白猫ホームスと探偵 全文 (16475文字)
探偵・万画一道寸が離れを借りて居候しているのは、大森の山の手にある『潮月』という割烹旅館である。
探偵の仕事もそうそう毎日ある訳でも無く、万画一は大抵部屋でゴロゴロしながら書物文献を漁り、文机に置いた原稿用紙に向かって筆を走らせているのだ。
何も世間に轟かせるような論文を発表しようと目論んでいるのでは無い、詰まらぬ日々の徒然をたらたらと認めているだけである。さしづめ日記、または随筆とでもいう所であろうか。しかし、その文章は難解でとても一般庶民なる者達には理解出来そうもない代物で、つまりは活字や書籍にした所で全く売れもしない事は、当の万画一も重々に承知している。
早い話が単なる道楽、暇つぶしの類なのだが、これまでに書き上げた原稿用紙の枚数は四千枚から五千枚にもなろうとしている。
従って、万画一の部屋は沢山の文献・書物で埋め尽くされ、そこへ持って来て書き尽くして積み重ねたままの原稿用紙、または書き損じて丸めた用紙のゴミが散乱し、足の踏み場もないと言うのはこの事である。
さて、万画一道寸がこの割烹旅館の離れに居候させて貰える事になった経緯は、こうである。
当時、東京の大学に籍を置きながら一年間外国をふらふらとあてど無く旅して周った道寸青年は、殆ど有り金を使い果たし、浮浪者同然の、格好をして帰国した。
手荷物は薄汚れた箱型のカバンひとつで、その中身は歯ブラシ、タオル、少しの着替え、そして外国で手に入れた希少本や役に立ちそうも無い小物類だけであった。
行くあてのない道寸青年は、大学の恩師でもある同郷の学者・金庭狛蘭先生の宅へと転がり込んだ。
金庭博士は道寸の海外旅の話しに頗る興味を示し、他国で巻き起こった途方もない逸話の数々を大層面白がり、手を叩き爆笑し、相槌を打った。
それが博士のお気に召したのか、金も無ければ家も無いという道寸を『割烹旅館・潮月』に連れ出して、たらふくご飯を食べさせた後、女将の友恵に離れの部屋を空けさせた。
聞く所によると友恵は博士の五番目の愛人だという。そしてこの割烹旅館も博士がオーナーをしているとのことである。
その日から道寸の居候生活が始まり、ほどなくしてそこで万画一探偵事務所を開業する運びとなったのである。
女将の友恵という女は、博士とどこでどう知り合ったのかは知る由もないが、明るくて器量の良い、四十手前の未亡人である。この『潮月』の女将を任されて以来、持ち前の面倒見の良さが手伝って、客達の評判も非常に良く、従業員達には慕われ、商売繁盛この上なしという見事な経営手腕を発揮していた。
その友恵女将がある時、離れの万画一の部屋を訪ねて来た。
「万さん、いらっしゃる?」
万さん。普段、女将は万画一をこう呼んでいる。
「はい、何かご用ですか? 女将さん」
書き掛けの原稿用紙から筆を上げ、万画一は返事をした。
「ちょっとご相談が御座いまして」
障子の向こうで女将は膝を折り、そう呼び掛けた。
「あ、どうぞ、お入りください」
万画一は素早く入口付近に散らばった紙屑や書物を脇に片付ける。
「では、失礼致します」
障子を開け、女将が部屋に入って来る。
「むさ苦しい所ですみません」
万画一は頭の上の雀の巣の様な髪の毛を掻き毟った。
「いえ、そんな事、ちっとも構いませんのよ」
女将は万画一の差し出した座布団の端の方に小さく膝を揃えて正座した。
和服姿の女将が腰を据えると万画一の部屋も、そこだけ明るくなった様に見えるから不思議だ。
「あ、今、お茶でも」と万画一は慌しく座敷机の上の急須に手を伸ばそうとする。
「あら、いいのよ。お構いなく。そのままで」
「あ、そうですか、すみません、で、何です? ご相談と仰るのは?」
「ええ、それなんですけどね」
と、女将は話を始めた。
それはこんな様な事であった。
高輪のマンションで暮らす、女将の友人藤原加奈子が、この所付き合いの茶会にも全く顔を出さず、部屋に閉じこもったままでいるという。
そこで、女将は出掛けたついでに加奈子の部屋を訪ねてみた。するとドアを開いた加奈子は随分青白い顔をして出て来た。
心配になって何があったのよと、いろいろ問い詰めてみたところ、先月末頃より夫が突然帰って来なくなり、携帯も繋がらず、連絡もない、それで会社に電話をしてみると、加奈子の主人である藤原公生はすでに退職したと告げられたと言うのである。
「そ、それは、し、失踪って奴じゃないですか? 女将さん」
万画一は興奮すると吃ってしまう癖がある。
「ええ、おそらくその様ですの」
「け、警察には届けを、だ、出しましたか?」
「ええ、もちろん、失踪届けは提出したらしいです」
「それで、何か進展はありましたか?」
「いいえ、何も」
女将は悲しそうに首を振った。
「それと……、これは今朝の事なのですが……」
「はい」
万画一は少し膝を乗り出して女将の話す次の言葉を待った。
「加奈子から電話がありまして……」
「ええ」
「泥棒に入られたかも知れないんです」
「ど、泥棒ですか! な、何か盗まれましたか?」
「ええ、金庫の中のダイヤが消えたって、言うんですの」
万画一はその言葉を聞くと数センチ飛び上がった気がした。
その日の内に万画一は高輪のマンション、藤原加奈子の自宅を訪ねていた。もちろん事前に女将から連絡はしてくれてある。
「わざわざすみません」
加奈子はスラっとした細身の女性で美人ではあったが、どこか薄幸そうな印象を受けた。夫が失踪し、ダイヤが盗まれてしまったとあれば、そう見えるのも仕方ない。
