愛のこと。

仕事を辞めるまで数日という段になって、ますます職場の人たちへの愛情が増している。
というか、わたしから派生する矢印(わたし→)よりも、わたしが受け取る矢印(わたし←)を強く感じていて、あれ、わたしってどうしてこんなに愛されているんだろうと、ふと我に返って不思議に思ってしまう。

そもそも、愛というのは究極に受け取る側の身勝手だよなと思う。
愛されていると思うことと、実際に愛されていることが、平等だなんて証明することができるのだろうか。
わたしが誰かから愛されていると感じていても、その誰かはわたしに愛なんて感じていないかもしれないし、逆に誰かがわたしに愛を注いでくれていたとしても、わたしがそれを愛されていると感じるかどうかはわからない。
だとしたら、愛がある、ないは別にたいした問題ではなくて、ただ自分が誰かに愛されていると感じられたなら、それは愛なのだと、信じてもいいような気もしてくる。

きのうこんなツイートをしたけれど。
今日もまた、わたしってどうしてこんなに愛されているのだろうと、泣きそうなほど嬉しくて泣きそうなほど不安だった。

職場の人たちが、辞めたあともご飯行こうねと誘ってくれたり、みんなでご飯行くときは声かけると言ってくれたり。
ものすごく嬉しくて、自分は愛されていると感じて、でももしかしたらただの社交辞令なのかなぁと思ったり、世の中ではみんなこんなふうに、軽々と人とご飯に行って、軽々としゃべって笑っているのかと思うと愛なんて大袈裟なことを考えるのも違うのかと思った。
それともみんなわたしが考えるよりもっと気楽に愛情表現し合っていて、わたしが愛を勝手に大袈裟なものに仕立て上げていただけなのだろうか。
愛なんてそこら中に転がっているものなのだろうか。

兎にも角にも、いま人から自分への愛をとてつもなく感じてしまっている状態がわたしにとってはイレギュラーで、愛を感じるにも相当なエネルギーを要していてしんどい。でも嬉しい。

ものすごく嬉しくて、ものすごく怖いこの気持ちをどうにか整理しないと自分を見失ってしまいそうだった。
人は、誰にも愛されない自分はもちろん、誰かに愛されている自分もみとめて生きていかなければならないんだなぁとなんとなく思う。
どちらにも苦しみが伴う。わたしはそう思う。

だから、ツイートした通り、わたしは長らく自分が愛されていることを上手くみとめられなかったのだと思う。
愛されて苦しむことに踏み込めなかった。
それでもよかったのだと思う。
でも、月日を重ねてわたしは、傷ついてもいいから愛されていると感じたいと思うようになった。そして傷ついてもいいから誰かを愛したいと思うようになった。

少し話は逸れるけれど、占いなんか信じていなかったわたしが昨年末にたまたま読んだ占いの本で、「あなたはみんなから愛される人気者であなたの周りには自然と人が集まってくる、出会いに恵まれている」みたいな占い結果が出て、嘘よ、と思ったのだけれど、しかしもしかしたらあながち間違っていないのかもしれないと思い至るようになり、いまではその占い結果をお守りのように大事に思うまでになっている。(ちなみに生年月日から導き出す占いのようでした)

みんなの人気者とか縁遠いと思っていたけれど、いい加減人から愛されている自分のことをちょっとはみとめてみようと思った。

本当は誰がわたしをどう思っていようと、どうでもいいことなのだ。

大事なのは誰かがわたしを愛しているかじゃない、わたしが誰かに愛されていると感じるかなのだと、いまは少し思っている。

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