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LIFE 27

(ライフシリーズ第27話)

(ヒロ)
ー前回ヒロ・ラストよりー
 テーブルの上には、前田結衣の名刺とケイトの写真、それとスマホが並んでいる。
 ヒロは徐にスマホを手に取り、頭の中に記憶している十個の数字を思い浮かべ、そのナンバーを液晶画面に表示させた。
 すーっと息を深く吸い込んだ後、ヒロは発信ボタンを指先でタッチした。
 呼び出し音がヒロの耳に響く、1回、2回、3回、…
 相手が出る。
「もしもし、あの、オレ…、ヒロですが…」
 電話に出た相手が「あっ」と小さく声を漏らした。

ーーヒロか?久しぶりだな。お前、本当に、ヒロなのか?
ーーご無沙汰してます。畑野さん。ヒロです
ーーお前、今どうしてるんだ? ずっと心配してたんだぞ
ーー申し訳ありませんでした。

 電話の相手は畑野建築設計事務所の代表で建築家・畑野浩介という。ヒロが学生時代3年間面倒を見て貰った相手だ。この畑野の仕事を間近で見てヒロは建築設計士への憧れを抱いたのだった。ヒロにとっては恩師の様な存在である。
ーー畑野さん、近い内にそちらへ伺ってもよろしいでしょうか?相談事というか、いろいろお話を聞いて頂きたい事があるのですが…。
ーーおう、そうか、おれの方は大丈夫だ。いつ来れる?明日か?明後日か? いつでも待ってるぞ。