リビングに通された万画一はふかふかのソファに戸惑いつつも早速、本題を切り出した。
「盗難届を出さないとお聞きしたのですが、それは本当ですか?」
女将からそう聞かされていた。
「はい、実は、おそらく主人が持って行ったと思うものですから」
「失踪中のご主人がですか? でも、もしや、ご主人から家のキーを奪った別の誰かの仕業とも考えられませんか?」
加奈子はそこでハッとした様子だったが、
「それは、考えませんでした。でもいずれにしても疑いは主人にかかるでしょう。もし、指名手配などされたりしたら……」と、狼狽える。
「失くなったのはダイヤだけですか?」
「はい、他には何も」
「金庫に入れてあったとお聞きしましたが」
「はい、別の部屋です。鍵はここにあります」
加奈子は電話の下の引き出しを指差す。
「盗まれた時間帯とか詳しく判りますか? その時、あなたはどこで何をされてましたか?」
万画一の質問に、加奈子は多少躊躇していたが、やがて語り出した。
「はい、あの……、今朝は気が動転していて友恵さんには詳しくお伝えしなかったのですが、そのダイヤがいつ無くなっていたのかは、よく分からないのです。金庫を開ける習慣がないものですから。お恥ずかしい話ですが、気が付いたのが昨夜の事でして……」
「金庫は鍵を閉めて扉も閉まっていたのですね」
「はい」
「で、金庫の鍵は、ちゃんと元の位置に戻してあって?」
「そうなんです」
「えっ、それでしたら盗難ではなく、ご主人が失踪する前に持って行かれたということも考えられますね」
「はい、申し訳ありません。おそらくその可能性が高いと思います」
万画一は溜息をついた。
「そうでしたか……」
それならば話は違って来る。
「おや?」
万画一達のいるリビングに廊下から小さな白い猫が一匹、歩み寄って来た。
「猫をお飼いなんですか!」
「ええ、そうなんです。ホームス、おいで」
加奈子は手招きすると、猫はピョンとソファに飛び乗り丸くなった。
「ホームズって言うんですか?」
万画一が聞くと、
「いえ、ホームスです。スは濁らないんです」
「あ、それはまた変わった名前ですね」
「ええ、もともとの飼い主が飼えないからと言って捨てられたんです。まだ生後間もなかったのですけど。それを主人が可哀想だと引き取って来て、預かってるんです。最初はホームレスなんて夫が呼ぶものですから、それじゃあんまりだわと、レを取ってホームスと呼ぶ様になりました」
加奈子はそう言うとようやく微笑んで見せてホームスの頭を撫でた。ホームスが「ニャー」と鳴き声を返した。
「なるほどそうですか? それにしても見事な毛並みですね。あ、目の色が片方違うんですね」
見るとホームスは右目が青色、左目は黄色……と言うよりは金に近い色をしている。何だか神秘的だ。
「オッドアイって言うんですよ。白猫には割りと多いそうです」
「そうなんですか」
万画一は嬉しそうに頭をガリガリと掻いた。ホームスはフンとそっぽを向いた。
「あ、そうそう、それでダイヤ紛失の件とご主人の捜索を僕に依頼されたいという事ですね」
「はい、あまり事を大袈裟に騒がれたくないものですから、どうか内密にご調査をお願い出来ないでしょうか?」
「ああ、それはもちろんです。僕で宜しければ、お引き受け致します。ところで大事な事をひとつ聞き忘れてました。そのダイヤはおいくらぐらいの代物なのでしょうか?」
「はあ、あれは主人が藤原家の財産という事でご両親から譲り受けた物なのですが、正確な値段は私には分かりませんが、主人が言うには二千万円位の価値があるとか……」
「ええ⁉︎ 二千万円ですか!」
万画一は再び飛び上がる事になった。
その日、万画一は加奈子にいくつか質問をした。
夫・公生の失踪前の様子、失踪に至る心当たりはないか、趣味や交友関係など、細かく質問した。
結果として、加奈子の夫・公生は無趣味で友人も少なく、仕事一筋の超真面目な男性であると、そう思わざるを得ない印象に落ち着いた。
それにしても、二千万円もするダイヤを持って失踪だなんて、普通ではあり得ない。何かの事件に巻き込まれたという可能性もある。
とりあえず、主に公生が使っていたという書斎を見せて貰う事にした。机や本棚といったところを夫人の前、当たり障りなく捜索してみる。引き出しの中に公生本人の顔写真を発見したので、加奈子に断りを入れて万画一はそれを懐に収めた。それ以外、特に目立ったものも無く、別段、失踪を匂わせるものは何も見つけられなかった。
それから、ダイヤが入っていた金庫。一応、外部からの侵入者がないとも限らず、玄関からその部屋に至るまでの道筋も含めて、何か変わった所はないかと加奈子に確認しながら調べた。
警察の鑑識課の様に指紋までは調べられなかったが、おそらく、それをしてみた所で無駄だろう。
部屋に入り込み、金庫を開け、ダイヤだけ持って行くのは、公生本人にしか無理だと思われる。勿論、公生本人から家のキーと金庫の鍵の在処を聞き出し、番号を合わせ、ダイヤだけを取り出す。それは理論上、不可能ではないものの……、非現実的過ぎる。
金庫の鍵はリビングの電話の下の引き出しの奥に入っていて、それは今もそこにある。
金庫のある部屋まで行くのにリビングで鍵を取ろうとすれば、例え加奈子が留守の時、または就寝中だとしても、そこには猫のホームスがいる。そうすれば何らかの形跡は残るものだ。
盗難の線は薄い様に思われる。
やはり、これは公生が失踪する際に一緒に持って行ったと考えるのが妥当だ。
しかし、何故?
