見出し画像

妄想タクシー 7 真夜中の花屋さん

 今は火曜日、早朝、午前五時。
 中村は紗妃との『真夜中の花屋さん』の業務を終えて、車を走らせていた。
もうすぐ青葉台三丁目のバス停付近、「婦人服いとうや」の前を通り過ぎる時分だ。
 本当は早く家に帰って自室のベッドに潜り込みたかったのだが、一応、これは自分の仕事である。
客が居ようが居まいが仕方ない、週に一度だけ、ここを走り抜けておくのが自分自身のルールだ。そういう決められたことを中村は大切にしていた。もちろん決めたのは他ならぬ自分ではあるのだが……。
 それにしても、火曜日の午前五時は少し体力的にキツいと思ってしまう。せめて『水曜の朝、午前三時』にしておけば良かったなどと、つまらない事を考えながら、かえで通りを北上させていた。

 その少女を見た時にほんの少しの既視感があった。でもそれはほんの一瞬の事であり、直ぐに心のどこかに消え去ってしまった。
 まだ未明、いや、空がほんの少し明るくなりかけて来たか、こんな時間にも関わらず、制服姿の少女が道端で小さく左手を上げてタクシーを停める光景は何だか不思議な気がした。

 中村は少女の横を少し通り過ぎた所で車を停めた。車とはもちろん『水色のタクシー』である。
後部座席のドアを開けると、おずおずと少女は乗り込んで来た。かなり戸惑っている様子が伺える。
 まだ早春の寒い朝、少女の頬は寒さのためか若干赤みを帯び、額におろした黒髪は夜露なのか朝露なのか、水分を含み光沢を湛えている。

 座席に乗り込んでそわそわしている少女を見て、中村は思ったよりその娘が随分と幼い事に気が付く。中学生くらいだと思った。まだほんの子供の面影を残している。
「ほっ」とか「はっ」とか吐息の様な息を洩らして呼吸が定まらない少女に中村は問い掛けた。
「大丈夫ですか?」
 タクシーの運転手が乗り込んで来た客に対する言葉としては少々不似合いな質問だった。だが、それほど少女の挙動は不審を極めていた。
「いえ、あの、はい、でも、ホントに……」
 少女の言葉は殆ど文章にならない。
「どうかしましたか? ゆっくり落ち着いてくださいね」
 中村は丁寧に言葉を紡いで、優しく語りかけた。
「本当だったんですね」
 たっぷり間を空けて少女はそう言った。
「何がです?」
「水色のタクシー」

「誰かからお聞きになりましたか?」
「学校の……、先輩から、です」
「学校の先輩」
「はい」
「中学校ですか?」
「そうです」
「中学生がこんな時間帯に一人で街に出て来るのは、おすすめ出来ませんね」
「すみません」
「謝らないでください。叱っている訳では無くて、心配だからです」
「あ、ありがとうございます」
「では、行き先をお願い致します」
「は、はい、あの、かこ……、かこがわ……」
「加古川駅ですか?」中村はバックミラー越しに優しく少女を見て尋ねた。
 少女は初めて中村の顔をミラー越しに見詰めた。そして、ホッとした表情を浮かべると、今度ははっきりと言い直した。
「過去があるのは北ですか?」


 過去があるのは北ですか?
 それはこのタクシーの合言葉。中村は満足そうに頷いて笑みを返した。
「ようこそ、思い出タクシーへ。運転手の中村です」
 少女はようやく安心した様に肩の力を抜いた。

 それから中村はこのタクシーのルールを説明した。

1.目的地は『自分が登場する過去』だけ
2.過去を変えることはできない
3.過去にいられるのは4時間だけ

「もうこれはご存知でしたか?」
「ええ、先輩から聞きました」
「そうですか、では行きたい過去の年月日と時間、そして場所をお伝えください」

 そして、少女が伝えたのは、十年前の今日、南山動物園にある遊覧池のボート乗り場、時刻は午後四時。

「分かりました。出発致します」
 中村はタクシーを発車させた。エンジン音は無く、静かに滑る様に街中を移動して行く。

 暫く行くと街の灯りや明け方の空に浮かぶ星の瞬きが滲んで矢の様に前方から後方へと流れ出した。それは時々、形を変えてまるで万華鏡みたいに色鮮やかにフロントガラスを彩った。

