老木
小学校の校庭の欅は、樹齢千年とも千五百年とも謂われている。その幹の太さは低学年児童であれば周囲を巡らすのに八人程が両手を繋ぐ。嘗ては木造の校舎を遥かに聳え見降ろしていた存在であったが、新築の近代的な校舎が建立された後には、その身を小さく屈め、忘れ去られた名画座の看板の如くその身を風に震わせていた。
その年の秋、40年間勤め上げた印刷会社を定年退職した松下和正は母校でもあるここ風林小学校の運動場に半世紀振りに足を踏み入れた。特に何の用事が有った訳ではない。図書館からの帰り道、ふと気が向いて立ち寄ってみただけなのだ。当節のご時勢も有り、いくら卒業生と言えど下手に施設内に入り込む事は躊躇われた。しかし開放された門扉の向こうにはボランティアだろうか枯草を拾い集める人影が数人見え隠れしていた。自分の様な者が何の手助けにもなるまいが、枯れ木も山の賑わいと言うが如し、お手伝いさせて貰えませんかと申し述べるくらい損はあるまい。
和正は一番近くでしゃがんで草取りをしている白髪の老人に声を掛けた。男は作業着と思われる灰色のズボンに長靴、上は紺色の防風ジャンパー、首に白いタオルを巻いていた。一拍遅れて振り向いたその老人は銀縁眼鏡の奥の温和そうな細い目で和正を見上げた。70代後半位の年齢かと思われるその男性は、はあはあと愛想笑いを浮かべながら立ち上がり、首からぶら下がったタオルで額の汗を拭い、和正の元へ歩を進めた。「あなたは?」老人が問いかける。
「通りすがりの者ですが、一応ここの卒業生です」
「ああ、そうですか。それは、それは」老人は人の好い顔をする。
「皆さん、校庭のお掃除ですか?」
「ええ、年寄りばかりだから、あまり捗りませんがね」嗄れた声に好感が持てた。
「良ければお手伝いさせてもらえませんか?」老人は少し驚いた顔をして、「よろしいんですか?」と和正の顔を覗き込む。
「はい、暇を持て余してますので」和正はにっこり微笑んでみせた。
「ええと、それじゃあ、・・・」老人は、辺りに視線を走らせて、
「草取りは軍手が要りますんで、枯葉を集めてこの袋に入れて貰えませんか? 箒と塵取りはあそこに有ります」と、ジャングルジムの横にある物置きを指差した。
「分かりました」ゴミ袋を受け取り、和正は物置きへ向かう。
「ほんとにすみませんね」老人は深々と頭を垂れた。
師走とは言え小春日和の暖かい午後の陽射しであった。微風が頬を掠める度に一時の心地良さを肌に感じ、和正は校庭の中を気ままに枯葉拾いしながら自由に散策した。今では校舎は新しく建て替えられているが和正の脳裏には旧校舎が有り有りとその姿を想起させられる。本校舎は正門に対峙して東側、左手には小さな木造の南校舎。その前には助木。その隣奥のスペースに雲梯。砂場を囲む様にフェンス沿いに鉄棒が並ぶ。全ての所在はすっかり変貌していたが百葉箱だけは昔同様に待ち草臥れた愛犬の如くその場に白い姿のままでいた。ここで和正は再び欅を振り仰ぐ。手には箒と塵取りゴミ袋を持ったまま暫しその場に茫然と立ち尽くす。
哀れだ。そんな言葉が和正の胸に去来した。嘗ては威厳を欲しい儘に君臨していた雄姿は面影も無く。変わり果てた姿を公然に曝け出す。雄大に広げていた筈の枝は細く小さく垂れ下がり、葉影さえすっかり斑に費えてしまった。背後に支える新校舎の生き生きとしたカラフルな若さが対照的な構図を描き出すばかりだ。
「切ないでしょう」ふと声がして振り向くと先程の老人が佇んでいた。和正は何と応えたものか返答に逡巡した。うんうんと頷きながら老人は歩を進め、足元の枯葉の色を和正の革靴の先に漂わせる。「今はこんなもんです」その皺の深い笑顔からは積年の哀愁が滲み出す。「この欅も今年限りです」そう呟いた。「えっ」突然の台詞に和正は驚き老人の顔を見る。「すっかり老朽化してしまい、このままだと何時倒れても疑わしくない状態だそうです。子供達に怪我をさせる訳にはいかんですから」