結局、その日は何の成果も上げられず、万画一はその部屋を後にする事にした。
「明日はご主人の会社に出向いてみますが、よろしいですね」
「では、私もご一緒させて頂いてよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんです。では、明日の朝、お迎えに参ります」
万画一がそう言うと、加奈子に代わってホームスが「ニャッ」と返事をした。
翌日、タクシーを走らせて高輪のマンション前まで来ると藤原加奈子はすでに舗道に待機していた。水色のワンピース姿で品の良いスタイル、悲壮感は感じられなかった。
ドアを開けると万画一の隣にすっと乗り込んで来る。と、同時に何やら白い物がさっと飛び込んで来て、加奈子と万画一の間に潜り込んだ。
「や、これは、ホームス!」
まだ幼いその白猫は小さな身体をシートに丸めて「ミャー」と一声挨拶をした。
「奥さん、良いんですか?」
「どうしても離れないものですから、お邪魔じゃなければ……」
「ええ、僕はもちろん構いませんが。じゃ行きましょうか」
と、二人と一匹を乗せたタクシーは走り出した。
公生の会社は大手町だからそれほど遠くは無い。二十分程で目的の会社のビル前に横付けされた。
ロビーに入り、受付で万画一は、先月退職した藤原公生についてお話を伺いたいのですが、と切り出した。そして身分証明書を見せ、夫人は名を名乗った。
暫く待たされた後、現れたのは小柄で丸眼鏡を掛けてひょこひょこと歩く五十代位の男性とやや細面で神経質そうな暗い顔をした白髪の男性だった。
二人ともスーツ姿だが、どう見ても小柄丸眼鏡の方が高級そうなスーツを着ている。白髪の方は大手町のビジネスマンというよりは田舎の町役場の主任さんといった風態。
ここでは何ですからと、二人と一匹は連れ立って二階奥にある応接室へと案内された。
ソファに向かい合って座ると、スーツの二人は万画一と加奈子にそれぞれ名刺を差し出した。
小柄の丸眼鏡の方は、名を加藤と言って取締役の肩書を持つ重役らしい、もう一人の白髪の方は志村という経理部長である事が伝えられた。
二人は神妙な顔をして、何から話をしようかと躊躇っている様であった。
「あ、それでは私の方からいくつかご質問させて貰ってよろしいでしょうか?」
万画一は夫人から雇われている代理人である事を説明した。
「ああ、そうですね。何なりと」加藤が答える。
「それではですね。藤原公生さんが退職に至った経緯についてなんですが、何か理由がお有りなのでしょうか?」
加藤と志村はちらっと顔を見合わせて、では、私がと志村が口を開いた。
「藤原さんから退職届が送られて来たのは先月末頃の事でした」
「送られて来た、という事は出社されて無かったという事ですね」
「そうです。そうです。十日程、無断欠勤をしておりまして、こちらでもどうしたのかなと、話をしてました」
「あ、すみません。こちらで藤原さんはどういう役職に就かれていたのですか?」
「はあ、私の直属の部下で、経理課長をしておりました」
「経理課の課長さんだったのですね」
「はい、主に財務関係の決済を担当してまして……」
「仕事上、何か問題があった訳ではないのですね」
「いや、それが……」
志村は少し、言い淀んだ。
「仰って頂けませんか?」
万画一は身を乗り出した。
「はあ、実は、申し上げ難い事なのですが……、藤原さんは、どうやら不正を行なっていた様なんです」
心苦しそうに志村はそう口にした。隣で加藤は苦虫を噛み下した顔をしている。
「えっ、不正を、まさか!」
そう叫んだのは加奈子である。さっと顔色が変わる。
「ええ、こちらも気付いていなかったのですが、ご主人から送られて来た退職届に、この手紙が添付されておりまして……」
志村は背広の内ポケットから一通の封書を取り出してテーブルに置いた。
先ずは万画一がそれを取り上げ、中身を確認した。
そこには、こんな文章が綴られていた。
『私、藤原公生は偽造文書を作成し、会社の資金、約二千万円を横領致しました。これにつきましては近日、早急に振込にてご返却致します。今回の件、深く謝罪致します。
尚、私のこの行為に対しての処分、及び法的措置は、社の方針に従う事をお約束致します。私は全ての罪を認め、刑罰を受ける覚悟でございます』
万画一はやるせない思いでその手紙を加奈子に手渡した。
加奈子はその手紙を読むや否や、ぶるぶると震え始め、瞳から大粒の涙を溢れさせた。
そしてソファから立ち上がると、床に手を着き、加藤と志村に向けて土下座した。
「あ、いやいや、奥さん、そんな事はやめて下さい。すでにお金はご主人から振込で返却して頂きましたし、当方もこれについて刑事責任を問う様な事はしないつもりですので、どうか頭を上げてお座り下さい」
加藤がそう言い、志村が手を添え泣き崩れる加奈子を元のソファに座らせた。
「しかし、なぜ、公生さんは会社の金に手を着けたのでしょう? 何かお心当たりは御座いませんか?」と、これは万画一からの質問。