「少しお話を聴かせて頂いても構いませんか?」
 中村がそう切り出した。
「ええ、どうぞ、何なりと」
「あなたがこのタクシーの事を訊かれたという先輩は、このタクシーをご利用された事がある方ですか? あ、もちろんお話出来る範囲内で結構です」
「ええ、そうだと思います。でも、なんて言うか、とても信じられない話で……」
「信じられない話?」

「はい、先輩とは、あれから丁度十年、会っていなくて……」
「十年間、会ってない先輩? それはちょっと妙ですね」
「はい、妙なんです」
「そもそも十年前だと、あなたはいくつだったのです?」
「私は中学二年から三年に上がる春休みでした。先輩は春から新しい高校に入学する事が決まっていて、最後の思い出にと動物園デートに誘って頂いたのです」
 中村は混乱した。
「何か計算が合いませんね。あなたは今中学生なのでしょう? 十年前に中学生だった訳がない」
「ええ、そうですね。本当の私はもう大人になっているはずなのです」
「大人になっているはずって、それは、どういう事ですか?」
 謎めいた話に中村はますます混乱の度を高めた。

「先輩は私の憧れの人でした。それは十年経ったいまでも変わりません」
「いや、ちょっと待ってください。あなたが先輩を慕っている気持ちは分かりますが、この『思い出タクシー』はまだ始めてやっと一年足らずですよ。何故、先輩は……、あ、そうか、メールとかLINEでの繋がりがあるのですね。それでこのタクシーの情報を聞いて……」
「いえ、先輩とはあれから何のやり取りもありません。SNSやTwitter、LINEも繋がっていなくて、連絡先さえ知りません」
「えっ、それなら何故?」
「夢を見たのです」
「夢、ですか……」
 中村はちょっと話がややこしい方向に向いてしまいそうだと、危惧した。
「先輩が夢に現れて、火曜日の午前五時、青葉台三丁目のバス停付近、『婦人服いとうや』の前に行きなさいと、私に告げたのです。そこで水色のタクシーに乗ること、仕組みやルールも教わりました」
「それは、随分、具体的な夢ですね」
 どこかで仕入れた都市伝説を夢に見たと信じてる少女が少なからず居る事を中村は知っている。
 大人になっているはずだという話も夢見る少女が言いそうなことではある。
 ただちょっとばかり、物語として上手く構築させている。そんな気がした。
「もちろん、そんな話、すぐには信じられませんでした」
「それは、そうでしょうね」
「でも、朝起きたら、玄関の靴箱の上にバスケットに入った花束が置かれていて、メッセージカードが入ってました」
「えっ、花束?」
 ハンドルを手にする中村の両手が強張った。
「そこには『あなたの人生を大切に』というメッセージと共に先輩の名前が書かれていました。しかも、花は勿忘草とサクラ草でした。どちらも私の好きな花です。先輩は覚えていてくれたんです。私のことを」

「なるほど、そうですか。それなら私も何となく分かったような気がします。あなたが言う先輩という人にも心当たりが有ります」
「先輩を、知っているのですか?」
「知っているというか……、あ、そう言えば、先程、あなたがその制服で道端に立っているのを見た時、ちょっとした既視感が有ったのです。多分、私もその頃、先輩を車に乗せたことが有るのですよ」
「このタクシーにですか?」
「いいえ、その頃は私も学生でしたから。マイカーですよ。スキー帰りの朝のファミレスの前の通りでした。今あなたが着ている制服と同じ制服を着て、その人は高校入試に間に合わないと項垂れていました」
「そうなんですか! じゃ、その時初めて先輩に逢われて」
「いや、正確に言うと、逢うのはそれが二度目なんですがね。でも、先輩はその後、高校入試を無事終えて、あなたと動物園デートをされたと言うことですね」
「はあ、そういうことになります」
 その時の様子を瞼に浮かべて、中村は当時に想いを忍ばせた。

