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レールは敷いてくれ

情報が、多い。とにもかくにも情報が多い。

この島の人口は年々着実に減ってるらしいが、それでもめちゃくちゃ多い。
ちょっと外に出ればこの体ひとつじゃ受け止めきれないくらいの数の人間がそこらじゅうにひしめいているし、そのひしめいている人間たちがそれぞればらばらなことを言う。

大人たちは「昔と違って選択肢が多くていいね」と口々に言うし、実際に私もそう思う。
でも、敷かれたレールをひたすら歩くのと、木の枝だけ持たされて平原へ放り出されるのと、どっちがいいかなんて人によるだろと思う。


私は絵を描くのが好きな子どもだったけど、図工の時間は嫌いだった。
大抵小学校の図工の授業は、評価基準や画材の使い方などを何も説明せず「好きにやれ」って放り出す。
それでも周りのみんなは一体何を求められているのかをすぐ理解してさっさと取りかかるのに、私だけ何をどうやったらいいかわからなくて、しょっちゅう泣きたいような気持ちになっていた。出来上がった自分の作品を見るのも嫌いだった。なんか浮いてるみたいで。

「型があっての型破り」とはよく言ったもので、ベースとなる地面がまず存在しないと、草木は生えてこない。エアプランツみたいな個性的な存在も、地面に根を張るような、いわゆる「普通」の存在とされる草木がないと成り立たない。

つまり、とりあえず敷かれたレールを歩いてみるのが悪いことだとは私は思わないのだ。
でもそのうち、一本しかないレールに疑問を持つようになる。そうしたら自分で分岐を作る。何回か分岐を作ってみて、ノウハウがわかってきたら自力で独立した路線を敷くようにもなるだろう。
何もない平原でたった一人のサバイバルはできる人、やりたい人だけやればいい。みんながみんなサバイバルに執念があるわけじゃないもんな。

見よう見まねか試行錯誤でしか何事もできるようにならないのだから、敷かれたレールを歩くか平原に放り出すかの両極端は無理があるのだ。

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