鈴木咲子/sakiko suzuki

花屋の店主です https://www.hanaimo.com/

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最近の記事

行く春

きょうは曇り。もう花曇りとは呼べない空だけれど、その色は過ぎる春を惜しむようにみえます。待っても花は戻らない、わかってる。と、失恋みたいな曇り空です。そういえば、季語には行く春、行く秋とあります。しかし行く夏、行く冬とはありません。同じく、春を惜しむ、秋を惜しむとはいいますが、夏を惜しむとはいいません。 春になると哀愁を感じ、秋は寂しいもの思いに耽る、あれはどこから湧くんでしょうね。感覚的なものなのか、よみがえる記憶からくるのか。 昔みた花を思い出したから、そのときの感情

    • ローランサン・グレー

      この詩はローランサンの恋人だったとされるアポリネールの詩。眼に触れて、にわかに彼女と過ごした時代の、甘い匂いが漂うような感が残りました。先日は、堀口大學が訳したマリー・ローランサンの詩「鎮静剤」 を紹介したところ、思いがけず多くのコメントを頂き、とても嬉しく思いました。 夏木マリさんの歌、その情報を共有してくださる方が複数いたので、さっそく私も配信で聴きました。作曲した高田渡さん自身も、歌ってらしたようですね。ありがとうございました。 ローランサンの詩に触れたのをきっかけ

      • 一初(いちはつ)菖蒲(あやめ)杜若(かきつばた)

        そろそろこの花たちの声が、聞こえてくる陽気になりました。まずアヤメ科のなかでは、一番初めに咲くことから一初(イチハツ)ともよばれる鳶尾草(いちはつそう)。中国原産の植物で、昨日紹介しました、シャガの仲間のひとつとされています。 昔は、この花が台風や災害を防ぐとの俗信があり、農家の茅葺き屋根の上に、この花を植える習慣があったといいます。実は私も、いちどだけ菖蒲が供えられた茅葺き屋根をみたことがあり、その時には意味が解らなかったものの、後にその古い慣習を知り、以降忘れられない光

        • 著莪(しゃが)

          気づけば、著莪(シャガ)の咲く頃になっていました。毎年、近くの神社にある藤棚の紫が下がるころ、足元に著莪の群生がひろがるのですが、今年もすでに。白地に紫と黄色、あやめにも似た清楚な花です。 いえ清楚、とは言葉を選びました。地を覆うほどの咲きっぷり、多少の条件の悪さなら、所えらばず花をつける様を見ると、清らかよりも強かさ、反骨ともみえる厳つさ、花の気概を感じます。ゆえに小さな花ですが、見合わぬおっかなさがあり、つまりあまり好きではありません。 けれど、雨に濡れそぼつ著莪に限

        マガジン

        • 花屋の向こう側
          9本

        記事

          春夜 雑感

          堀口大學『月下の一群』より。今日一日の、疲れ切った頭には、詩を読むくらいがちょうどいい。なんて手にしたものの、数あるフランス訳詩の中で、どうしてこれに眼が留まったのか、自分の気持ちがわからない。 ただ、訳者あとがきにある「ただ、詩を愛するのは、少年の日より久しい僕の性癖だ。ことフランス近代詩を知るに及んで、この性癖はいよいよ深いものになった。」とあるこの箇所にばかりは、何度目であっても、今日も強い共感を覚える。 花と文学の関係性を探るこの路も、いよいよ長くて遠い路。そんな

          恐竜たちの花

          人類が誕生するよりも1億年以上前から存在していたとされる、地球上最古の花木モクレン。恐竜が活躍していた時代の地層から、被子植物(花を咲かせる植物)の化石が出土しているそうで、それを原始にもつ花木がモクレンなのだそうです。 恐竜時代にモクレンが咲いていたとは信じがたいですが、それを想像するのは楽しいですね。モクレンの花があんなに大きく咲くのは、ティラノサウルスの眼に留まるためだったのかな、とか。 トリケラトプスはモクレンも食べてたのかしら?なんて。 それにしても、多くの恐竜

          虞美人草(ぐびじんそう)

          歌から知る花の名前もあれば、文学から知る花の名前もあります。虞美人草(ぐびじんそう)もその一つです。 夏目漱石の同名小説『虞美人草』、こんな印象に残る表題ですが、実はあまり意味も考えずにつけたとか。連載前の予告文にも「花の名を拝借して巻頭に冠らす事にした。(中略)余の小説がこの花と同じ趣をそなうるかは、作り上げて見なければ余といえども判じがたい」と記していたそうです。 たしかに、作品の中にて虞美人草は、長編の最後になって、屏風の絵として出るのみ。ただこの作品には、虞美人草

          虞美人草(ぐびじんそう)

          柳(やなぎ)

          良い天気でした。暦ではまだ晩春にあり、初夏というには薄色の季感ですが、緑したたる柳の新葉が風に吹かれるのを眺めているだけで、胸の元まで夏のさざめが降りてきました。こうして花木を見るたび心気まで澄んで思えるのは、色に富んだ今時季と、秋のはじまりくらいでないかと思います。 これは「なんとなく歩いていたら、道に青柳が芽吹いていて、ふとあなたのことを思い出してしまいました」という歌。 花を見て思い出す人があるのは、自分においてもそうですが、柳をみて思い出す人、誰かいたかしら。思い