「はあ、私どもも藤原さんからのこの手紙を見るまで、不正には気付いて無かったのですが、調べてみますと、ここに書かれた通りでして、迂闊でした。けれど理由については、とんと見当が付かない訳でして……」
志村は気の毒そうな申し訳無さそうな、複雑な顔をしてそう返答した。
「普段、公生さんは会社ではどんな方でしたか?」
「ああ、それは、とても真面目で、部下の信頼も厚く、私も彼を一番信用して、仕事をしておりました。それだけに突然こんな事になるなんて、全く思っても見ない事なんです」
志村はそう言って加藤にも同意を求めた。加藤も黙って頷く。
その後、加藤と志村からは大した話は聞けず、ショックが大きい加奈子は一旦ここで家に帰って休んで貰う事にした。
万画一はもう暫く、会社内部の人達に話を訊いてみたいと思い、加藤、志村の許可を得て、社内にて調査をする事とした。
タクシーが来て、加奈子が乗り込むと、白猫のホームスは何故か万画一の足下に座ったきり、動こうとせず、抱き上げようとすると「ニャー!」と喚いて反抗し、頑として動こうとしなかった。
「仕方ないですわね。万画一さん、すみませんが、ホームスをよろしくお願いします」と言って加奈子一人が会社を後にした。
残された万画一はツンとすましているホームスを見て、やれやれと頭を掻いたが、直ぐに気を取り直して、
「では、公生さんが使っておられたデスクやロッカーは、今、どうされていますか?」と志村に質問した。
私物を含めてそのまま残してあるのでご自由にご覧下さい。そういう志村の言葉に従い、経理室へと案内された。もちろんホームスはその後をスイスイと着いて行く。
経理室にある藤原公生のデスクは今でも空き状態のまま、ひっそりと残されていた。万画一の見た所、綺麗に整頓されていて、デスク上にはパソコンといくつかの専門書、メモ用紙、電卓等が置かれ、特に変わった点は見られない。
引き出しを開けてみる。こちらも綺麗に整理されていて、ふと万画一は自分の部屋とは大違いだなと妙な感想を持つ。公生は生真面目な性格だったと伺い知れる。文房具や、クリップ、スティックのり、綴り紐など、小さなケースに分類され、乱雑さは欠片も無い。
二番目の引き出しを開けて見る。未記入の伝票、領収証等が何冊か小出しでストックしてあり、受け取った名刺を保管するバインダー型のノートがあった。万画一はそれをパラパラめくり、チェックする。銀行関係や取引先の担当者、各方面の業者の名刺がズラッと並ぶ。これを一つ一つ当たって行くのは大変だ。
とりあえず、それは置いといて三番目の大きな引き出しを開けてみる。ファイルがたくさん並んでいる。いろんな契約書や計算書類だ。見積書や稟議書、会議の資料などが並ぶ。ザッと目を通すが、これはと引っかかる物は何も無い。
と、一番手前の書類ケースの中に小さな黒い手帳を発見する。
しゃがみ込む様にその手帳を開いてめくっていると、いつのまにかホームスも前にやって来てその手帳を覗き込む。手帳には日記の様なページが続く、そうか、先月の末から過去に遡って何かあったか、もしかしたら手掛かりが見つかるかも知れない。そう思いながらパラパラとめくって行く。
と、あるページでホームスが手(前肢?)を差し出す。
「何だよ。ホームス、これはオモチャで遊んでる訳じゃないんだぜ」と万画一は笑ってみたが、ホームスは何か言いたげな目で手帳と万画一を交互に見る。
「うん? 何だ?」
すると、そのページから数回に渡り、人の名前と電話番号、それと三桁の数字が書き込まれている。
例えば、これは退職する二カ月前の日付け、中島 090 ×××× ×××× 300 と言った具合に半年前迄に遡って、こういうメモ書きを五件ほど見つけた。
万画一はそれらを自分の手帳に写し取った。
さて、次はロッカーだ。近くにいた女子社員に案内してもらってロッカー室に行く。
その途中、公生と個人的に親しかった方がどなたかいませんでしたかと尋ねてみたのだが、特にそんな人は思いつかないという。やはり、あまり人付き合いはしないタイプだった様だ。
女性に礼を言ってロッカーを調べる。
ロッカーの中は、殆ど空っぽだった。上の棚にタオルが一枚とネクタイが一本ハンガーにかかったまま、それだけ。ガランとしている。
「う〜む、ここには何も無しか……」と、そう呟いた時、ホームスがロッカーの中に入り込み、奥の隅を前肢の爪でガリガリと引っ掻いている。
「何やってるんだい、爪研ぎなら家でやりなよ」
万画一がそう言うと、「ニャー」と一声鳴いて爪の先に何かを引っ掛けている。
「お、おい、何だ? それ?」と万画一が指でそれをつまみ取る。
ヒラヒラとしたメモの様な薄い紙。
「あれ? これは……」
万画一は出て来たものを見て驚いた。
それは、これまで調査して来た公生のイメージからかけ離れたもの。
『キャバクラ ピンクのバナナ レイナ』
