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3. 「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」 忘却できない傷の痕跡①

「20の美術展」シリーズ3本目の記事として、現代作家のグループ展を取り上げます。テーマは「傷ついた風景の向こうに」。世界そして自分の抱える傷をどのように癒していけばよいのか、作品は私たちに問いかけているように思います。忘却できない傷の痕跡を抱えて生きていくことについて考えました。

現代のアーティストの作品と出会える嬉しさ

22回目を迎える「DOMANI・明日展」の今年のサブテーマは「傷ついた風景の向こうに/ Landscapes in Our Age: Scarred and Reborn」である。

国立新美術館で開催されたこの展覧会は既に閉幕しているが、参加したアーティストらの作品との出会いを楽しむ機会はこれからもある。この記事も、少し前の自分のように、特に現代美術に興味を持ってこなかった友人への紹介にもなればという気持ちを込めて気合を入れて書くことにした。

記事中に図版を入れなかったので、気になる作家や作品の見つかった方は、下記リンク(本展公式ページの出展作家の紹介ページ)から覗いてみていただければ嬉しい。

また、記事内でも、作家ごとに公式サイトかそれに準ずるものが公開されていればリンクを貼っておいた。作家が制作活動を続けているうちに作品に出会えて追いかけたり応援したりできるのは、それこそ現代アートの醍醐味だ。近くで個展を開いていたり、知っている企業や都市とのプロジェクトを手がけていたり、直接話を聞く機会があったりと、アート作品が予想以上に身近に感じられるかもしれない。

私自身も現代の作品に関心を持ち始めたのは本当に最近のことなのだけれども、この展覧会で初めて知った作家たちの作品に興味が出て、今度あのギャラリーを覗いてみようかと次の一歩を踏み出そうとしている。

「DOMANI・明日展」とは

最初に少し展覧会の背景について触れておこう。この「DOMANI・明日展」というのは、若手アーティストが海外の関係機関等で行う研修を支援する文化庁のプログラム「新進芸術家海外研修制度(在研)」に関連して、一部の研修参加者の成果を発表する機会になっている。

対象が「美術,音楽,舞踊,演劇,舞台美術等,映画,メディア芸術の各分野における新進の芸術家,技術者,プロデューサー,評論家等」と幅広いのが特徴的な制度で、著名人を例に挙げれば、過去には狂言師の野村萬斎や演出家の野田秀樹、昨年森美術館の個展が圧倒的な入館者数を誇った塩田千春、バレエダンサーの森下洋子などがこの制度を利用した。
ただ残念なことに、事業仕分けで評価基準と成果の不透明さが指摘され予算縮減の方向が決まってからは採択数が減っている。短期的な成果の測り方もさながら、幅広い分野の候補者を潜在性も含めてどのように評価するのかは、文化行政の抱える課題なのかもしれない。

今年は、2010年前後に海外研修を経験した作家だけでなく、芸術選奨やメディア芸術祭などの文化庁の事業から選ばれた11名の作家が参加した。最初の展示室で過去の出品について説明があったので顔ぶれを見たところ、歴史が長いだけに、自分も名前や作品を知っているアーティストがちらほら参加していたこともわかり少し嬉しい気持ちになった。

傷ついた世界と芸術表現

それでは展示のテーマから話を始めよう。先入観なしに、「傷ついた風景」ときいて思い浮かべるのはどのような風景だろうか。展覧会のパンフレットを見る前の私はというと、オーストリアの山火事や巨大地震のような自然災害の被害を受けた地域、内戦や爆撃で荒廃した土地がまずは脳裏にうかんだ。それから、慰霊碑が立てられ、その名前自体がネガティブな意味を伴ってしまうような悲劇の起きた場所についても考えた。白黒の戦後日本の姿を想像した時には、テレビ番組のOPテーマ曲「パリは燃えているか」が脳内で流れた。人の数だけ答えはあるだろう。

上記は、報道写真に近いイメージかもしれない。昨年の世界報道写真展(恵比寿の東京都写真美術館にて開催)を鑑賞した際に、災害や悲劇の記録に衝撃を受けたのを覚えている。優れた報道写真や記録映像は、私たちに強烈なメッセージを伝えてくる。今の世の中、世界中どこで災害が起きても、ほぼリアルタイムで現地の状況をテレビやネットの動画や写真で追うことができる。そう考えると、先に挙げたようなイメージは私たちの身の回りに大量に存在していて、ひょっとしたら惨劇に麻痺しているとさえいえるかもしれない。世界は傷でぼろぼろだ。

だが、そういった傷を抱えた世界と私たちは向き合えているのだろうか。また、私たちは自分自身の抱える傷、他者の抱える傷をどのように癒していけばよいのだろう。そこにアートはどのように関われるのだろう。

この展覧会で11人のアーティストらは、「傷ついた風景の向こうに」見えるものを多様な形で表現している。その作品は、これらの問いを改めて私に突きつけてきた。記憶の中の傷跡との向き合い方、そして再生への道筋について考えることを始めていきたい。