「でも、どうして、その後、十年もあなたと先輩は会わなかったのですか? それに、今のあなたがその時のまま成長していないというのは、先輩との間に何かがあったのですか?」
「いえ、そういう訳ではありません。先輩は初めて会った時から終始優しくて、何かと私を励ましてくれました。先輩がいなければ、私は、あの時……」
 何か複雑な事情でもありそうな気がしたけれど、中村はもうすでに南山動物園の駐車場に車を乗り入れていた。時刻もまもなく午後四時になる。
「到着しましたよ。遊覧池までは徒歩でないと行けません」
「はい」少女はシートベルトを外した。そしてドアノブに手を掛けた所で中村に向かって、
「あの」と声を掛けた。
「良かったら、私と一緒に行って貰えないでしょうか?」
 少女の問い掛けに中村は逡巡した。本来なら特別な理由がない限り付き添いはしない。だが、今回は別だ。何しろ少女の逢う相手があの時のあの人であるならば、逢いたいという衝動に駆られる。
「行きましょう」中村はタクシーを降りた。

 少女と並んで動物園の入口を入り、中村は園内MAPで池の場所を確認し、そちらに向かった。
「それで、あなたは先輩とのデートでここの池でボートに乗った。それをもう一度見たいという訳ですか?」
「それもあります。でも、出来るなら、その時に失くしたものを取り戻したい。いや、取り戻せなくてもお別れを言いたい」
「何を失くしたのですか?」
「腕時計です」
「腕時計?」
「はい、それは、私にとって非常に大切な想い出の深い腕時計だったのです」
「そうですか、何故失くしたのですか?」
「ほんの不注意です。ベルトの穴が私の腕のサイズに合わなくてピッタリしなくて、一度外して嵌め直していたのです。せめてそれをボートに乗る前に気が付いて直しておけば良かったのですが、オールを漕いでる途中に気が付いたものですから、池の真ん中辺りで、落としてしまったのです」
「池の中へですか?」
「はい、ポチャリと音がして、水面をゆっくりと腕時計が沈んで行きました。池の水は緑色で直ぐにその中へと消えてしまいました」
「それは、残念でしたね。でも、過去は変えられない」
「分かってます。けれど、お別れは突然やって来て、さよならさえ言えなかったことを、ずっと、ずっと悔やんでいて、私は私を許せずにいたのです。でも、先輩から届いた花束のメッセージを見て、ちゃんとお別れをしなくてはと思い……」
 少女の思い詰めた様な決意はその眼差しからも伺い知れる。
 ボート乗り場が見えた。少女が二人ボートに乗り込もうとしている。その刹那、中村は心の中で声をあげた。
 今、中村の隣にいる少女は水玉の淡いブルーのワンピース、そして少女の先輩はふわふわしたロングの白いワンピース。
 その姿は中村も知っている少女の先輩だった。
 二人は池の中へとボートを漕ぎ出して行く。
「どうしますか? ここで見ているつもりですか?」
 中村は少女に問い掛けた。
「もう少し近付きたいのですけど……、無理でしょうか?」
「大丈夫ですよ。私達の姿は誰にも見えません。そこにボートが一艘ありますから、それに乗って行きましょう」
 見ると池の淵に水色のボートが一艘、浮かんでいる。
 中村と少女はそのボートに乗り込み、池の中へと漕ぎ出した。
 春休み、動物園はそこそこ人で賑わっており、池のあちらこちらでボートがたくさん戯れていた。でも目的の二人は直ぐに見つけられる。緑色の池の上で彼女達二人の姿は光のベールに包まれていた。
 中村はそっと彼女達のボートの左側、斜め後ろ辺りに寄り添った。
 二人の話し声が聞こえる。

「……それでね、ハリーったらすごいの、闇の魔術に対する防衛術を研究しようと、彼の蔵書を読み漁ったのよ。そのおかげで魔法薬学や呪文をたくさん覚えて……、そのひとつがアンムネ・モワ・オペイ……」
 会話は主に先輩が一方的に話している様子で、少女の方はそれをまるで音楽でも聴いてるみたいな表情でうっとりしている。その会話の内容は中村にはまるでちんぷんかんぷんだ。
 池の周りは桜の樹が立ち並び、花びらがひらひらと舞い降りて、水面に沢山の桜色を浮かべていた。
「もうすぐです」
 現在の少女がそう低く囁いた。
 過去の少女がオールを持つ手を離して、左腕に装着していた腕時計を触り始めている。
 一度外して付け直そうとした少女の腕からするすると何かが溢れ落ちて、水面にキラキラと光を残してスローモーションを見ているみたいに、深い緑色した池の底に向かってゆらゆらと沈んで行った。
 過去の少女、現在の少女、二人は同時に同じ場面を見て、茫然とその行方を追った。
 過去の少女は縋るようにボートの縁に手を添えて儚い顔を浮かべる。
 現在の少女はその場面をしっかり見届けた後、静かに目を閉じ、何かを口の中で呟いた。
 中村は池の中に差し入れた右手をゆっくり水面に戻す。その手には魚取り網が握られている。
 中村は視線を感じて顔を上げる。隣のボートの“先輩"がこちらを見つめていた。
 一瞬の間、二人の眼と眼が合う。
 先輩は中村に少し微笑んだかのように見えたが、直ぐに視線を外した。
 過去の少女はまだ名残惜しそうにじっと水面を凝視している。
 現在の少女は、じっと眼を閉じたまま、身動きしない。
 やがて、諦めたのか、過去の少女と先輩はボートを進めて降り場に向かった。桜の花びらが少女達の黒髪に静かに舞い降りて彩りを添えた。淡い春の日のことである。

