好きなことに真っ直ぐでいること

好きなこと、大切なこと、まともなこと。
そういうことに、自分の時間を使えているだろうか…。

私の父は、よく『家族のために、子供のために』
と動いてくれる人でした。
子どもたちと一緒にして楽しいことやおもしろい
ことのために色々と考えてくれて。

私たちが小さい頃は、
ラルゴーという車の後ろ2列を倒して布団を敷き詰めたり、
ワイヤーで張ったカーテンをつけたり、
ポータブルトイレまで積み込んで、遠出をした。
車の後ろに作られた寝床で、兄たちと3人で
ゲームしたり喧嘩したりが楽しかったし。
早朝に寝たまま抱っこされて移動されるのも
なんだか嬉しかったり、起きたらそのまま車で
アルミ箔に包まれたおにぎりとおかずを食べて
ワイワイするのも楽しかった。

あとは、突然ベッドを買ってきたんだか、
もらってきたんだかしてくれて、3段ベッド
がうちに来た。
欲しいって言ったわけじゃないけど現れた
ベッドにも、嬉しくてワイワイはしゃいだな
という記憶がある。

だけど、そういう楽しい記憶のなかにも、
私は自分発進の夢を叶えてもらった記憶は殆ど無い。

嬉しかったこと。ワクワクしたこと。
それらは、父から与えられたことばかりで、
したかったことや欲しかったものかどうかは
よく分かってないままで。
そうなると、一方的で勿体ない気がしてならない。

父が色々と考えたり、
できる中で与えられたものに、
感謝がいっぱいあるけど。
なぜか一方通行で…、
もっと実現の前から一緒に考えたり、
どうしたいかと尋ねてほしかったな
と今は思う。


そうなっていたのは、父自身の我慢や制約が
多かったからじゃないのかなと思う。
母の実家で同居したり、安定した収入のためにと
自分に合わない教師という仕事をしたり…。
自分が自分に我慢を強いることで、
自分の中の良かれと思うことが、
ただただ一方通行の善意ばかりが溢れて、
相手から発するなにかを受け取れなくなって
しまっていたんじゃないかと思う。


私は大人になっても、本当にわがままだった。
やっぱり私も制約の中で成り立つような楽しみに
正しさを感じてきたから。

だけど、その形は不自然なんだということを教えてもらった。
ただ、まっすぐに好きなことや大事なことに
向き合う自分でいたっていいし。
むしろ、そうすることで誰かの好きなことや
大事なことも尊重してあげられる。

尋ねることができるって、当たり前なことだし。
自分の尊重ができて、他人を尊重出来るというのも
当然のことで。

私は、親に尋ねてもらえないのが寂しかった。
だから、頑なだったり、自分にばから集中しすぎたり
することも多い。
だけど、人にはフラットに尋ねることができる自分で
ありたいと思うようになった。

初めて、なんの意図もなくフラットに、
人に対しても自分の子供に対も『尋ねる』が
出来る人を実際に見ることができたから。

そういう、本当の優しさや尊重の態度を
目の当たりにできたことは、
すごく大きな経験になった。

子どもたちに対して、なんの意図もジャッジも含まずに、
フラットな気持ちで声をかけられる自分でいたいなと、
心から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?