 胸にジーンと来た。数年振りの突然の電話だというのに畑野さんはやっぱりあの当時のままの畑野さんだ。
 その後、簡単な近況を語り合った、それから何を喋ったか、分からないまま、気がついたら礼を述べて受話器を置いていた。ただ明日の午後には事務所を訪ねるという約束だけは忘れずに取り付けていた。
 そして翌日、朝一番の列車に飛び乗り、ヒロは東京に向かった。畑野建築設計事務所があるのは東京都目黒区である。
 在来線を乗り継ぎ新幹線に乗り換え、東日本を南下する。盛岡を過ぎ、仙台を過ぎ、福島、宇都宮、大宮と、徐々に東京が、近付いて来る。窓外に高層ビル街が見え隠れする度にヒロの心は静かに高まり始めた。
 東京駅には昼頃着いた。このまま直ぐに目黒に向かうのは予定より早過ぎる気がしたので、地下街をぶら付き、目に付いたカフェでサンドイッチを食べた。コーヒーも飲んだが、あまり美味しくはなかった。やはり「ライフ」のコーヒーの味は格別なのだと思い知る。
 せっかくなので銀座もぶらぶらしてみた。土曜日なので人で賑わっている。この辺りは6年前とそう変わらないと思う。いろんな高級ブランドのお店をウインドウショッピングして回る。と、突然畑野さんに何か手土産でも買わなければいけないと思い付く。そうは言っても何かと拘りの強い畑野さんに都合の良い手土産はそう簡単に見当たらない。結局、銀座を一回りした後、再び東京駅地下街に戻って、お土産屋さんで浅草人形焼を一箱買った。
 そして山手線に乗って目黒駅まで行く。ここら辺りは懐かしい。変わっている様な、変わっていない様な…。目指すべき畑野建築設計事務所へは道を誤る筈がない。通い慣れた道だ。目黒川沿い方面に向かって15分程歩く。
 目指すビルが見えた。この界隈では少し古いレトロ調のビル。昔から変わっていない。入口を入り3階までエレベーターで上がる。扉が開くとその前に懐かしい「畑野建築設計事務所」の文字。記憶の中にあるそれと何も変わらない。まるで昨日のことの様だ。少し感慨に浸る。
 恐る恐るドアを開いて部屋の中に足を踏み入れる。この先の話が上手く進むか否かで自分の人生が大きく変わる様な気がした。
「こんにちは」カウンター越しにその向こうにいる事務員らしき女性に声を掛ける。知らない人だった。
「はい、こんにちは」
 女性はヒロより一回りくらい年上だろうか、メガネの奥で優しそうな目が細くなる。
「あの、ヒロと申しますが、畑野さんは、いらっしゃいますか」
「あ、所長ですね。すぐ来ますから、どうぞ、こちらへ」
と、左側のミーティングルームと書かれた部屋に案内される。室内は簡素な部屋だ。以前はなかった気がする。ソファーに腰掛け、暫く待つ。さっきの女性がお茶を出してくれた。礼を言うと、柔らかな笑顔で「粗茶ですが」と言って楽しそうに笑う。明るい人だ。
 事務所には後一人か二人奥のデスクに誰かいた様な気がした。以前ヒロがバイトをしてた時はアシスタントに若いエージさん、それから丸山さん、山下さんだとかの先輩がいた。今はどうなっているのだろう?
 5分程したところでドアの向こうで急にバタバタという音がしたかと思うと、突然ドアが開けられ、「よぉ!」と畑野さんが満面の笑みで顔を出した。
 ヒロはすぐに立ち上がり、「ご無沙汰してまして、どうもすみませんでした」と深々と頭を下げた。
 畑野さんは「いやぁ元気そうじゃないか。良かった。良かった」とヒロの肩や頭をポンポンと叩く。
「まあまあ座れよ」と言われて向かい合ってソファに腰掛ける。
 6年振りの畑野さんは見たところ以前と何も変わっていなかった。あの頃は30代中頃だったが、今はもう40歳を越えたのかも知れない。背が高く中肉中背の体型は相変わらずで顔付きは精悍でなかなか渋いイケメンである。
「あ、そうだ、これ皆さんでお茶の時間にでも、どうぞ」と言って土産に買って来た人形焼を取り出す。
 「お、人形焼じゃないか!おれの好きなもの覚えててくれたんだな」
と畑野さんはまたまた上機嫌な笑顔を浮かべる。今日の畑野さんはかなりハイテンションな畑野さんの様だ。
 だが、こうは見えても畑野さんという建築家はその仕事においては一切の妥協を許さず、時に相手が大切なクライアントであろうとも激しく意見を対立させる事があり、更に絶対自分の信念を曲げる事がなく、最後には相手を毒づく様な不用意な言葉を投げつけたりして、常に周囲をハラハラさせる人だ。
 畑野さんは早速人形焼を一つ取り出し、美味しそうに頬張りながら、
「…んで、話ってなんだ?相談事とか言ったな」と話を向ける。
「ああ、はい、実は…」
 そして、ヒロは、意を決して、もう一度、建築設計士を目指して畑野さんの元で修行をしたい。そして将来、その国家資格取得を目指して、専門学校へ通いたいと思っていると胸の内を伝えた。
