【試し読み】那智『掌編 微熱』
文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、各編集部員による個人創作の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。
那智『掌編 微熱』
ドラッグストアのLEDは他のどこよりも白くて眩しい。
壁一面に並んだ医薬品の光沢のあるパッケージが一斉に点滅するように感じて、思わず一度目を閉じた。瞼の裏に残った色が消えていくのを待ちながら、ナカノの怠そうな声を思い出す。喉が痛いと言ったのだ。とにかく喉が痛い。咳が止まらない。と言いながら実際に何度か咳き込んだ。ほとんど癖になっているいつもの空咳ではなくて、体の深いところから突き上げられてくるようなシリアスな咳だった。病院には行ったのかと俺は尋ねて、行っていないとナカノは答えた。なぜなら今日は日曜だから。昨日の夜から熱が出始めたんだとナカノは掠れた声で付け足した。熱は高いのかと俺は尋ねて、そうでもないとナカノは答えた。ただの微熱。でもこれから上がるかもしれない。とにかく喉が痛い。頭も痛い。そしてシリアスな咳。
その瞬間俺は大袈裟に咳き込むナカノに向かって、それでお前は俺にどうしてほしいんだと訊きたかった。そういう強い衝動があった。そんなに傷ついた喉でわざわざ電話をかけてきてお前は俺にどうしてほしいんだ。俺に会いに来てほしいんだろうが。俺に助けてほしいんだろうが。だったらそう言え。それはナカノとセックスしているときに発生するのと同じ種類の衝動だった。俺が必要以上に冷たい口調で追い詰めるときの、ナカノの途方に暮れた、恥入るような表情を想像した。しばらくそういう顔をさせていないと思った。
激しい咳の波が引いて、疲れたように喘ぐ吐息を遠くに聞きながら、俺はナカノを問い質したかった。閉じた目の奥が一瞬激しく光って火照る。でもそういう衝動はこの頃ほとんど持続しない。
俺はナカノを問い質さなかった。代わりに何なら食えそうなんだと訊いた。
「風邪薬が欲しいんですけど」
「ご本人ですか?」
「え?」
「風邪は」
「あ、いや。僕じゃないです」
「成人の方?」
「成人です。喉が痛いらしくて」
「喉ね」
「はい」
薬剤師は頷き、老眼鏡を外してカウンターの内側から表に出てきた。賑やかしい薬棚を見上げる白衣の背に向かって、俺は不意にそうする必要があるような気がして付け足した。
「男です、ちなみに」
薬剤師は俺を振り返ると軽く首を傾げ、それからやはり頷いた。
「成人男性ね」
「はい」
ドラッグストアには成人男性の生活に必要な物のほとんどすべてが売っている。成人男性に求められる清潔感を保ち続けるのに必要な品々があり、成人男性があらゆる疲労に打ち勝つのに必要な品々があり、成人男性同士がセックスするのに必要十分な品々がある。そういう物が何もかもすべて白すぎるLEDに照らされて爛々と光っている。
「常用してるお薬ってありますかね?」
「多分ないと思います」
「万が一あってもね、このへんは一緒に飲んでも支障ないですからね。食欲はあります?」
「あんまりないみたいです」
「栄養摂らないと回復しないですからね、ドリンク剤でもいいから体に入れるようにしてください。それで一晩様子見て悪化しちゃうようならね、明日は病院に行かれてくださいね」
「そうします」
「会計でいいですか?」
「いや、まだ買います」
「じゃあこっちで預かっておきますね。しかしあなたも顔色がよくないですね」
「……寝不足で」
「よく寝られたほうがいいですね」
「そうします」
りんごが食いたいとナカノは答えた。ドラッグストアにはもちろんりんごが売っていた。カットりんご210グラム税込327円。プラスチックケースの内側で果肉は黄ばんでいた。白すぎるLEDを吸い込んでなお黄ばんでいた。
ナカノの部屋は日当たりが悪い。
週末、夜中に帰り着いてそのまま眠ると、朝の光が射さないせいで何時になっても体が起きない。気づかずに眠り続けて、何かの拍子にふと目を覚ますとナカノはやはり隣で寝ていて、ならまだいいかとまた眠ってしまうと、いよいよ腹が減って起き上がる頃にはとっくに日が暮れている。そんなことを何度もやった。ナカノはここを気に入っていて、一向に越そうとしない。
ドアを開けるとワンルームは薄暗く、熱かった。
北向きの窓にはカーテンが引かれている。このカーテンは丈が足りない。足元にわずかな隙間があり、そこだけがいつも薄く明るむ。エアコンは動いていなくて、空気清浄機は動いているが、パネルの赤いランプが音もなく点滅を続けて何事かを訴えている。デスクにペットボトルが並び、椅子の背にジャケットとワイシャツとネクタイが重なり合っている。部屋の真ん中にベッドがあり、その真ん中でナカノが眠っている。
俺はナカノの寝顔を見下ろし、息をしていることを確認し、そのまま呼吸を数えた。
こもった空気が頰と耳のあたりにまとわりついている。俺の様子を窺うみたいに。それは徐々に首筋へ下り、シャツの襟元から内側を伝い、布地と体の隙間を満たすとそのまま抵抗なく肌に染み込む。俺の体はそれを受け入れ、代わりに何かを放つ。呼吸するみたいに。肉体に由来する熱。男の汗の匂い。
俺はナカノの呼吸を六回まで数えた。そのあいだその他に何の音もしなかった。
ドラッグストアのレジ袋をキッチンのIHの上に置く。袋はがしゃがしゃと騒々しく崩れるがナカノは反応しない。俺はベッドを迂回して窓に近寄り、椅子に腰掛けて丈の短いカーテンをほんの少しだけ開けて隙間を覗いた。カーテンと窓のあいだの空間に秋の午後の陽が溜まっている。そこだけ温度が違っている。カーテンを開け窓を開けて外の光と空気を取り込み、代わりにこの部屋の熱を逃してやるべきだった。でもそれをやるとナカノが起きる。
俺はカーテンを閉じ、デスクの上のペットボトルを一つずつ床に移してスペースを作り、そこに両腕を重ねて顔を伏せた。椅子の背からナカノのネクタイだかシャツだかが滑り落ちていく音が聞こえる。そのすぐ後ろでナカノは確(続く)
初出:2023年11月11日(発行:文芸サークル微熱)
掲載に当たり、一部改稿。
那智 Nachi
二〇二一年に「文芸サークル微熱」を立ち上げ、文学フリマにてBL小説の頒布を開始。
主な作品に「掌編 微熱」(2023)、「skin」(2022)、「intimacy」「Between Blue」「眠れない夜の彼ら」(2021)。
本業は校閲者。
その他の試し読み
石田幸丸 『深淵のリチェルカーレ、あるいは文学の捧げもの』
鈴木三子 『かせきこのかっぱ』
原石かんな 『そして私は透明になる』
久湊有起 『アドラルトクについて』
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