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Diary|横断する心

昨晩、折坂悠太さんのラジオを聴いていた。
バスボムを入れた湯船で温まり、よい香りと湯のとろみに癒やされてほくほくとした気分の湯上がり。とても穏やかな心持ちだった。

ラジオを流しながら、本棚から詩集を2冊ほど取り出した。
ここのところ、詩集を手にすることがすくなくなった。
エッセイばかりを読み、詩集に心が向かない。でもきのうは詩集を読みたい、と久しぶりに思ったのだった。

雑誌も久しぶりに手に取った。
2022年10月の&Premium。「いい本との、出合いは大切。」と表されたその号のページをぱらぱらと捲り、読んでいなかったページをいくつか読んだ。

今朝、7時過ぎに起きたら、窓の外はすっかり明るかった。

光はとても季節を宿していると思う。
光の色合い、角度、透明度。言葉で言い表し難いけれど、きっとそのような何かが、季節ごとに微妙に異なっている。最近の光には春を感じる。気温よりも先に、わたしは光に、その先の季節を感じることが多い。

朝ご飯は白ご飯と、溶き卵に千切りキャベツを混ぜてフライパンで焼いたものを食べた。通称『キャベツのお焼き』。母がたまにお弁当のおかずとして作っていたものだ。

晴れていたから布団を干した。ついでにベッドのすのこを上げて、ベッド下を掃除した。

午前中のうちに買い出しに出かける。パン屋さんに行き、食パンと、菓子パンをいくつか。スーパーで食糧を買い足した。安いスーパーだが、安いと思ってついつい買いすぎてしまいそうになる。買い出しに行くと頭を使うので、余計なことは考えずに済むけれど、ちょっと疲れる。

午前中は気分もよかったのに、午後になるとなんだか鬱めいた気分になってしまった。散歩に出かけたけど、風が強く冷たく吹いて、あまりよい気分にならなかったのですぐに帰ってきた。
帰ってきて布団でゴロゴロとして、気がつくと15時を過ぎてしまった。

おやつを食べたかったのでなんとなくコーヒーを淹れる。

午前中に買った菓子パンを食べ、コーヒーを飲む。

似たようなことを何度もしているなぁと思った。
午後の光の射す部屋で一人で過ごすこと。本を読もうとしても、詩を書こうとしても、なんとなく違うこと。こういうどんよりとした気持ち。それが甘い物を食べたり、コーヒーを飲んだりすることで、すこし楽になること。
何度も経験している。何度も経験しているけれど、沈んだ気持ちが明るい気持ちになるまで、沈んだ地点から明るい地点へは、一気に行けない。いつもその過程を踏まねばならない。

面倒だなぁと思う。その過程を踏むことはしんどい。

コーヒーの香りを吸い込み、チョコレートのかかったパンを食べながら、徐々に気分が晴れてゆく。
そのとき今日は、昨晩取り出して机の上に置いたままにしてあった詩集を、なんとなく読んでみた。

すると新鮮な驚きがそこにあった。
あまり好きでもないし、魅力的にも感じなかった詩の一篇が、スッと心に入ってきて、心を潤わせているのがわかった。

あぁやっぱ、詩って過程なんだよねと思った。
詩が表現しているのは、ひとつの感情ではなく、ある感情からある感情への、過程なのだと思う。
そしてわたしはそういう詩が好きだ。地点から地点を横断していく、他者から他者へ、世界から世界へ、言葉を紡ぎながら渡っていくような、そんな詩が好きだ。

何度同じような午後を過ごしても、その横断はきっと一度きりだろう。
そのとき出会えた心情風景はきっとあっという間に消えてしまう。けれどそのとき読んで心動いた詩を(詩でなくとも、なんらかの言葉や、音や、その響きや色合いを)覚えていることで、完全にはその風景を忘れない。

それがわたしの心を支えている。
明るいほうへ向かう指針になる。自分自身が何度も何度も横断してきた、その積み重ねへの、確信と自信をくれる。

心の明るさは、真に明るいということではなくて、きっと今あるところから、次あるところへと移り変わっていけることそのものを指すような気がする。

ずっと同じ気持ちでいるのは、何も感じないことと同じ。

だから、自分のどんな感情も、それでいいんだよと受け入れてあげよう。そして、移り変わっていくことそのものを、心から祝福したい。

次の地点から、次の地点へ。

その、地点と地点の目印として振り返ったときわかるように、あるいはまったく知らない誰かの目印になれるように、わたしは言葉を書きたいし、世界中のXのポストもYouTubeのvlogもインスタの投稿も、きっとそういうものなのかもしれない。

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