 畑野さんは人形焼を一人で二つも三つも平らげ、フンフンと頷きながら黙ってヒロの話を聞いていた。
「それが、今のオレの希望なんです。もう一度やり直したいんです。畑野さん。どうかお願いです。オレをここに置いてください」
とヒロはソファの横に出て床に跪き手を着いて頭を下げた。
 畑野さんは暫く黙ってモグモグと人形焼を味わい続けている。
 ヒロは脇の下に汗が吹き出て来るのを感じていた。勢いのまま東京まで出て来たものの、果たしてどういう返事を貰えるのだろうか? 今はひたすら、こうして頭を下げてお願いするしかない。
「…ヒロ」
 やや間があって畑野さんが今までより幾分低い声を出した。
「ハイ」背筋に緊張が走る。
「これ、…美味いな」
「…あ、人形焼の話ですか?」
「お前、もしかして、おれがこの人形焼に釣られて、お前を雇ってやるとでも言うと思ったのか?」
「は?、いえ、そんな訳では…」
「違うのか?」
「はい、人形焼は単なる手土産です」
「そうだろうな」
 美味そうな顔して、また一つ人形焼をパクつく。
「・・・」
「・・・」
「で?」
「うん?何だ?」
「いや、だから、オレの事を…」
 畑野さんは突然腕を組み、難しい顔付きをする。
「うん、それなんだが…、実は、今、不景気でな。新しく人を雇うなんて、ウチにはそんな余裕がないんだ。悪いな、諦めてくれ」
 畑野さんはそう言い放った。
「・・・」
 ヒロは言葉を失くした。やはり、ダメか…、ここに戻ってやり直したいと思ったけれども、相手には相手の都合というものがある。6年も経ってしまってからいきなりこんな事を言っても、そんなに都合よく行くわけは無い。
 気不味い沈黙の中、さすがにヒロも項垂れてしまった。しかし、こうしていても、今更どうなるものでもない。やっとの事で、
「…、分かりました。仕方がないですね」
 と力無く、そう返事をした。
 すると、畑野さんはまたまた低音ボイスで、
「…ヒロ」と呼び掛ける。
「ハイ」
「なんて事をな…」
「え?」
「なんて事をな、おれが言うと思うか?」
 畑野さんはヒロを指差して声を上げて笑った。
「な、な、なんですか?」
「冗談だよ。冗談」
 畑野さんはまるで子供の様に手を叩いて笑いコケる。
「え?え?一体何が冗談で?」
「お前の席はあれからずっとあのままだ。いつまでも待たせるな。いいから早く帰って来い」
あはは、あははと笑いながら畑野さんはヒロの頭を抱えて前後に揺さぶったり、ヘッドロックをかましてコノヤロ、コノヤロと口走る。
「畑野さん…、痛いっす」
 そう言いなごらヒロも笑ったが、涙が止まらなくなって困った。
 全く畑野さんの悪戯好きには困ったものだ。でも良かった。ホッとした。
 事務所には先輩のエージさんもまだ勤めていた。エージさんもヒロを見た途端、「ヒロ、おかえり〜」と言いながらハグをして歓迎の意を表してくれた。
 当時いた後の二人、丸山さんは独立し別に事務所を構え、山下さんは別の事務所に移って行ったそうだ。またいつかお会い出来たらいいなと思う。
 その晩は、畑野さんに連れられて近くの居酒屋でご馳走になった。ヒロとエージさん、それから新しく入ったアシスタントの横山さんという若い女性が合流した。経理の沢木さん(最初にお茶を出してくれた事務の人)は家族の夕食準備があるとの事で家に帰った。
 そこでは随分久しぶりにみんなと楽しくワイワイやった。事務所の雰囲気は以前と同じくとても良さそうだ。畑野さんは相変わらず目黒の高級マンションで気ままに独身生活を楽しんでいるらしい。
「それからな、ヒロ」畑野さんはご機嫌な様子でこう語った。
「今おれは近くの専門学校で臨時講師をやってるんだ。お前、専門学校に行きたいと言ってたな。おれが紹介して推薦するからそこへ行け」
「え、本当ですか?」
「本当だよ。明日、入学願書を取りに行け。来年度の提出期限は今月末までだからな」
 話がとんとん拍子に走り始めている。動き始めてみれば人の運命なんてこんなにコロっと変わって行くものなのか。夢でも見ているみたいだ。
 しかし、よく考えると大変なのは、むしろこれからだ。ヒロには何せ6年間ものブランクがある。その空白を埋めなければ、仕事にも勉強にも付いて行けない恐れがある。つまり今後夢が叶うかどうかは自分自身の頑張り次第なのだ。
 だけど、それは望む所である。険しくて高い山ほど挑戦のしがいがある。
 ヒロは改めて深呼吸をして、大きく息を吸い込んだ。
 その夜、ご機嫌に泥酔した畑野さんはエージさんに担がれる様にして帰って行った。気分が高揚して酔いが回らなかったヒロはその後ろ姿を見ながら何度も頭を下げて見送った。