「大丈夫ですか?」
 中村は少女に声を掛けた。
「ええ」
 少女は静かに眼を開いて、自分の前に置かれている物を見て、思わず両手で口を押さえて「ウソッ」と小さな叫び声をあげた。
 紅色の革のベルト、イラストが描かれた文字盤、水に濡れて長針と短針、それに秒針も止まっていたが、見たところ綺麗なままの腕時計。
「どうして、ここに?」
「これを使いました」
 中村は足元に置いた先程の魚取り網をほんの少し持ち上げる。
「良いんですか?」
 少女は腕時計を両手で包み込む様に手に取り、中村に訊いた。
「物には持ち去って良い物と良くない物があるのですが、これは大丈夫です。お持ち帰り下さい」
「嬉しい……」
 少女は両手を胸に押し当てた。


「その腕時計にはどんな想い出があるのですか?」
 帰りのタクシーを運転しながら中村は後部座席の少女に訊いた。
「これは、私のものでは無くて、姉の腕時計なんです。あの日、先輩とデートするために、私が姉の部屋から勝手に持ち出して来てしまったのです」
「そうだったのですね。では、お姉様にお返しになるのですか?」
「いえ、姉はもう亡くなっています」
「そうでしたか、それは申し訳ないことを」
「いえ、そんな。姉は幼い頃から身体が弱くて、長くは生きられない、それはもう判ってましたから。でも一度だけ家族で、あるテーマパークへ遊びに出掛けたんです。この腕時計はその時、姉が買ったものです。文字盤のイラストはそのテーマパークの人気キャラクターのお姫様で、私は、当時まだ小学生でしたが、それが、とっても綺麗で、羨ましくて……」
「そうでしたか……」

 暫く中村は黙っていたが、再び口を開いた。
「先程、ボートで、当時のあなた達は、一体何のお話をされていたのですか? 何か魔法だの、呪文がどうとか、聞こえた様な気がしたのですが」
「ああ、そうでしたね。具体的には忘れてしまいましたが、先輩はいくつか私に魔法の言葉を教えてくださいました」
「魔法の言葉ですか」
「ええ、先輩は少し謎めいていて、何だか本当に魔法使いみたいな方でしたから」
「どうしてお知り合いになられたのですか?」
「通ってる学校が同じでした。先輩は二つ上で、何か私と違って華やかな雰囲気を纏っていました。自由で気ままで、いつも周りを明るくする。私とは正反対のような存在で、その当時から憧れでした」
「なるほど、何か、親しくなるきっかけでも有ったのですか?」
「はい、そうですね。それは、たぶん、先輩が私を見つけてくれたからです」
「見つけてくれた?」
「ええ、その頃の私は、というか、それ以前からずっと、物心ついた時から、私は、いてもいなくても、どちらでも良い存在でした」
「まさか、それは無いでしょう」
 中村は軽く笑ってみたが、少女の言葉は真剣だった。
「小学生の頃、友達と公園で隠れんぼをしてました」
「はい」
 少女の話は突然、時空を飛ぶ。
「私は、上手く隠れた訳でも無いのに、何故か見つけられずに、ずっと潜んで影からみんなの様子を見てました」
 中村は黙って話しの先を聴いている。
「やがて、夕方になってみんなは帰って行きました。たったひとり隠れたままの私をそこに残して。すごく楽しそうな、みんなの笑い声だけ後に響いていました」
 水色のタクシーは静かに時空を超えて元の世界へと走る。少女の話はそこに刻まれた歴史書を読む様に淡々と続く。
「でも、私はいつも、誰かに私を見つけて欲しかったのです。それから先も、ずっと以前から。姉が入退院を繰り返して、家にいても、誰も私を見てくれないから、ずっと部屋に籠ってました。ひとりでいる事が多くて……、自分でも私はひとりでいるのが好きなんだと思い込んでしまって、お昼休みや放課後は大体、図書館で過ごしていました。そしたら、ある時……」
 そこで少女は少し口籠る。
「ある時、どうしました?」
「いえ、こんなこと、人に話すの、初めてで、とても信じて貰えないと思うのですが……」
「構いませんよ。私の思い出タクシーなんかも普通は人に信じて貰えないんですよ」
「あ、そう言えばそうですよね」
 初めて少女は微笑んで見せた気がした。
「ある時、図書館の奥に、見慣れない扉を見つけたんです」
「ほう」
「普段、そんな所に扉なんて無かったと思うのですけど、見つけたんです。見慣れない扉を」
「それでどうしました」
「私がその扉を見て呆然としていたら、突然、先輩が現れて、『一緒に行かない?』って言ってくれて、その扉の向こうへ私を誘ってくれたんです」
「そうでしたか」
 中村は敢えてその扉の向こう側の世界については訊かなかった。