展示構成

次の章からは、それぞれの作家について展示作品から考えたことを書き留めていく。
特に掘り下げて書きたいと思った米田知子については、さらに後の章で記述する予定だったが、少し時間を取ることにして後日単体の記事としてまとめようと思う。

米田知子の「コレスポンデンスー友への手紙」シリーズについて、記事ができたらリンクを貼ります。
また、最後に登場する畠山直哉の作品を手がかりに、本展全体の考察をまとめる予定でしたが、こちらについても考えをしっかり整理したいので後日別の記事にします。リンクが出来次第、こちらにも掲載します。

個別の紹介の前に、全体像として展示構成を紹介しておこう。下記、7章構成である。

プロローグーー身体と風景 石内都 米田知子
1.傷ついた風景――75年目を迎える広島と長崎 藤岡亜弥 森淳一
2.『庭』という風景――作家の死を超えて 若林奮
3. 風景に生きる小さきもの 栗林慧 栗林隆
4. 傷ついた風景をまなざす、傷ついた身体 佐藤雅晴
5. 自然の摂理、時間の蓄積 日高理恵子 宮永愛子
エピローグ――再生に向かう風景 畠山直哉

石内都 普遍化する個人の記憶

石内都の、傷跡のついた人の皮膚を至近距離で撮影した「scars」シリーズから展示は始まる。皮膚に生々しく残る傷跡は決して見ていて快感を覚えるものではないが、彼女の写真には質感があって、すっと触りたいような衝動に駆られた。身体に刻まれた傷跡は、過去に起きたことを思い起こさせると同時に、身体が生きている間中はその痕が変化し続けていくことを予感させる。時の広がりが感じられる写真たちだ。「傷跡」は本展覧会の多様な作品に通底する一つのテーマだと私は捉えた。

石内の亡き母親の遺品を映し出した「mother's 」や、「ひろしま」のシリーズからも一作ずつ出ていた。「mother's」や「scars」で表現されているのは、限りなく個人的な喪失や負傷の体験だが、それが鑑賞者に共有されて普遍的な記憶として感じられていくことが興味深い。傷と言った際には、身体的な傷と精神的な傷という風に分けて語られることが多いが、身体的な傷をまざまざと見せられているうちに、私は傷の持ち主の心の傷について考えていた。痛みを共有することはできないし、深く皮膚をえぐる傷は私の背中に存在しないのに、その傷を見る私はそれを自分の中にある痛みや、目を背けていた傷と同化させる。

「ひろしま」の一枚は、よく見ると三重構造の写真になっている。原爆ドームの映った写真の上に、原爆ドームの周りだけを写した写真をテープで貼り付けたコラージュを、さらに撮影した一枚なのだ。物理的に傷跡が残された写真というのも面白い。その傷がなければ、原爆ドームが意外と目立たない小さな存在で周りの景色に同化しているような印象を覚えた。

彼女の作家としての公式サイトは見当たらなかったが、近年首都圏で開催された2つの展覧会サイトのリンクを掲載しておく。

米田知子 そこに今はないものを写す

現在はロンドンを拠点に活動している写真家 米田知子は、20世紀の歴史を刻んだ、主にかつて戦地だった場所の時を経た姿を撮影した。タイトルを挙げると《畑――ソンムの戦いの最前線であった場所/フランス》や《ウェディング――中国から北朝鮮を臨む国境の川、丹東》のような作品たちだ。また、作家アルベール・カミュにまつわるシリーズも展示している。

彼女の作品を語る上では幾つか読みものが必要で、少し時間をとって考えてみることにした。後日まとまったら記事を出したいと思う。
今すぐに作品が気になるという方のために、丁寧なインタビュー記事を見つけたのでリンクを貼っておく。

藤岡亜弥 ヒロシマが平和になるということ

広島の爆心地まわりを写真に収めてきた藤岡亜弥の作品が並ぶ。木村伊兵衛賞を受賞した写真集『川はゆく』(2017)のシリーズに新作が追加されていた。広島の街を上空から撮影したものや、川べりで話す人々の様子など、被写体は日常の風景にも見える。だが、なぜだろうか。ずっと見ていると居心地が悪くなる。

藤岡にそのような意図があったのかキャプションからは定かではないが、この写真には、亡くなった人たちの気配があちこちに漂っているような感覚を覚えた。被曝した土地も今ではこんなに平和になったのだ、と喜ぶことができない。むしろ、明らかに惨劇を思い起こさせる場所とその地を訪れる修学旅行生たち(かつて私もその一員だった)の「平和」な風景とのギャップが、「風化させない」という陳腐な言葉よりも、その思いを重く訴えてくる写真なのである。

その光景は、あえて「やらせ」で賑やかな感じを出さなくても目の前で起きている今の広島の日常で、広島がヒロシマから解き放たれてきていることを意味する。苦しい過去をのりこえて得られた平和。その現実をどう捉えるかは、ヒロシマを直接知らない私たち世代に委ねられている。亡霊たちは言葉を発しない。だが彼女の写真が何かを呼び覚ますように、私たちの中にも亡霊はいる。