そんな文字が並んでいて、女子大生風の若くて可愛い女の子の写真がプリントされている。風俗店の営業用に手作りされたキャバ嬢の名刺だった。
経理室に戻り、志村に礼を伝えて会社を出た。
さあ、ここからは万画一探偵の腕の見せどころだ。
先ずは先にデスクで見かけた手帳に書かれた五件の電話番号の内一件に電話をしてみる。
案の定、消費者金融、サラ金だ。とすると横の三桁の数字は借りた金額だろう。五件の合計額は占めて千二百万。
二千万より少ないが、利息等を考えるとそれくらいの額になるのかも。
消費者金融は時間的に今日は間に合いそうもないので、キャバクラから当たってみる事にする。
『ピンクのバナナ』の名刺に書かれた住所に向かってタクシーを走らせる。もちろんホームスも一緒だ。
その店はすぐに見つかった。そういう系統のお店が並ぶ、一区画、ピンク色のバナナの絵に水着のお姉ちゃんが乗っかってセクシーポーズをしている。そんな看板はイヤでも目立つ。
探偵である事を告げ、支配人を呼んで貰う。白スーツにグラサン、いかにもヤバそうな若い支配人が現れる。
万画一の風態を珍しいものを見る様な目で下から上までジロジロ眺め回す。万画一の羽織の懐からミャーと顔を出したホームスを見てびっくりしてグラサンが外れ、目を白黒させた。
「まあ、とにかく、話は事務所だ」と言って店舗の奥へ向かう。
華やかな店内とは打って変わり、事務所兼ロッカー室は狭くて散らかり放題だ。片隅に事務机があり、その横の固いソファに腰掛ける。
万画一は藤原公生の写真を支配人に見せた。
「知らねえな」
こんな男が素直に本当の事を言う訳が無い。
「レイナという娘はいますか?」
「もうとっくに辞めてるよ」
男は無愛想にタバコを咥える。
「居所とか連絡先とか、教えて頂きたいのですけど……」
「そんなもの、ねえな」
「じゃ、レイナさんと親しかった人とか……」
「知らねえよ」
と、てんで話にならない。
すると、突然ホームスが何かを見てビクッと身体を起こし、フーッと唸り声を出す。
何を見てるのかとそちらに目をやると、グループ企業かなんかのロゴマークの入った表示版が壁に掛けてある。
「あれは、何ですか?」
黒い円の中に魚のイラスト、その横にアルファベットでKUROMASUの文字。
「は? 何でもいいだろ? ケッ、ネコが魚の絵に反応しただけだろ!」
よく見ると男のジャケットの襟にも同じイラストのバッジが着いている。どうやら会社の紋章みたいだ。
「ここはグループで多店舗経営ですか?」
「は? そんなこと、聞いてどうすんだよ」
「あはは、それ、僕の名前です」
「あ?」
「まあいいじゃないですか? それくらい教えてくれたって」
「客として来るんなら、歓迎してやるよ。店舗なら都内に八ヶ所はあるよ。それでいいか? そろそろ開店準備しなきゃならないから帰ってくれ、こっちは忙しい身なんだ」
と、そんな訳で店を追い出された万画一であったが、それから出勤して来る女の子達の中にレイナはいないかと張り込んだ。
夜になって客がポツポツと入り始めた。ここに公生が現れてくれりゃ、一挙解決なんだけどなと思ったけれど、そんなに都合よくは行かない。レイナらしき姿も現れ無かった。
「仕方ない、今日は諦めて、明日にするか」と万画一は呟いて、ホームスも「ニャン」と同意したようだ。
結局、夜遅くなってしまったので、加奈子のマンションには向かわずにホームスを連れたまま、割烹旅館・潮月の離れ、万画一の部屋に戻ることにした。
帰る道すがら、「ああ、腹減ったなぁ」と万画一が呟くとホームスも「ミャー」と呼応する。
「そうか、お前もお腹空いたよな。女将さんに何か作ってもらうよ」
ホームスは万画一の羽織の懐が気に入ったのか気持ち良さそうに丸くなって目を閉じた。
次の日は朝から忙しく都内を東奔西走した。
公生の手帳メモから拾い出した五件の消費者金融らしき事務所に実際に出向いて見ることにしたのだ。
メモには住所がないので、電話をして相談したい事がありましてと、客を装いアポイントメントを取って、所在地を聞き出した。
五件の内訳は次の通り、名前の横の数字はおそらく借りた金額と思われる。
中島 300 花沢 300 磯野 200
フグ田 200 伊佐坂 200
上段の三件が新宿、下段の二件は池袋だった。
万画一は再びホームスを懐に忍ばせ、教えられた各事務所へと足を運んだ。移動はタクシーばかりをそうそう使っていられないので、山手線を利用する事にする。幸いホームスは電車内では大人しくしていた。
さて、そんな風にして訪ねてみた各消費者金融は、どの事務所も似たり寄ったりであった。雑居ビルの一室、ワンルームの応接室を兼ねた事務所、ソファと事務机と観葉植物、意味不明な抽象画、殺風景なオフィスだ。応対に出た男達もどこか似たり寄ったりの顔つき、何れも一癖ありそうなタイプばかり。
しかし、驚いた事に、そこでも壁の一角に昨日『ピンクのバナナ』で見たのと同じ、円に魚のイラストロゴKUROMASUの表示版を発見した。
これは偶然なのか?
