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【試し読み】 石田幸丸 『深淵のリチェルカーレ、あるいは文学の捧げもの』

文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、各編集部員による個人創作の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。


石田幸丸 『深淵のリチェルカーレ、あるいは文学の捧げもの』


男は話しはじめた。

「ちょうどカフェを出たときだったんですよ。雨が降っていて、こう、下り坂がだらだらと続いている道で、そのずっと先で、バスが扉を閉めるのが見えました。ブレーキランプが消えて、そのまま走っていった。あぁ、って。それまでさんざんコーヒーのおかわりで粘った後だったから、店に戻るのも気まずくて。それで、しょうがないからバス停で待っていようか、と。
まだ15時くらいだったと思います。でも空はだんだん暗くなっていくし、晴れる兆しもなかった。ズボンの裾からじわじわと水が染みて。でも、そのとき、あいつが話しはじめたんです。

「仕事場に見慣れない女性がいるなって思ったんです。白い、ふわふわした上着を着て、髪の毛を後ろで高くくくっていました。年齢はちょっと分かりませんでした。20代にも見えるし、30代かもしれない。40代と言われてもおかしくないし、ひょっとしたら10代だったかもしれない。外国に長く住んでいた人かなと思いました。なぜだろう……なぜかはわからないけど、今思うと、お化粧の雰囲気が独特だったのかな。なんというか、こう、お化粧の感じって、けっこう地域ごとに違いますよね? それで、その人がずっと電話で喋っているんです。

「そうじゃない、違うよ。わたしは西棟の903号室だったけど、あの人は別のフロアに泊まってたと思う。たぶん、わたしより前から滞在していたんじゃないかな。あれだけ大きなホテルといっても、宿泊客が足をむける場所なんて案外限られているし。ラウンジ、レストラン、バー、カジノ……そんなところ。それで、よく見かけるなと思っているうちに、自然とお互いに話すようになって。最後に会ったとき? うん、わたしが出発する前の晩、ジムのプールサイドで。あの人、きれいなクロールで泳いでた。ふたりとも何回かプールを往復したあとで、水から上がって、ぼんやりしてたら、あの人がこんな話をしたんだ。

「もうすぐ子どもが生まれるんだ。二人目。でも、いまの娘にどう伝えたらいいのかなと思ってる。お姉ちゃんになるんだよ、って? でも、それは何を意味するんだろう? お姉ちゃんだから妹を助けてあげなきゃいけない? それとも、お姉ちゃんだから我慢しなきゃいけない? ……でもそれでいいんだろうか? つまり、きょうだいになるって、本当はどういうことなんだろう。僕はひとりっ子だったから、わからないんだ。
妻? 妻もひとりっ子なんだ。彼女とは一度こんな会話をしたことがあったな。

「春休みだったか、あるいは日曜だったのか覚えていないけど、休日のとても静かな午後だった。よく晴れて気温もおだやかで、わたしは窓際の床に寝そべって、カーテンを透いた光が睫毛のうえで揺れるのを見ていた。居間にはわたしひとりで、となりの寝室で父がラジオを聴いている音がしたの。その番組がちょっと変わっていて、後になって聞いても、父はまったく覚えていないというんだけど、パーソナリティが、リスナーから送られた長い手紙を読み上げていたんだ。


「弟から『ピアスをしたい』と言われて、わたしは、ああ、またこの季節がやってきた、と思いました。我が家では、妹弟たちの〝ファーストピアス〟は、わたしが空けることになっています。最初は、ひとつ下の妹が高校生のときでした。自分では怖くてできないと泣きつかれて、わたしがやることになりました。でも、わたしだって、生まれてこのかた一度もピアスなんて空けたことはなかったんです。だから怖かった。間違えて変なところに空けてしまったらどうしよう、とか、きちんと貫通させられずに何度も刺すことになったらどうしよう、とか。
でも、騒ぐ妹を洗面台の前に立たせて、髪を上げさせると、ふしぎに度胸が出てきました。わたしは妹の耳にそのとき初めて触れたような気がしました。わたしのよりもすこし小ぶりで、耳たぶも薄くて、やわらかでした。空けやすそうだなと思って、すこし安心したことを覚えています。穴を空ける部分にアイライナーで目印をつけて、薬局で買ってきたピアッサーを使いました。ぱちん、と、ほんとうに一瞬で、あれほど騒いでいた妹も、ぽかんとしていました。『お姉ちゃんにやってもらうと痛くない』と言って……それがきっかけで、二番目の妹のときも、三番目の妹のときも、わたしが空けたんです。(続く)


石田幸丸 ISHIDA Yukimaru

一九九〇年九月三〇日生まれ。三重県津市出身。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科(比較文学比較文化コース)修士課程修了。
二〇一六年より「文藝同人 習作派」として文学フリマに参加。
主な作品に「賓は運命のごとく扉を叩き」(2023)、「天使学」(2022)、「プロメモーリア、塵と炎について」(2021)、「夢の纜」(2019)。


その他の試し読み

鈴木三子 『かせきこのかっぱ』

那智 『掌編 微熱』

原石かんな 『そして私は透明になる』

久湊有起 『アドラルトクについて』


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