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エッセイ|5月3日

3年日記をつけています。

2021年から2023年の日記をひとまとめにするもので、1ページが1日。
1ページが3段に区切られていて、上から2021年、2022年、2023年。

だから、今年はずっと上2段(つまり昨年と一昨年)に書いたことを読み返しつつ日々の日記をつけている。3年目になると、ページがぎゅうぎゅうに埋まって、ちょっとした達成感がある。

さて、5月3日。

昨晩、日記をつけようとページを開き、段から溢れて書かれた2022年5月3日の文字を追った。去年の5月3日は、学生時代からの友人と久しぶりに遊んだ日だった。概ね楽しかったみたい。でも、やはりわたしは誰と遊んでも、それが本当に楽しくても、楽しいだけの気持ちを味わうことはできない。人と比べて、過去と比べて、今を少しだけ空っぽにしてしまう。笑ったあとに、ふと無になる瞬間がある。

そんな気持ちを綴ったあとに、でも去年のわたしは、こんなふうにまとめていた。

家へ帰ってきたら私は孤独だなと思ったけど、でもこの孤独を抱きしめていこうと思えたから不思議。久しぶりに私は私でいいんかなと思った。変わっていくことは悲しいけど当たり前で、変わっても私が私で○○ちゃんが○○ちゃんなら、それでいいんだと思う。

2022年5月3日の日記より

この言葉を読んで、わたしは、すごく勇気づけられた。

自分自身も、過去を共有した誰かも、日々生きていて、日々生きているからこそ毎日同じではなく、きっと少しずつ変わっていく。
変わっていくことで、理解し合えなくなることもあるかもしれない。
それでも、わたしがわたしで、彼女が彼女であるならばそれでいい。だからどんなふうに変わっても、わたしがわたしであることを恐れないでいようと思った。

2023年5月3日のわたしは、辞めた職場の後輩とご飯に行った。
ご飯を食べ、海に行き、映画も観た。

楽しかった。でも疲れた。

わたしは誰かといて『楽しい』という気持ちだけで心を満たせたことが、もう何年もないような気がするし、そもそも『楽しい』という気持ちだけで心を満たすことなんてできないのかもしれない。他の人はどうなんだろう? そんなことが気になるけれど他の誰がどうだったところでわたしが感じた感情は変えることができないし、それはもう『思ってしまったこと』だ。楽しいも、疲れたも、たまに人が宇宙人みたいに見えることも、他人の感情がすべて他人事なことも、でもどうか傷つかずに生きていってほしいと願うことも、でも相手を傷つけているのは他でもないわたしかもしれないと思うことも。

わたしは自分のこと、性格が悪いと思っている。

性格が悪い以前に、少しだけ心が欠けている。

でも、なのだ。それでも、なのだ。

わたしが友達に「○○ちゃんが○○ちゃんならそれでいい」と思ったみたいに、「わたしがわたしならそれでいい」と思ってあげなくては、きっと生きていかれないと思う。どんな人もきっとそうだ。最終的に自分を許して、許せないなら許せるようになる努力をして、そんなふうに生きているんだと思う。

そんな人の心だけは、肯定できる人間でありたくて、そんなふうに生きていくことこそが、今のわたしのポリシーとも言えるものであり、少しだけ自分の心のなかで素敵だと思える部分なのです。

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