ホームスはそのマークを見る度、フーッと唸り声を出す。
一体このマークは何なのだろう?
万画一はさりげなく、それを指差し、
「どこかで見た様な気がするのですが、これは何なのですか?」と尋ねてみる。
この質問に対して、どこも皆「さあね」と質問をはぐらかし、明確な回答は得られなかった。
唯一、最後に訪れた店の伊佐坂という年配の男が、「クロマス会」という言葉を口にした。
口にしたと言うより、口を滑らせたという方が妥当で、その後、慌てて手で口を塞ぎ、それ以上の事は喋らなかった。まさかそれが単なる魚釣り愛好会のマークという訳ではあるまい。
探偵としての万画一の勘が働く。
あのマークとロゴの文字からは何かしら不吉で異様なムードがする。妖気というか怪しげな匂いが漂って来て万画一の背筋をぞっとさせるのだ。ホームスの様子もただならない。
キャバクラチェーン店と消費者金融は共に「クロマス会」という組織が関係している。それだけは確かだ。
これは調べてみれば何か掴めるかも知れない。馴染みのある小泥木警部を通じて警察に問い合わせてみるのも一計だ。
それはともかく、藤原公生について店側に問い合わせてみるのだが、顧客に関する情報は頑として口を割らない。写真を見せても、空とぼけて「知らないな」と言い張るのみ。
ホームスは万画一が店の男と話している間中、事務所内の床に降りて、部屋のあちこちを嗅ぎ回っていた。時々事務机の下に潜り込んだりして、「おい、コラ!」と咎められたりした。
万画一は融資を受けるか受けないか迷っている客を装い、金融を受けるための条件とか、利息や返済方法について聞き出した後、ゆっくり検討してみますと申し込みはせず、それぞれの店舗を後にした。
あれは三番目に入った磯野の店だった。ビルを出た所で、ホームスがシャツのボタンを口に咥えていて、それを万画一に見せて渡した。どうやら店内で見付けて咥えて来たらしい。
「ほー、なるほど、これがもし公生のものだったら、重要な手掛かりになる」
万画一はホームスの頭を撫でてやった。ホームスは「ニャン」と一声立てて気持ち良さそうにペロペロと舌で毛繕いを始めた。
午後からは、キャバクラ・ピンクのバナナのチェーン店を訪ね歩く。池袋から鶯谷、上野を回って、品川、渋谷、新宿とほぼ山手線を一回りした。
しかし、こちらも内容としてはどの店舗でも同じ様な扱いだった。レイナの事も、公生の事も、一様に知らぬ存ぜぬの一点張りだ。ここでもホームスは店舗内をうろつき回ったが、どうやら収穫は得られなかったらしい。
とっぷりと日が暮れてしまったので、とりあえず、高輪の加奈子のマンションに万画一とホームスは向かうことにした。
高輪の駅で降りてマンションへ向かう道を歩いて行く。ホームスは万画一の懐でスヤスヤ睡っている。人通りの少ない路地を通る。辺りはもうすっかり暗くなっていた。突然、万画一の後方からタタタッと足音が聞こえて来たと思った瞬間、誰かが万画一に殴りかかった。
間一髪体を交わすと、相手は黒服、黒マスクで帽子を被り、顔が見えない。手には何か棒の様なものを持ち、それを振り上げ、もう一度万画一に殴り罹ろうとする。
すると次の瞬間、万画一の懐からホームスがギャーという甲高い声を上げて男に飛び掛かった。
男は突然の猫の応酬に遭い、顔を引っ掻かれ、その場に仰向けにひっくり返った。だが、すぐに体勢を立て直すと一目散に走って逃げて行った。
「おい、待て! 何だ、あれは?」
万画一が男の逃げて行った方向を見た時は、もう姿は見えなくなっていた。逃げ足の早い奴だ。
「ニャー」とホームスが鳴く。
「オイ、大丈夫か?」と訊くと、
ホームスは道に落ちている何かを前肢でこんと突いた。
なんだろうと拾い上げると、キャバクラの男がしていたのと同じ、円に魚のイラストのバッジだった。
「これは……」
万画一はじっと、その紋章を見詰めた。
とにかく、そんな事がありながらも、なんとかマンションに辿り着いた。
加奈子は昨日よりは多少落ち着いた様子で万画一を迎えた。ホームスは疲れたと言わんばかりにサッと懐から飛び降りると所定の場所であるソファに飛び乗り、大欠伸をして、丸まって目を閉じて睡ってしまった。
万画一は消費者金融でホームスが拾ったシャツのボタンを加奈子に見せた。加奈子は一瞬、ハッとしてリビングを出て寝室に向かう。
そしてクローゼットの中から、一枚の白シャツを取り出すとリビングに戻った。
拾って来たボタンと白シャツに着いているボタンは完全に一致していた。その公生のシャツの袖口のボタンがひとつ取れている。これはその取れたボタンに間違いが無さそうだ。
これで公生が消費者金融に行ったという事実が判明した。おそらくそれの返済に充てるため、会社の金を横領したという事か。
そして会社に振込返却した金は、当然ダイヤをどこかに売却して換金したものに違いない。
一体、どこで?
