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【更新中】ベルク《ヴォツェック》とビュヒナー



参考文献:『オペラブックス ヴォツェック』


🌸ヴォツェックの特徴(p10)


これらが総合的・機能的に散りばめられている。
・文学上の手本の利用
・劇場作法の区分
・音楽形式の区分
・声部書法
・独立した管弦楽部分
・切分技法

🌸上記の手法を用いた総譜下書き(パルティチェル)をみたシェーンベルクは、ウィーン・ウニヴェルザル出版の社長エミール・ヘルツカに手紙で、「ベルクが才能に満ちていることは確かに認めるが、現実に劇場で採用してもらえるかどうか」と疑っていると打ち明ける。

🌸(p11)ベルクはスコア上だけでなく、様々な解説で《ヴォツェック》は15の個別の場面と、15の絶対音楽の形式あるいは形式原理を、音楽劇作法上基本的に同列につけたと主張している。
全体ではなく、部分を重要視する為、より研究の対象となった。
3幕各5場からなる「形式の多様性」は、ベルク前のオペラの〈呈示、急転、破局〉の図式に呼応し、「作品全体の総合的構築による統一性」を満たす事になる。


🌸ゲオルグ・ビュヒナーの影響4つ
(p13)


①ベルクは1914年にビュヒナーの未完劇《ヴォイツェック》のウィーン公演を観劇した。(Wikipediaは1914年の記述)
ビュヒナーが好んだ短い場面への分割が理想的な条件を提供し、ベルクは意識的に小場面に区切ることの簡潔さ、簡勁さ、表象力を発揮できた。
②ベルクは、6人の主要人物を、わき筋に逸れる事なく、ヴォツェックに関連づけることによって集中的な統一を作り上げている。
③言葉の簡潔さ、多彩な表現力、適切な写実性が、音楽に干渉することなく音楽が必要とする支柱を提供している。
④実際の犯罪事件に基づく演劇であり、社会的な因果関係まで見通す洞察力による構想。

🌸モデルの人物クリスティアン・ヴォイツェック(p14)




1821年6/21 21:30頃 殺人を犯す。1824年8/27 犯行を容認しなかったので、故郷ライプツィヒの広場で公開処刑される。

・ビュヒナー(1813-37年)は当時10歳で、この事件は自分自身では経験していない。
1836-37年の人生最後の数ヶ月に、当時話題になっていた鑑定書を専門的あるいは実用文学上の素材(台本)が作られていた。

・鑑定書とは、1821年9月の初めの鑑定書や、1823年2月に基づく2度目の詳細な鑑定書など。
3年ほど続いた訴訟と再審や、少しずつ明らかになりつつあったヴォイツェックの人物像と人生、殺人の責任を負うのかという問い、どの程度負うべきなのかなどの激しい論争にも特別な関心を向けていた。

→この豊富な材料が、非常に効果の多い心理的伝記の再構築において役立っており、高い主張と様式の中に込められた抵抗への要求と、熱狂的な反発が強くなっている。


🌸登場人物描写への表出(p18)



・〈医師〉
ビュヒナー自身のギーセン大学で経験した、ねじけて凝り固まった実証主義に対する怒りがモデルになっている。また、おかしな考えに耽っている解剖学者兼心理学者ヴィルブラントとの経験も相乗効果を持つ。

(このヴィルブラントという人物についてはこの本には他の詳細なし。Wikipedia曰く、「ギーゼン大学医学部解剖学の主任教授ヴィルブラントは旧態依然とした生理学理論を振りかざし、血液の循環を否定するなどして学生たちの間で笑いものになっていた。ビューヒナーは後に彼をモデルにした変人の医師を戯曲『ヴォイツェック』に登場させている」とのこと。)

(p19)
〈医師〉登場部の痛烈な皮肉の中に、医師との対をなす効果を与えるために、見世物小屋の〈口上役〉と〈哲学的ロバ〉が登場する2つの場面があった。ベルクは両者とも完全にカットし、陽気な部分を多く挿入させた。

→カットした代わりに、表現の異常さ、寓話付きの傾向、絵画的な幻想を朧げに想起させることによってビュヒナーの《ヴォツェック》の性格のパラノイア的な面が同時に前面に押し出された。



🌸ビュヒナーへのハンス・マイヤーの視点(p20)



ビュヒナーは意図的に人生や文学、芸術を作り上げようとしたのではなく、哲学的な思想をできうるかぎり雄弁に表象しようとした。 

→ベルクは、ビュヒナーが意図した芸術と哲学的問題意識という美学上の両極端の不一致を、音楽で緩和した。

🌸ベルクの模倣(p25)


ビュヒナーの小場面技法は、不十分だというような印象やストーリーの断片、会話の小片であるが、言葉の造形とその場に居合わせるような臨場感がある。
映画のカットのように羅列するこの技法は、以下の影響を受けている。

・シェークスピア
・ゲーテの《ゲッツ》
・シラーの《群盗》

🌸ベルクを取り巻いていた問題3つ(p26)


①シェーンベルクの一弟子だという問題
②1914-22の混乱した激しい移行期に作曲された問題
③ビュヒナーが原作の劇であるという問題
→これらの問題をベルクは、以下のような考え方により《ヴォツェック》で解決した。

・🌟音楽上の多様性を目指し、ワーグナー以来通例になった楽劇風の性格描写によって通作するのを避けた。
そのために15の場面おのおのに、別々の形態をあててみた。

・🌟この別々の場面の形態は、完結性を要求してきた。その結果、音楽的にも完結性を要求してきた。
⇨ビュヒナーは、この完結性を避けていた。

🌸ベルクの試行錯誤(p27)

先にも述べた通り、ビュヒナーは、この完結性を避けていた。
哲学的問題意識に答えを提示し、形を整えて、芸術的な尺度に無理に押し込めて現実を記述することを、人生の実際の真実に対してみるとくだらないものだと考えた。

ベルクはこの問題を音楽を美学的にしようとする強迫観念が故に問題が生じた。

①美学的にしようとするとき、響きという素材そのものを使うことや、言語的な表現を音楽の確固たる形式構造へと移し替える事になる。

→不慣れな無調と不協和音の多い一連の響きの中で、言葉の聞き取りにくさを取り払おうとする。

→すると、形式的処置の二面性が生じる。(p29)
①音楽の雛形が毎度同一の生産物になってしまう。
②変化をつける為に、個別に飾り立て、様々な生の素材、音色、テクスチュアの変化をつける事によってしか、原理的には同じセリーが個別化されない。

⇨しかし、これらの場合でも、やはり場面を越えて広がる契機が生じる。
全体に行き渡る指導動機、遠くを描いて呼応する。これが数や形式の多様において非常に豊かなことからベルクの音楽は、新しい道を照らし出した。

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