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【試し読み】久湊有起 『アドラルトクについて』

文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、各編集部員による個人創作の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。


久湊有起 『アドラルトクについて』


アドラルトクはハンノキの皮で染められた美しい赤のパルカを纏い、イッカクの角の槍を携え、アビの風切羽が五十七も縫い付けられたバンダナを巻いていたので、島のどこにいても見つけることはたやすかった。特にユアの丘に抱えられるように迫り出した崖の上に座っていると、島の人々は大抵、かれに手を振って寄越した。アドラルトクは基本的に毎日することがなかったので、短い夏の間は決まって崖の縁に座って、漁や繕いの手を止めてかれを見上げている人々を眺めて過ごしていた。

崖からは深く青い海と、それを薄めたような澄んだ空を臨むことができた。海の向こうから夏に押されてやってきた風が、アドラルトクの頬を撫で、五十七の風切羽を一つひとつ、やさしく揺らした。かれはその時間が好きだった。ごわごわと邪魔なアノガジェを着込むこともなく、吹雪で家の跳ね上げ戸ががたがたと揺れる音をただじっと聞いている必要もない、夏が好きだった。


少し視線を下げると、短い海峡を跨いだところには、濃紺の穏やかな波に支えられるようにして、もうひとつ島が浮かんでいた。そちらの島の方がアドラルトクの住んでいる島よりもひと回り小さかったが、島民の数はほとんど同じだった。ふたつの島はともに岩と地衣類に覆われていて、水の湧く場所も少なかったので、住む場所は限られていたからだ。住民は全部で百人に満たなかった。大きい島はカリブーがよく獲れ、小さい島ではアザラシ猟が盛んだった。島と島の間は冬になると海が凍って渡ることができたので、人々は夏はカヤックで、冬はソリで二島を行き来した。

冬至の日には、二島のちょうど中間で、氷上の祭りが行われた。夏の間の収穫を感謝して、次の夏の豊漁を祈って、島々の住民が皆集った。

島には名前がなかった。必要がなかったからだ。二つの島に住む人々は皆家族だったし、そもそも両方の島に家を持つ者も少なくなかった。隔たれていないのだから、わざわざ分ける必要もない。どうしても呼び分ける必要がある時は、人々は単に「大きい島」「小さい島」と呼んだ。

かれらの暮らしは、何百という冬と夏の間、変わることなく繰り返されてきた。そのことをアドラルトクは知っていた。かれが冬至の日の真夜中に歌う、かつてのアドラルトクに教えられた歌にそうあったから。


* * *


老いたアドラルトクはハンノキの皮で染められた美しい赤のパルカを脱ぎ、イッカクの角の槍を差し出し、アビの風切羽が五十七も縫い付けられたバンダナをアドラルトクに渡して、かれがそれらを身につけるのを見守った後、石ランプのそばに座り込んで言った。

「サウニック(もう一人の私)、私の役目は今日で終わる」

老人はそばにあったアティギを摑んで羽織りながら続けた。

「私は三十二の冬の間、私の役目を果たしてきた」

アドラルトクはランプの火がゆらめくのを見つめながら、役目とはなんだろうかと考えた。老人は長く厳しい冬の間も、皆が汗を流して働く短い夏も、一日じゅう家の中で過ごしていた。目を瞑り、あぐらをかいて、ただじっと座っていた。たまに島の人が家を訪れ、どこかへ出かけて行くこともあったが、せいぜい誰かの家に行ってカリブーの血を舐めながら話を聞く程度のことだった。今年も肉の量が足りていないだとか、子供の占いの結果がよくなかっただとか、そういうたぐいの。

老人のアドラルトクは、年若いかたわれの頭の中を覗いたかのように、長く蓄えられたあごひげを撫でながら言った。

「何か特別なことをしたわけではない。ただ、この豊かな暮らしが絶えることのないよう、考え続けてきた」

「豊か、って?」

アドラルトクはランプの火から視線を外し、老人の顔を見て訊いた。食べるものにも困るような冬の暮らしを、果たして豊かと呼ぶのだろうか?

老人はその問いには答えを持たなかった。硬い雪で覆われた家の中には、乾燥した静けさが居座っていた。アドラルトクもまた、答えが返ってくることを期待しているわけではなかった。老人の言うことは正しい。そう教わってきたし、島の人々もかれの言うことに従った。それが全てであり、それでよかった。

「これから私が歌う歌を、お前は覚えなければならない」

老人は断じるように言った。

「なぜ?」

「そうしてきたからだ。私もそうした」

「わかった」

アドラルトクがそうであるように、老人もまた、かつてのアドラルトクの言葉に従っているのだろう。若いアドラルトクにはなんとなくそれが理解できたので、大人しく老人の声を待った。

老人は目を閉じ、深くゆったりと呼吸をすると、低い声で歌い始めた。老人が歌うそれを、かれは聴いたことがあった。それは精霊に捧ぐ歌だった。夏の終わりの祭りの夜、カリブーやアザラシの精霊の怒りを鎮めるための歌だ。

声は風の唸りのようで、凪いだ海のようだった。ゆっくりとした調子が、突然急き立つように速くなる。低い音が長く伸び、だんだんとそこに高い声が混じり、まるで数人の男が歌っているように思えた。不思議なことに、何度も聴いたにもかかわらず、それが島の人々の歴史を伝える歌であることに、かれは気づいていなかった。海を越え、家を建て、獣を狩り、皮をなめし、まぐわい、子をなす。精霊への賛美と共に、人間の歴史が語られてゆく。その全てが、まるで元から知っていたかのように、アドラルトクの魂に刻まれていった。

歌い終えると老人はしばらく押し黙った。深く息を吸い、呼吸を落ち着かせた。どれくらいの間かれが歌っていたか、若いアドラルトクにはわからなかった。

「いいか、サウニック。生きなければならない」

甕の水で唇を湿らせてから、老人はアドラルトクを見据えて言った。

「生きて、見つけるのだ。お前の、私たちの魂を宿す者を。そして見つけたら、私がお前にそうしたように、その赤子にアドラルトクの名をつけるのだ」

名は魂にこそ与えられる。不滅の魂は人に宿り、人はその生を、魂を分かつかたわれを見つけることに捧げる。島の人々はずっと昔から、生まれてくる赤子の顔や身体を注意深く観察し、自分に宿る魂の影を探し出すことでかれらの役割を果たしてきた。

「それで、豊かになるの?」

アドラルトクの問いはまたも答えられなかった。老人は黙ってかれを見つめていた。その瞳には、ただ炎だけが静かに揺らめいていた。(続く)


久湊有起 HISAMIANATO Yuki

一九九〇年四月二七日生まれ。神奈川県横浜市出身。
立教大学経済学部卒業。
大学在学中に江島良祐と劇団ガクブチを旗揚げ。以降は演出・脚本を手掛ける。
二〇一六年より「文藝同人 習作派」として文学フリマに参加。
主な作品に「H+note+R」(2023)、「semi-colon」(2022)、「火炎のシミュラークル」(同)、「トランクルーム」(2019)。現在、会社員。


その他の試し読み

石田幸丸 『深淵のリチェルカーレ、あるいは文学の捧げもの』

鈴木三子 『かせきこのかっぱ』

那智 『掌編 微熱』

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