間の窓の桟を拭いていると、玄関のベルが鳴った。今日はお客さんが来る日だ。久恵は正面玄関へと向かう。
「いらっしゃい、お義姉さん。どうぞあがってください」
「どうも、久恵さん。お邪魔しますね」
もとは実家の、今は弟嫁しか居ない家にあがり込んで、義姉はよそよそしくも真っすぐと部屋へ向かう。
「お線香上げさせてもらっていい?」
「もちろんです、私向こうでお茶の用意してますから」
急須に湯を注いでいると、仏間からの音がよく通って響いてくる。義祖母、夫。義父。久恵にとって仏壇は、いつしか世話した人が収まっていくところになっていった。二十でこの家に嫁いで、今年久恵は五十五になる。
「ごめんなさいね、気を遣わせちゃって」
「いえ、そんな。昨日はお義母さんのところへ行ってらしたんですよね。お変わりなかったですか?」
「少しの間だけれどね。そうね、様子は相変わらずだけど居心地良さそうにしてたわよ。いいホームに入れて本当によかった、病院もすぐだから何かあっても安心だし。久恵さんには長いこと苦労かけたわよねえ」
「とんでもありません。施設を探して手続きしてくださったのはお義姉さんですし」
「あなただけに負担かけっぱなしというわけにはいかないでしょう。今はいいサービスがあるんだからね、使わないと」
お茶を啜って義姉は家の中をぐるりと見まわす。
「この家も寂しくなったわよね、久恵さんは最近どう? 暮らしに不便なことはない?」
「それが相変わらずでして、時間を持て余してしまってだめですねえ」
「ずっと一人? それは良くないですよ、何か動かなきゃ。趣味とか、ボランティアとか、働きに出るのもいいわよ。張り合いがないと」
そうですね、と相槌を打つ。
「一軒家に一人暮らしっていうのも怖くはない? 何かあったらって思うとね……いえ、もちろんここは久恵さんの家だからいいのだけど。とにかく、本当にずっと頑張ってくれたのだから休むのも大切ですよ。でもね、いつまでもこのままというわけにもいかないでしょうから。とにかく始めてみればいいのよ。人生これからが長いんだから」
そうですよね。何かしないといけませんねえ。それから義姉は近ごろの若者がいかにテレビを観ていないか驚きをもって語り、息子の事実婚と昨今の結婚観に思いを馳せ、動物園で生まれたマレーバクの赤ちゃんの写真を見せて、
「何かあったらなんでも相談に乗るからね、いつでも連絡して」
と言って帰っていった。なんでも。カッパのことを話したら、どんな顔をするだろうか。もう正午を回っている。形だけでも昼食を勧めればよかったかな、と思ったが、今日の台所にはろくなものはなかった。


新田家で、久恵はずっと誰かの世話をしてきた。腰を悪くした義母の代わりに寝たきりの義祖母を看て、家事をし、義両親が老いては彼らの面倒をみた。子どもはいない。年の離れた夫は地元の銀行に勤めていたが、定年後ぱたりと亡くなってしまった。その数年後には義父が。義母は存命だが、義父の亡き後しばらくしてからというもの、すっかり幼いころにかえったようになってしまい、見かねた義姉が施設を手配してくれた。入居したのが一か月前。
忙しい生活ではあったが、周囲はみな優しい人たちで、そこは恵まれていたと思う。(続く)


鈴木三子 SUZUKI Mitsuko

一九九二年生まれ。東京都国立市出身。
二〇二三年に文藝同人習作派『筆の海 第五号』に「わたくしごと紙片」を寄稿。
現在学校図書館に勤務。


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