それと問題はレイナというキャバ嬢の存在だが、公生がその女に貢いでいたという推測は出来るが、それを裏付ける証拠が見つからない。レイナの所在も不明だ。
加奈子にレイナの件を伝えるかどうか、万画一は迷った。まだ確かな事を掴んでないので、その件はもう少し調査を進めてからにしようと思考していると……。
そこへ突然、家の固定電話が空気を斬り裂いて鳴り響いた。加奈子も万画一も、それからホームスさえもビクッと身体を硬直させた。
加奈子が立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられる様に受話器を取る。
その時、万画一の視界が朧げに揺れた。
受話器を耳に押し当てて、二言三言話していた加奈子は、突然言葉を失うと、少しよろめいて壁に手をつき身体を支える。
それから静かにゆっくりと受話器を置くと、こちらを振り返った。
顔から血の気が引いていた。直ぐには言葉が出て来ない。
加奈子の身体がゆらりと揺れる。
ホームスが一声あげ、さっとソファを飛び降り加奈子の元へ走る。
一瞬、金縛りに遭いかけた万画一だったが、全力でそれを突き破り、脱兎の如く駆け出す。
加奈子は目眩を起こして、額に手を当てその場に崩れ落ちる。
床に倒れ込む寸前に万画一が身体を支えた。
「大丈夫ですか? 加奈子さん、一体、何が?」
加奈子は震える声で、途切れ途切れにこう伝えた。
「け、警察、からです。……主人と思われる、水死体が、……東京湾で、発見された と……」
悲しい結末を迎えてしまったこの事件。
警察で引き合わされた遺体は藤原公生に間違いは無かった。
警察の調査として、公式に自殺と断定された。
遺体確認、その他の手続きには加奈子夫人と万画一が立ち会った。
残された遺品に公生の財布があり、中には少しの現金と数枚の領収証(レシート)が残されていた。
レシートはどれも銀座の高級店で買ったブランド物の洋服、バッグ、時計、貴金属などであった。
その金額は合計すると約二千万円近く……。
後日、万画一は公生が買物をした銀座の高級店を訪ねた。
公生の写真を見せると、店主はちゃんと覚えていた。本人に間違いないと証言も得られた。時には若い女性を伴って来店したこともあると言うが、女性の方はサングラス姿で、顔がはっきりしなかった、と言う。
次に警視庁の小泥木警部を訪ねて行った。そこで『クロマス会』なる組織に聞き覚えは無いかと尋ねてみたのだ。
万画一は先日、夜道で襲われた話をして、その時拾った魚のイラストのバッジを見せた。
「そいつは驚きましたな。そんな危ない目に遭われたとなると放っては置けませんな」
「まだ相手がクロマス会と確定した訳ではないのですけどね」
「でも偶然という訳じゃないでしょう」
クロマス会という名前に、小泥木警部は聞き覚えは無いらしいが、詐欺、窃盗、風俗違反等に関する情報に詳しい署員を一人二人紹介してくれた。
その内の一人、捜査三課のニコラス刑事が『クロマス会』の名前を耳にした事があると告げた。
「詳しく教えて頂けませんか?」
万画一は藁にも縋る思いで食い付いた。
「いや、その実態ははっきりしないんです」ニコラス刑事は言った。
『クロマス会』というのは、黒淵鱒之介なる人物を会長とする暗黒組織であるとの噂があり、麻薬、売春、詐欺、窃盗、人身売買等の疑いを持たれている。しかし、その実態は把握出来ず、クロマス会が表舞台に出て来る事は無い。しかもその黒淵鱒之介は二年前に亡くなっている。
戸籍上の家族を持たない鱒之介だが、その跡目を自身の血を引く子に二代目黒淵鱒之介の名跡を託して、現在も『クロマス会』は存続しているという。但し、二代目鱒之介も実態が把握されず、年齢は勿論のこと、性別さえ不明である。そんな状況だという。
今回の藤原公生の事件に対するニコラス刑事の見解を伺ってみた。
「自殺であるという事は、ほぼ間違いないでしょう。レンタカーを借りて埠頭を突っ切りました。遺書はないですが、レンタカーを借りたのも本人ですし、一人で運転されてた事は確認されています。それに断定は出来ないものの、クロマス会は殺人に手出しはしないと見做されています。けれど、自殺に至った因果関係はあるでしょう。キャバ嬢に貢がせて消費者金融を利用させるという手口はこれまでにもありましたから」
「やはり」
万画一もそう推理していた。だがしかし、公生が自殺してしまうとは、迂闊だった。真面目な性格の男こそ自殺の可能性が高い。
