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2_「居場所」とは点と点の繋がり

※これは2020年12月19日 16:48に別アカウントで掲載した記事です。

こんにちは、加藤です。

私が大事にしている「居場所」のテーマ。自分にとって大切な場所。

 これを読んでくださっている方にとっても、「自分の居場所。自分のルーツ。自分にとってかけがえのない所。」と思える、特別な場所って、最低でも1つはあると思うんです。

 私は「居場所」は身体を置く物理的場所の機能だけではなくて、情緒的な、心理的な「自分とそのスペースの繋がり」だと捉えており、楕円形のようなイメージではなく、点と点で結ばれた線のイメージを持っています。

 自己紹介では省略してしまったのですが、私は社会人1年目で新たに1年だけ大学に通っていました。「社会ルールを勉強して考え方を自分のものにできたら、守りたいものを守れる」みたいな中二病を引きずっており(笑)、入学しました。しかし、働きながらの大学生活は、想像以上にきつい(笑)。私には物理的に困難だと悟り、1年で中退しました。在籍資格があったものの、思い入れのない大学は、私とは契約上での繋がりしかなく、私にとっての「居場所」にはなりませんでした。

 一方で、私にとっての心休まるジム、読書が捗る海辺、子供のころに悪さをして家を追い出されたときに、姉と一緒に間違って渋柿を食べた草むら。その土地の価値による「居場所」もありますが、人との関わり合いがあった場所はかけがえのない心理的に結ばれた「居場所」でもあるし、変な人に侵略されたくないです。

 私は「居場所」には最低でも以下の3つの特徴があると思っています。

1) 心身の危険性を感じない。

2) 自分と「居場所」に心理的な繋がりがある。

3) 理想の自己像を実現(自己実現)が可能な場所

そして、高次元(関係性がより親密)な「居場所」とは、以下の特徴があると考えています。

4) 無条件に自分を受け入れてくれる絶対的な安心感を感じることができる。

それぞれについて、解説していきますね。もしも皆さんも「私にとって、僕にとっての居場所」があったら、コメントで教えてください。私は皆さんの広い意見や考えを知りたいし、「居場所」についてもっと考えたいです。

1) 心身の危険性を感じない。

 当たり前ですが、四方八方から銃撃される、お皿が飛んでくる、怒号が飛び交う。そんな不安定な所では、心の鎧を外すことはできず、息をひそめながら過ごすしかありません。安心感を得る前に、まずは自分の身の安全を図るしかありません。これは生物としての本能でもあるし、ウサギが狭くて暗い場所、自分のゲージが好きな理由と一緒ですね(私はミニレッキスという種類のウサギを飼っています。デレデレ。。)

2) 自分と「居場所」に心理的な繋がりがある。

 私は「居場所」が身体を置く物理的な場所であれ、人間関係の上の副産物であれ、いずれにせよ、心理的な繋がりが大きく影響していると考えています。

いつも味方でいてくれた人。大変な時にそばにいてくれた人。泣きじゃくる私を力強く抱きしめてくれた人。お互いの夢や野望を応援しあえる人。自分の勇ましい側面で共鳴しあえる人。自分の情けない部分を見せても受け入れてくれる人。

 なんでもいいです。自分のLINEやFacebookの「ともだち」の中に、何人、自分を曝け出せる人がいますか?データ上の「ともだち」全員と精神的に深く結びついている方もいるかもしれません。でも、多くの場合は、その内の数パーセントにしか自分の本音ベースで話せないものじゃないでしょうか?(例外なく、私も後者かもしれません。)

 信頼関係を築き上げた先に、建築予定のなかった「居場所」が作られています。「居場所」を言い換えると、「心の拠り所」がしっくりくるでしょうか?

 でも皮肉なことに、「居場所」が欲しい、「つながりが欲しい」が最終目的であったり、自分にとってのみ都合の良い関係を築こうとすると、浅くて脆弱な関係性にしかなりません。「相手にとって、良い影響を与えらる人物であり続けたい、少しでも力になりたい」と心から思える人との関係性の中で、私は「居場所」を作ることができたと思っています。

 もちろん、相手との精神的な結びつきがベースにあり、自分だけの誠実な行動だけでは、「居場所」は成り立ちませんが、自己本位な「居場所建築計画」は、途中で契約書に印が押される前に、立ち消えになってしまうのがオチだと思います。

3) 理想の自己像を実現(自己実現)が可能な場所

 たとえば、私にとっての甲子園球場。プロを夢見る野球少年にとっての甲子園球場。圧倒的な違いがありますよね。

 私は野球経験0で、たまにバッティングセンターに行き、フルスイングして5回に1回、バットにボールが当たるくらいの腕前です。野球観戦も趣味ではありません。

 一方で、野球少年はどうでしょうか。ユニフォームが泥だらけになるまで、一所懸命に練習し、素振りの練習。

彼にとっての、甲子園球場は自己実現のステージでもあり、将来の自分を振り返るための欠かせない貴重な場所になります。はたまた、私は野球に特別強い感情も、そこで成し遂げたい夢もないので、甲子園球場を「自分の居場所」にすることはないでしょう。

4)無条件に自分を受け入れてくれる絶対的な安心感を感じることができる。

 「〇〇する私」「〇〇できる私」ばかりがフォーカスされ、承認されると、肩書や社会的地位を取っ払った素の自分は受け入れられないのではないか?という不安感は誰しも経験したことがあると思います。

  これも皮肉な話です。人は最初から無条件に人を受け入れることは難しいし、受け入れられることも難しいものです。共通の目的や理念、何かしらの考え方の垣根を超えないと、辿り着くことができない代物だと思っています。
 太っていようが、やせていようが、美女であろうが、イケメンであろうが。陰キャだろうが、陽キャだろうが。そんなことは関係なく相手を受け入れたいと思える人との繋がりは、この超越的な「居場所」にすることができると思っています。
 これは他己受容のフェーズを追わないといけない雰囲気しかありませんが、ここで話す内容ではないと思うので、考察は割愛します。

 だれとでも築ける関係性ではないからこそ、この繋がりの中でも高次元にあり、滅多にないからこそ、特別だといえます。


例では、人との関係性で生まれる「居場所」にフォーカスしましたが、思い出の居場所にしても然り。自分と「居場所」が点と点を結びつかせ、線になる。その目に見えない繋がりが、お互いを寛容に受け入れ、安心感を得られる関係性へと昇華させているのではないでしょうか?

でも心理的な居場所とは、文字通り「心」なんですよね。移ろいゆくことがあるから、不安だし、確証がない。だから、継続的にお互いが「居場所」を「居場所」たる所以の努力をしなければならない。そんなふうに感じています。皆さんはどうお考えですか?コメントで教えてくださると幸いです☺️

雑な削り方になりましたが、本日もありがとうございました!

引き続きよろしくお願いします!

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