 その日は五反田のビジネスホテルを予約していた。ヒロは寝る前にナオ宛のメールを送信した。
ーー訳があって今、東京に来てる。明後日には帰るから来週どこかで会いたい。
 ナオからメールの返事はその日の内には来なかった。

 翌日、目が覚めると、ヒロは電車を乗り継ぎ、鎌倉に向かった。
駅を降りるとタクシー乗り場へ向かう。乗り場にはタクシーが何台か待機していたので、ヒロは先頭のタクシーに乗り込む。
「◯◯霊園まで」とヒロは運転手に行き先を告げた。
 タクシーは鎌倉市郊外の高台の方へと道を進めた。緩やかなカーブを何度か曲がり眼下に海が開けて見えた頃、目的地に到着した。料金メーターは1500円程だった。
 霊園は広大な敷地で、丘の斜面から広く海が見渡せる景色の良い所だ。
 管理棟で花を買い、水桶を借りて井戸水を汲む。区画整理がきちんとされていて、マップを見て場所を確認する。
 右手に水桶、左手に花を抱え、綺麗に整備された芝生の小径を歩く。
 目的の墓石はすぐ見つかった。比較的大きくて立派な墓石だ。
 墓石の前面には「三浦家の墓」と記されている。
 ここがヒロの恋人ケイトの眠っている場所だ。
 ここに来るのは二度目になる。一度目は6年前の冬の寒い小雨がパラつく日だった。それはそのままヒロの心模様を表すかの様で、「辛かった」の一言しかない。
 ヒロは持って来た花を左右の花立に飾り、水桶の水を柄杓で水鉢に水を注ぐ。
 墓石を前にしてヒロはその場に腰を屈めて両手を合わせる。
そして、静かに心の中でケイトに語りかけた。

ーーケイト、あれから随分、時間が経ったね、
 あの時からずっと、オレは一日足りともあの日の出来事を忘れた事がない。
 そして、オレは、今でも後悔している。
 何故、キミや、産まれて来るはずだった新しい生命を守ってやれなかったのか…。
 正直に言うよ。キミから妊娠の可能性があるという事を聞いて、確かに嬉しかった。だが、同時に不安も大きかった。
 あの頃、オレはまだ学生で就職は畑野さんの所と決まってはいたが、まだまだ修行中の身だった。
 それが、家族を持ち、子供を持ち、一家の柱として暮らしを守っていけるか、父親として子供をちゃんと育てていけるか、何をとっても不安で自信なんて欠片も無かった。
 だから、あの日、ケイトが産婦人科へ向かう時、オレは、卒論を仕上げなければいけない事を理由に、付きそう事を躊躇った。
 本当は卒論なんてもう殆ど仕上がっていたから、同行する事は無理ではなかった。
 ただ、産婦人科という所へ足を踏み入れる事、待合室で他の女性達の中に身を置く事、診察の結果を直ぐに知らされる事、それらを怖れていたからなんだ。
 今にして思えば、せめて近くまででも一緒に付き添って行き帰りを共にするべきだった。産婦人科の中に入らなくとも近くのカフェテリアや古本屋で時間潰しなど簡単に出来たはずなのに…。
 そんなオレにキミはいつもの優しい眼差しで微笑んでくれたね。
「いいのよ」というキミの声だけが今でもハッキリと耳に残る。
 ケイト、キミの22歳よりあの時のオレは、まだまだ未熟な22歳だったんだよ。
 帰り道、駅に着いてキミは携帯に電話をしてくれたね。その時は本当に嬉しかった。それは本当だ。信じてくれ。オレはその時になって漸く家庭を持ち、夫として、父親として、やって行く事の覚悟を決めたんだ。
 それが、それが、……
 あの事故はオレがその場にいたら防げたのかどうかは判らないが、けれど、けれども、その場にいてやれなかった。
 そうしてさえいれば、もしかしたら、もしかしたら、何かが変わっていたかも知れない。そう思うと本当に辛くて、辛くて、何度も、何度も、自分を責めた。
 あれから、北の寒い町で過酷な仕事に就いた。毎日毎日を虚無的に過ごした。
 6年もの間・・
 そして、聞いてくれ、今オレは、あるきっかけを掴み、もう一度、オレ自身の人生をやり直す事を決めたんだ。来月から畑野さんの事務所に復帰する事も決まった。来年からは専門学校に通って、設計士の資格を目指す。
 ケイト、オレは、もう一度、自分の人生をやり直してもいいだろうか? そこにケイトはいないけど、この先、新しい人と出会い、新しい人生をやり直してもいいかい?
 キミが居なくてもオレはオレの人生を歩いて行かなけりゃいけないんだ。
 どうか、そんなオレを、許してくれ。