結局、今回の件で『クロマス会』を追い込む事は不可能である。
売られたダイヤの行方が分かったら一報を欲しい旨をニコラス刑事に伝えて本庁を後にした。
さて、それからの日々も万画一はピンクのバナナのレイナを探すべく、各地に張り込んだりしたのだが、とうとうレイナの姿は確認出来ないままになってしまった。
さて、事件から約一ヶ月が経とうとした頃、万画一は『潮月』の女将・友恵と連れ立って高輪にある加奈子のマンションを訪ねて行った。
途中、女将はタクシーの中で盛んに、お金の事で困ってたのなら私がいつでも金庭先生を紹介したのに……、と悔しがった。
確かに。万画一もそう思った。けれどそれも、もう後の祭りだ。
部屋を訪ねると、葬儀も終わり、一段楽したのか、加奈子の顔にも少しの落ち着きを取り戻した様子が伺い知れて、万画一はホッとした。
もうすでに公生が自殺に至った経緯も加奈子には全て報告してある。
「今回は大してお役に立てず仕舞いで、本当に申し訳ないです」
万画一は加奈子に頭を下げた。
「いいえ、とんでもありません。真相を解明するべくご尽力頂き、大変感謝しております。これは、僅かで申し訳ないのですが……」
そう言って加奈子は万画一に幾らかの謝礼金を差し出した。
「いや、これは……」
と、万画一は一旦それを押し戻そうとしたが、友恵女将がそれを制して、
「万さん、受け取って頂戴。最初は私がお願いした事ですから」と言った。
「そ、そうですか、それじゃ、すみません、ありがたく」
と言って万画一は、その封筒を懐にしまった。
改めて頭を下げる万画一の膝の上に、横から白猫のホームスが走り寄り、ぴょんと飛び乗った。
「あ、ホームス! 久しぶりだね。お前がいなけりゃ事件の解明は出来なかったよ、暴漢からも助けて貰ったし」
「ミャー」
万画一はホームスを持ち上げ頬擦りした。
「暴漢⁉︎」
加奈子と女将にはその話をしてなかったのでびっくりしている。
「で、実はまだ、いくつか継続して調査している事がありまして、レイナの行方もそうですが、ダイヤがどこに売られたか、それも判然としていないのです。そちらは警察の手を借りないとなかなか調査するのは難しい所です。あと、クロマス会の件も」
万画一はボリボリと頭を掻く。ホームスはフケが落ちるのを避けて抗議の声を上げる。
「ダイヤの件はもう、どうでも構いません。それで借金も無くなり、会社への返済も済んだとしたのなら、充分役に立ったと考えていますので」
加奈子はそう言って心持ち頭を下げた。
「はあ、でも何か進展があれば、その都度ご報告させて頂くつもりです」
加奈子はそれには無言で頷き、紅茶を一口飲んだ。
「でも私、未だに信じられないんです。主人がキャバクラの若い娘にそこまで入れ込んでいたなんて、とても、とても……」と、独り言を言う様に呟いた。
万画一は言葉もなかった。後々その言葉は万画一の胸の奥で何度もこだまする事になる。
女将は加奈子の肩をずっと抱いて慰めていた。
「それでね、万画一さん」
暫くして、気分を変える様、加奈子は少し明るい声で話しかけた。
「はい、何でしょう」
「よろしかったら、ホームスを万画一さんの所でお預かりして頂けないでしょうか? もう女将さんには了解を得ています」
「え、僕がですか?」
「はい」
女将もニコニコと頷く。
「はあ、それなら僕は構いませんし、むしろ、ホームスには助けて貰うことも多くて、嬉しいことです。でも、加奈子さんはそれで良いのですか?」
「ええ、実は、私はこのマンションを引き払って、実家のある信州でアパートを借りて暮らすつもりなんです。そこはペット禁止のアパートですので、ホームスを連れては行かれないのです」
「あ、そうでしたか、それなら、分かりました。お引き受けします。ホームスいいかい? うちへ来ても」
「ニャー!」
ホームスも嬉しそうに返事をした。
「うちは料亭だから、食べ物には困らないわよ」
女将もホームスに歓迎の意を示した。
こうして万画一探偵と白猫ホームスは揃って『割烹旅館・潮月』の離れに居候する事になった。
だがこの先、一人と一匹は『クロマス会』二代目黒淵鱒之介との長い戦いが待っている事を、その時はまだ知らずにいた。
万画一探偵シリーズ第五話
『白猫ホームスと探偵』 おわり
注: この物語はフィクションです。実在する人物、団体、動物等には関係ありません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?