          穀雨

          今日は二十四節気の第6節目「穀雨(こくう)」。穀物の成育に潤いをもたらす暖かな雨(穀雨)が降り始めるころとされ、種蒔きをするのにも最適な気候としています。この15日間が過ぎると、季節は春の終わりを告げ、次にくるのが「立夏」です。 西洋に「三月の風と四月の雨が五月の花を連れてくる」という諺がありますが、文字どおり三月に冷たい風が吹き、四月にたくさん雨が降ることで、五月にきれいな花が咲くという意味です。 それにしても、今年は季節の進みが速いこと。四月も半ばを過ぎた頃には、風に

          のびる

          四月はのびる。日がのびる、草がのびる、背がのびる。冬のあいだに手入れが行き届かなかった花木も、いまが盛んにのびるとき。 のびるといえば野蒜(のびる)。土手にいったらのびるがのびてる。たくさんつんで、手についた匂いに鼻がまがる。土手にのこった花はのびる。のびるの花はまだのびる。四月の日もまたのびる。 今日もいちりんあなたにどうぞ。 ノビル 花言葉「胸の高なり」

          「躑躅に思う」花屋の向こう側

          ほんとうに今年は季節がぱたぱたと進んでしまい、いま東京の景色には、躑躅(ツツジ)の花が満開です。夏を予感させる躑躅の花、うっかりしているうちに、紫陽花まで咲き出すのではないかと、気持ちがせいで疲れます。 ツツジの花の漢名「躑躅」は「てきちょく」とも読み、その意味には「足踏み・行き留まる」などがあります。つまりは行ったり来たりすること、躊躇することをいっており、「見る人が足を止めるほど美しい」ことから、この名がついたとの伝聞もある花です。 たしかに躑躅の花色は、春には見ない

          「躑躅に思う」花屋の向こう側

          カーネーション

          母の日の花としておなじみのカーネーション。その名は、昔この花が花冠に使われていたことから「戴冠式(coronation)」に由来してつけられた、との説があることを知りました。 母の日といえば、従来は赤色のカーネーションを贈るのが一般的でしたね。けれど近年は花の品種改良もすすみ、ひとくちにカーネーションといっても、驚くほどに多種多様な花色がお目見えするようになりました。 そのうちの一つか二つ、きっとご近所のお花屋さんにも並んでいるのではないかと思います。ぜひ覗いてみてくださ

          すみれの花咲く頃 

          この歌詞を目にするだけで、その調べが脳裏に浮かぶ人も多いことでしょう。「すみれの花咲く頃」、言わずと知れた、宝塚歌劇団を象徴する愛唱歌です。 作詞は、宝塚歌劇団の演出家であった白井鐵造によるものですが、この曲はオリジナルではなく、原曲があります。 古いドイツの映画「再び白いライラックが咲いたら(Wenn der weiße Flieder wieder blüht)」のタイトルに同じ、主題曲にもなった曲がそれです。 時代はさかのぼり、宝塚歌劇団創設の頃になります。当時、

          すみれの花咲く頃 

          ラフマニノフ「リラの花」

          ロシア出身の作曲家、セルゲイ・ラフマニノフといえば、胸に訴えかけるような抒情的な楽曲が多いのが特徴的。 その重厚に折りかさなる和音、身体の中にまで染みわたる、光沢のある旋律は、ラフマニノフが幼いころから耳にしてきた、教会の鐘の音が源泉になっていると言われます。 鐘、といえば、フィギュアスケートのフリー曲でも扱われたことのある、前奏曲『鐘』が、まさにラフマニノフの曲ですね。 空に鳴りわたる鐘の音のように、おなじモチーフが繰り返されるところにも文学的な雰囲気が匂いたつ、ラフ

          ラフマニノフ「リラの花」

          春が行く

          その歌にもあったように、まるで空を押し上げるように花を咲かせるのは花水木(はなみづき)。明治の頃、かつての東京市長がワシントンに桜を贈った返礼として、アメリカから日本に贈られた、日米親善の歴史を物語る花として知られます。きっとそうした背景から、この花の花言葉も付けられたのでしょう。 時期は長くないですが、ずっと眺めていられる惹きこまれる花木です。初夏の香りをまとった陽光をもとめて咲く花は眩しく、また秋の紅葉もなかなかに美しく、この花が街路樹であるのを見るたびに、その町に住む

          苺(いちご)

          「くさかんむり」に「母」がついて「苺(いちご)」。その由来は、ひとつの株にたくさんの実をつける特性が「母」を連想させることから、この字ができたと考えられています。 この季節、苺の真っ白な花を見つけると、菫を見つけたときと同じ高ぶりを感じるのは、きっと自分だけではないはず。と、この気持ちが通じると思う、思い浮かぶ顔が二人あります。 一人は花のお友だち。猫の額ほど小さな庭や、狭い台所や、お家が並ぶほそい路地裏の鉢植えを、大切に大切に育てては、ささやかな日常を慈しんでいる友だち