「その扉はそれからいつでもそこにあったのですか?」
「いえ、時々です。あと、それから、『自分の行きたいところへ連れていってくれる井戸』なんかもありました。先輩からは他にも、いろいろと魔法の言葉をいくつか教わりました」
「いくつか聞かせて貰っても良いですか?」
「はい、ええっと、例えば、『僕らは世界に一つだけのケーキ』とか、『ワイヤレスじゃないイヤホンもいい』だとか、『眠れない夜に羊を数えない』『大人になんかなれない』『悲しみは乗り越えなくていい』などです」
 突然、少女の口から泉の様に言葉が溢れ出した。
「それって、魔法の言葉なんですか?」
 中村は訊いてみた。
「魔法の言葉なんです。私にとっては」
「そうか、それで大人にならないという魔法にかかってしまったんですね」
「えっ、そうなんでしょうか? でも悪い言葉だとは思えないです」
「もちろんそうです。それでは今回、花束に付けられていたメッセージカードの言葉も、新しい魔法の言葉ですね」
「そうだわ! 『あなたの人生を大切に』でした」
 そう言うと少女は、両手に持った腕時計を見詰めた。
「私は姉に嫉妬していたんです。でも、これを失った時、姉も失ってしまったような気がして……」
 少女の瞳には光るものが少し、悔恨という気持ちを映し出す。
「時計、腕に嵌めてみたらどうですか?」
 中村の言葉に素直に頷いた少女は、自分の左手首に腕時計を置いて留め金を通した。
 革ベルトのサイズは現在の彼女の腕にピタリと嵌った。
「あっ」
 文字盤を見た少女は小さな声を出した。
 止まっていたはずの秒針が動き始めたから。


 タクシーは最初に少女を乗せた場所、青葉台三丁目のバス停付近、「婦人服いとうや」の前に到着した。
「最後にひとつだけ、さっきもお伺いしましたが、なぜあなたと先輩は十年間も音信不通になってしまったのですか?」
「さあ、それは私にもよく分からないです。連絡はいつも先輩の方からでしたので、それに、先輩は高校に進学すると、外国に留学されたと人伝に聞きました。だから、今回、夢に現れてくれて、花束が届けられて、とても嬉しかったです」
 それを聞いて中村は、満足そうな微笑を浮かべた。そして後部座席のドアを開ける。
「ご利用、ありがとうございました」
 少女もお礼の言葉を返して、早朝の街角に降り立った。
 いや、少女と言うより女性と言うべきか……。
 朝日が昇る方向に向かって歩いて行くその姿を中村はバックミラー越しに見ていた。
 そして水色のタクシーはまた走り始める。


 中村が自宅マンションのドアを開けた時、紗妃からLINEが届いた。


ーー私の出番が無いじゃん!

ーーちゃんと出てましたよ。先輩!

ーー笑  お疲れ様。


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?