和正は言葉に詰まった。まさか、そんな……、ふと懐かしさのあまり立ち寄ったこの瞬間にその樹の最期通告を耳にしてしまうとは、何と言う無情だろうか。或いは何かしら予感めいた物事に知らずの内に引き寄せられていたのか。心は空白であった。物悲しい気持ちに浸ってしまう。老人は尚も和正の横に立ち並び独白を継続する。「ここで一体何人の子供達の姿を見て来た事か。老兵は死なずただ消え去るのみでしたな」老人の眼鏡の奥には哀しみを湛えた眸があった。ふと和正は彼に尋ねてみる。「あなたは学校の関係者の方ですか」老人は柔らかな午後の陽射しの中で微笑を浮かべる。「以前ここで校長の職に在りました」「校長先生でしたか」和正は一歩退き改めて老人に眼を遣る。「昔の話です。今は私の倅が職を継いでおります」「そうでしたか、今の校長先生のお父さんでもある訳ですね」和正は彼の心中を思いやった。欅が無くなるのは残念だ。老人は黙ってその場を離れて行った。
小一時間もしただろうか、いつのまにか枯葉はゴミ袋にいっぱい詰まっていた。そろそろお暇する頃合いかと思考する。箒と塵取りを物置きに片付け、和正は老人に挨拶をしに行った。老人は丁寧にお辞儀をして感謝の言葉を繰り返した。
「そうだ、良ければここに貴方様のお住まいとお名前をお書き頂けませんか」と唐突に小さな用紙を取り出した。「お世話になった方達にほんの僅かですが撤去した後、欅の一部を小さく切って関係者の方に記念としてお配りするんです」と言った。「本当ですか。それは有り難い是非お願い致します」和正はペンを借りてそこに自分の住所と名前を記入した。
「松下と申します。そう言えばまだ先生のお名前を伺っておりませんでしたが」と和正は老人に尋ねた。
「ああ、私は木原です。木原幸三郎という者です」嗄れた声で老人はそう返事した。
帰り際、和正は最後にもう一度遠巻きに欅を眺めた。欅は何も言わず初冬の風に吹かれて、まるで最期の執行を待つ死刑囚の様相でそこに立ち続けるばかりであった。
それからひと月半程経った頃、和正の下に一通の手紙と小荷物が届けられた。手紙の差出人は風林小学校校長・木原直人となっている。早速、和正はその手紙を開封した。
拝啓
年が改まり、厳しい寒さの中にもすがすがしさが感じられる日々ですが、皆様におかれましては、お健やかにお過ごしの事と存じます。旧年中は格別のご厚情を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、ご存じの通り、昨年末、当校舎のシンボルとして永年に渡り植樹してありました欅の木が老朽化著しく已む無く撤去せざるを得ませんでした。そこでお世話頂いた関係者各位殿にその欅の一部を切り取り、記念として贈呈させて頂く次第で御座います。ここにそれを同封添付させて頂きましたので、どうか宜しくお納め頂ければ幸いです。
尚 風林小学校元校長でもある私の父・木原幸三郎が昨年末に永眠致しました。生前賜りましたご厚情に重ねて厚く感謝申し上げます。
本年も当校共にご高配を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
敬具
和正はその文面に驚き、言葉を失った。茫然自失のまま添付の小荷物を開けてみる。
そこには表札に利用出来そうな白木の板と一本の枯れ枝が入っていた。それは痩せ細った老人の様な姿を映し出し、木原幸三郎の穏やかな笑顔をそこに見出すのであった。
了
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