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「ああ、それならわたしでも働ける」って思いたい

「働くこと」について、自分の感覚とか、こうだったらいいな、と思ったことを、そのまま書くのが怖いなあ、というのがあります。

気分で働く。

朝起きて、コーヒー片手にソファでくつろぎながら「今日はなんの仕事しようかな〜」とamazonでぽちぽち買い物するような感じで、世界中のあらゆる仕事から選ぶ。

一カ月夏休みする。

飽きたら「やーめっぴ」と、その仕事をやめられる。

働かなくても、生きていける。

働くことも、休むことも、趣味を楽しむことも、家族や友人と過ごすことも、ぜんぶ同じくらい大事。働くことが、他の時間に優先されない。

こういう働き方とか仕事のあり方って、今の常識に照らすと「いやいやいや、そんなんダメでしょ」とか、「そんなん仕事とは呼ばないよ」と言われるんじゃないかなあと思って、書くのも、そういう発言をするのも怖い。

一方のわたしは「そうなったらいいなあ」とか、「あ、遅かれ早かれそんな感じになるな」という感覚や願いを抱いているのですが、もう一方のわたしが「いや、そんなんダメだよ」「無理だよ」「言ったら批判されるよ」とびくびくしている感じです。

今よく言われている、「自分らしく働く」とか「好きなことを仕事にする」って、毎日働いて、正社員とか経営者とか社会的ポジションも得て、好きなことをひとつに絞って突き詰めて、お金もちゃんと稼いで、結婚も家事も子育てもして、趣味も交際関係も充実してて…みたいなイメージがわたしの中にあって。

「いや、そんなん無理ゲー」って思っている自分が、どこかにいるんですよね。

でも、冒頭に書いた「今日は仕事したいからして、明日はだるいから休んで、明後日は1時間だけ仕事して…」みたいな気分で働くとか、働かなくても生きていけるとか、飽きたらやめれるとか、休みたいときに休みながら働くとか、自宅にいて、人とそんなに関わらなくても創造的な仕事ができるとか。

そういうのだったら、「あ、わたしにもできるかも」「それだったら、働きたいかも」と思えるのが、正直なところです。



100年後の働き方をつくるというので、「誰もが軽やかに、わくわくしながら働ける社会へ」というビジョンを掲げています。

この「誰もが」というのは、恵まれた環境にいる人とか特別な才能がある人だけが、楽しくクリエイティブに働けるんだよ、ということじゃなくて、ほんとうにどんな人であっても、そうやって働く権利があるし、その方がこれからの社会全体にとっても良い、という想いが裏にあります。

でも、根底には「ああ、わたしなんかでも働ける、働きたい」って思える働き方が欲しいなあ、というシンプルな願いが、この「誰もが」という言葉に表れているだけなのかもしれません。



「わたしなんかでも」というのは、就活も上手くいかず、正社員になっても2〜3年で嫌になったり鬱になったりで会社やめてたりと、3年以上同じ会社で正社員として働いている自分がどうしても想像できなくて、結局慶應というすごく就職に強い大学を卒業しておきながら就職しなかった、できなかったという、働くことに対するコンプレックスがずっとあるからです。

なので今、これからの働き方をつくるスタートアップの共同代表として、ビジョンを伝えていくために、働くことについて真正面から向き合っている仕事をしていることがすごく不思議だし、「わたしなんかでいいのかなあ…」という不安もあります。

でも一方では、働くことに10年以上コンプレックスがある自分だからこそ、「これからの働き方」のビジョンを伝えていったり、つくっていったりできるのかな、とも思っています。



根が生真面目なので(いわゆる皆勤賞取ったり、オール5取ったりする優等生タイプ)、自分の「働くこと」に対するハードルや「仕事ではこうしないといけない」という基準がすごく高くて、自分で自分を苦しめてるなあ、とつくづく思います、笑

100年後の働き方をつくるという旅を通じて、自分自身やチームメンバー、そしてこのnoteを読んでくださっている方の「働く」の枠組みが、より柔軟に、より軽やかなものに変わっていくといいなあ、と思っています。

玉ねぎの皮を一枚一枚、ていねいに剥いでいくように、この旅を通じて「働くについて、こんなこと言うの怖い」という「こんなこと」に近づいていければいいなと思います。

その部分できっと、「あ、自分も実はそんなこと思ってたんだ」と気づいた方との、出会いがあると思うから。

それでは、また。

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