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巡る時間と長い列のその上で

こういう事を思っていると生意気にも吉田修一さんの横道世之介という小説を思い出す。

今回もまとまりの無い断片的な記憶のお話。

私が小学3年生の時、母方の祖母が脳内出血で倒れて、入院した。
それは、秋が終わり季節が冬の扉を開けたようなそんな時期だったと思う。
友達と下校する何も変わらない、いつもの風景。また明日ねって別れて、自分の家のドアを開く。
いつもと違う空気感に違和感を覚えながらも居間に入る。そこには鏡台の前で泣き崩れる母の姿。
私は大人ってこんなに泣くんだなぁ、ってその時びっくりした事を覚えている。
「おばあちゃんが倒れたの、今から病院に行くよ、用意して」と泣く母に告げられて、
何が何の事か理解できないまま母の後ろをただついていった。
病院についた私達は、夜の病院の廊下を誰も口を聞かないまま歩いた。
その後、祖母が一命を取り留めた事を知った母は安堵からまた涙を流していた。
病院のベッドで横たわる祖母の体にはこれでもかという程に管がついていて、
意識はあるけれど、私の記憶にある祖母の姿とはかけ離れていて、声をかける事ができなかった。
病院の先生からは「一命を取り留めましたが後遺症が残り、半身不随と言語障害があます」と説明を受けた。
この時の母がショックを受ける姿を私は今でも鮮明に覚えている。
面会時間も終わり、「また来るね」と祖母とお別れをし、病院の外にでると、その年初めての雪が降ってきた。
街灯に照らされた雪はオレンジ色に光っていてキレイだった事と右手を伸ばして落ちてくる雪の掌に残る感覚を今でも鮮明に覚えている。

その日から私達家族の世界には一枚ベールがかかったみたいに少し薄暗い雰囲気を纏っていた。
母にとって祖母は唯一の心の拠り所で母が酷く落ち込んでいるのは誰がみてもわかる様な状態だった。そんな母に誰もが気を使って生活していたと思う。少なからず私は。
一方、祖母はリハビリをできるまでに回復し、私達も毎週土日は片道2時間掛けて祖母のお見舞いにいっていた。
年々祖母を訪れる回数は減っていったけれど私は出来るだけ母が祖母のお見舞いに行く時は付き添った。
祖母のためと言うよりは母のために、と言った方が正しいのかな。それは中学生になった私を祖母はもう認識していなかったから。
仕方ないのだけれど、祖母の記憶の中の私は、お気に入りタオルを離せずにいる小さな女の子だったのだから。
2時間かけて訪ねて行っても滞在するのは20分程度。それがお決まりだった。
その頃の祖母は甘いデザートと、イケメン介護士にハマっていたらしく、それは施設の担当の方が教えて下さった。
おそらく私よりも祖母と過ごした時間が長かったんだろうな、と今となっては考えたりもする。

そんな祖母が亡くなったのは私が21歳の頃。
当時のバイト先のアパレルの倉庫からの帰り道で母からの連絡で訃報を知った。
死因は誤嚥性窒息死で夕飯のご飯を喉に詰めて窒息したのだそう。
老衰するものだとばかり思っていた私は、それが意外で少し驚いた。
この頃の祖母はどこか「死に急いでいるように、早食いをしていた」らしい。
私のことを覚えていない時点で認知症が入っていたりしていたからこれも寿命なのかな。と思ったりもした。
そんな祖母の介護をしてくれていた職員の方々には本当に感謝しかない。

祖母のお葬式は私の人生で4回目のお葬式。大人になってからは初めてのお葬式だった。
お葬式は家族葬で、元々親戚も少ない家系だったので人数にしてしまえば5人だけの小さなお葬式だった。
おばあちゃんがいなくなっても泣かない自信があったのは、10年以上かけてお別れの準備をしていて、覚悟ができていたから。
もう伝えたい事も後悔も何も無くて、
優しいおばあちゃん記憶も私の心の宝箱に入れて大事にしまっていたから、上手にさよなら出来たつもりだった。

納骨をした帰りの静かなバスの中。窓を開けると、冷たい空気が入ってきて、ふっと沢山の事を思い出した。
それは、箱に大切にしまっていた一枚一枚の写真がハラハラと宙を舞うように唐突だった。
一緒のお布団で寝たこと、夏祭りに一緒に行ったこと、美味しいご飯を作って帰りを待ってくれていたこと、優しい手が私を撫でたこと、大好きなくまさんのぬいぐるみをくれたこと、思い出せばきりがない位、忘れていた色んな記憶を一気に思い出した。
それはあまりにも突然過ぎて、流れてくる涙を止めることが出来なかった。

気づいた事は私の中に在る祖母との記憶はとても優しい時間の流れ方をしていて、私の人生で一番、満たされていた時間だったのだということ。
何も間違っていなくて明瞭だったあの時間が、私と祖母の記憶。
祖母が覚えていた私もそうであった様に、私の記憶の祖母も優しく笑うおばあちゃんの思い出ばかりだ。

私と母はきっとそういう風にお別れが出来ない。
お互いがお互いの存在を意識しすぎているから、私は未だに怖くて母に会いに行くことも連絡をすることも出来ない。
母は人に依存するタイプの人だから、私が強くなくちゃ「共依存」になりかねない。
母と祖母がおそらくそうであった様に、誰かを失う事で自分が保てなくなる様な人間関係を私は望まない。
それをもし、愛だと呼ぶのなら愛なんか欲しくない。人の感情に振り回されたくない。
失う痛み、苦しみ、悲しみをずっと側で見てきたから、私は母から離れる選択を10代の時にした。
私はまだ弱いふりをして見ないようにして逃げている。
覚悟も準備も出来ないままで。時間は迫って来ているけれどどうしてもまだ、怖い。

隣で笑っている人が明日、いるかどうかわからないこと。
こんだけ生きていれば何度も経験する、突然明日が来なくなるという事。
人との関係はできるだけ、自分が後悔しないように選択したい。
それでも、きっと後悔はするのだろうけど。大事であれば大事であるほど。
ただ、もし私に出来ることが在るのであれば。
大事な人が私の記憶になる時は、笑っていてくれるように一緒にいる時間を過ごすこと、
私が誰かの記憶で生きていてくれるのならば、私も馬鹿みたいにヘラヘラ笑っていてほしい。
皆に必ず訪れる最後を、順番に巡ってくるその長い列に並んでいる一人として、できるだけ、笑って、ヘラヘラして、楽しく、ぶっ飛んで生きていたい。

祖母の記憶が私に教えてくれたこと。
祖母との記憶がそうであった様に誰かに残る私もそうでありたい。

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