 ヒロは長い間、その場に蹲り、目を閉じて、静かな沈黙の世界に身を鎮めていた。こんな陽光の降り注ぐ明るい秋晴れの昼日中だというのに、自分がまるで暗い井戸の底に取り残された小さな石ころの様に思えた。どれくらいの時間が経ったのかさえ判らなくなった、その時。
 ふいにカサリという物音がした。
 ヒロは涙に濡れた瞳を開いて、そちらに顔を向けた。

 その人は海を背景に逆光の中で慎ましい姿をシルエットに映し出した。どうやら黒衣装を纏ったご婦人の様だ。怪訝な顔をヒロに向けて、ほんの少し首を右に傾ける。
「あら、あなた、確か、ケイトの…」
と呼びかける。
「あっ」
 ヒロはびっくりして慌てて立ち上がる。この方は、確か、ケイトのお母さまだ。
「どうしたの?」
 ケイトの母親の背後から、若い娘が声掛ける。
 驚いた。
 一瞬ケイトかと思った。これは妹さんだ。当時は高校生だった。
 更にその後ろから体格の良い温和な顔付きの青年が幼児を抱いて現れる。
「ご無沙汰しています。ヒロです」
「あ、やっぱり、貴方、ヒロさんだったわね」
 ケイトによく似た明るい笑顔が溢れる。
「お参りに来て下さったのですね。ありがとうございます」
 ケイトの母親、そして娘夫婦は改まってヒロに頭を下げる。
「いや、ちょっとこちらに用がありまして近くまで来たものですから」
 ヒロはまごついて答えた。
「あら、そうですか、それは、それは、本当に有難う御座います。私達、今日はケイトの七回忌の法要をしていたものですから」
 そうか、もう七回忌の時期になるのだ。場所を退いてヒロは頭を下げ、それではと、その場を辞去しようとする。
「あのう、ヒロさんは今どちらで何を?」とお母さまが声掛ける。
「いや、伯父のやっかいになってるんです。遠い北の町で」
 東京に戻って来る事は言わずにいた。
「そうですか、それは遠い所から…、わざわざ」
「いえ、断りも無く勝手に来てしまってすみません。では失礼致します」改めて深々と礼をして、ヒロは、家族の脇を通り過ぎ、帰ろうとする。と、再び背後から声を掛けられる。
「あの、ヒロさん」
「はい、何か?」
「どうか、お元気で、お暮らし下さいな。それが一番あの娘の供養になります」
 黙って頭を下げた。有り難い言葉だった。
 皆さんこそお幸せに、と言葉を述べるべきかと思ったが、言うまでもなくケイトの残された家族は皆、幸福そうな顔つきをしていた。妹夫婦達の睦まじさを見ていると、眩いくらいの生き生きとした輝きが伺えて、こちらまで喜びが込み上げて来る。
 本来ならあの中にケイトが…、いやもうそれ以上、考えるのは止めよう。霊園を後にした。
 電車に乗る前に、鎌倉駅前で漁協用のお土産にと鳩サブレを一箱買った。ふとスマホを見ると、ナオからメールの返事が届いていた。
ーー分かりました。気を付けて
と一言。
 その日は五反田のホテルにもう一泊して、次の日、畑野さんに教えられた専門学校に行って入学願書の書類を貰って来た。
 それから、畑野さんの事務所にもう一度顔を出して、今月いっぱいで向こうを引き払い、引っ越して来る旨を伝え、2週間後に願書提出と引越し先を決めるためにまた上京する約束を取り付けた。早速来月から正式に畑野建築設計事務所のアシスタントとして勤務する事が決定した。
 畑野さんはその瞳をキラキラ輝かせながらこう言った。
「ヒロ、お前は6年間の空白を気にしているかも知らんが、それが無駄だったかどうかなんて誰にも判るものじゃない。気にするな。大切なのはこれからどうするかだ。それによってその空白に意味を見出せるかも知れん。ほら誰だって大きくジャンプするためには一度しゃがみ込むだろ。そんなもんだ。分かるか?」
 言いたい事は分かった。それより畑野さんの人に対する心根を感じて嬉しかった。感謝しかない。やはり、この人の下で勉強したいと改めてそう思った。

 その日の夜、北の港町に戻ったヒロはすぐに伯父の家に向かった。
 伯父は長い間、黙ってヒロの話を聞いた。
「それが、お前の下した結論なんだな」
「はい、申し訳ないです」
「いや、謝らなくてもいい」
「前田建設さんにはすぐに…」
「いや、それは私の方から伝えよう」
「それで、良いんですか?」
「もともとこれは前田社長から私に持ち掛けて来た話だからな。お前の返事はこちらで話しておくから心配するな。それから漁協の方も大丈夫だ。後釜は沢山候補がいる。手配はすぐに済ませる」
「何から何までお世話になって、すみません」
「なあに、今までよく頑張ったよ。やっと元に戻る気持ちになってくれて、これで私の肩の荷も下りるよ」
 伯父はしみじみそう言って照れた様に笑みを浮かべた。
 ヒロは6年分の想いを込めて静かに頭を下げた。

 自分の部屋に戻ったヒロは早速荷物を少しずつ片付け始めた。殆どのものは必要なく捨ててしまえるものばかりだった。レターケースの中から便箋を見つけ出し、一筆したためた。
 それから部屋の隅に置いてあるアコスティックギターを手に取り、これだけはこの町に置いて行こう、そう思った。大きな決断をして旅立つ時には、それまでのものと決別しなければいけない時でもある。
 旅立ちと決別。いつでもそれはセットでやって来る。
 それからナオにメールを送った。
ーー明日、仕事が終わったら一緒に食事をしよう。夕方迎えに行く。

 ナオからはすぐに返事が来た。
ーー分かりました。お待ちしてます。
 
 ヒロはこの町でやるべき事は、全てやり尽くしたと感じていた。6年間、何もない様でいろいろあった。特に今年の夏にあった災害の事は忘れない。多くの出会いもあった。それもやはり今年、ナオ、チカ、ハルト、ゲンさん、そして前田結衣…。それらひとつひとつに何かしらの結論を見つけて物事は進んだ。ひとつのステージが終わり次の新しいステージに進む。そんな時が来た様だ。
 けれど、ナオとの事はどうだろう?これで終わりになるのか?それとも…、しかし、もう後戻りは出来ない。自分の信念は変わらない。確信している。明日ナオに会って確かめたい。ナオの気持ちを。どんな答えであっても受け止めるその覚悟は出来ていた。

 久しぶりの上京、久しぶりの出会い、その目まぐるしさに快い疲労を覚え、ヒロはその日、深い深い眠りに就いた。まだ見ぬ明日の夢を見て。

 こうして、この秋、止まっていた時計がひとつ、再び動き始めた。


続く

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