森淳一 ナガサキの瞬間

彫刻家 森淳一は、故郷・長崎の金毘羅山をモチーフにした油彩画や彫刻作品などを出品している。長崎の地形は山がちで坂が多い。そのおかげで原子爆弾の被害が、平坦な土地だった場合よりも遥かに軽減されたということは知られているだろうか。

森淳一の生まれ故郷は、爆心地から金毘羅山を挟んだ場所にある。小高い金毘羅山のおかげで、原子爆弾の熱線から山の向こうの人は身を守ることができたという。彫刻《山影》は、その話から着想を得て生まれた。黒の大理石で金毘羅山を空から見た姿を再現しているのだが、風景そのものを表した彫刻というのは珍しいように思った。高天井の展示室の照明に照らされると、真っ黒な山の稜線がくっきりと照らされ、影の部分と光の部分が鮮明になる。その光はまた、昭和20年8月9日の閃光と重なる。

風景の彫刻が珍しいと感じたのには訳がある。西洋の伝統的な彫刻が神話を主題にとるように、少なくとも近代以前の歴史を辿れば世の中には(イスラム教圏を別として)圧倒的に人間の形態をとる、つまり人型の彫刻が多いのではないだろうか。日本の彫刻文化も仏教美術として育ってきたことを考えると、やはり人型が多い。一方で森の作品は、これまでの作品も少しネット上で探して画像を見てみたが、原爆が投下された瞬間の光を目に留めた者を表現した作品を除いて人型のものが極めて少ないのだ。

重要な問題なのでここで詳細を語ることはできないが、長崎において人型の彫刻は論争の的になってきた。長崎の平和公園に設置されている《平和祈念像》も《母子像》も相当な反発や拒絶にあったが、見識者の間で十分な議論ができているのかはわからない。これは長崎に限られることではなく、一人の市民として、アートを通じた喪のあり方について考える必要があると感じた。少し脱線したが、森の彫刻への姿勢にも少なからず影響しているのではないだろうか。

森は、風景を彫刻に表現するアプローチを取っていたわけだが、これは同じ展示室内に並ぶ若林奮の作品にも通じる。ここまで11人の作家のうち、4人を取り上げた。石内から森に至るまでの作品は、20世紀の戦争に焦点を当てていたが、ここから時代と場所は現代の日本社会へと移っていく。

若林奮 自然のかたち

若林奮といえば、軽井沢セゾン現代美術館の庭の全体プランニングを務めたとして聞いたことがあった。私も定期的に訪れる好きな場所の一つである。本展では、彼の《緑の森の一角獣座≫関連の作品が展示されていた。

一角獣座は、東京都西多摩郡日の出町のごみ処分場建設に反対する住民からの要望を受けて、予定地内のトラスト地に若林が制作した庭のことを指す。「庭」という土地に根ざした作品を残すことで、政府による作品撤去を著作権侵害だとして防ぎ、処分場建設を食い止めようとした社会運動の一貫であった。結果的に訴訟の末、行政代執行により「庭」は2000年に撤去され処分場は建設された。若林は2003年に他界したが、作品が失われる前に一角獣座の一部を日の出町の別の土地に移して新たな作品「新しい庭」を制作しており、その遺志は継承されている。

本展には、若林による一角獣座構想段階のドローイングや模型、銅板を使ったカッパーペインティングなどが集められた。足元の植生を整備して道や階段をつけ、石でできた椅子とテーブルを置いた憩いの場を設けるなど徹底的に森の中の素材が用いられているのがわかるが、その一方で、36枚の銅板で周囲を囲むというから驚いた。腐蝕したオレンジや緑の混ざった色合いの金属が視界を遮れば、森との調和が一気に崩れるように思えた。

しかし、彫刻と環境との関係性を考えた時に、このアンバランスさは一面的な見方なのかもしれない。セゾン現代美術館の庭園内を散策した時のことを思い出すと、そこに設置されている彫刻たちは背景に溶け込んではいないけれども、それだけが浮いているというわけでもない。言うならば、公園の中に動物が立っているというような感覚だ。その印象からは、森の中に佇むユニコーン=一角獣というのも連想しやすい。空間の中で異質に浮かび上がる真四角の銅板は、その上にエッチングで描かれた日の出の森の樹々へと人々の視点を誘導する。銅でできた立体作品が、環境を鏡のように映し出しているようにも取れる。

考えてみれば銅も自然界の産物で、アートといっても人間が自然のかたちを一部わずかな時間で作りかえているにすぎない。いつかこの銅も自然に飲み込まれて還っていく。人間よりも遥かにゆっくりと森の時は循環していくのだろう。

栗林慧と栗林隆 見えないものを見ようとする

次の少し薄暗い部屋では、昆虫写真家の栗林慧の作品を、インスタレーション作品で注目を集めている息子の栗林隆がプロデュースし、写真や映像で空間を構成した親子合作が登場する。

このインスタレーション作品《我々の宇宙》は、主に栗林慧による昆虫を接写した写真や映像によって構成されるのだが、それだけではない。展示室中央には大きな柱がそびえ立っていて、白い文字でnatur beingと書いてあった(はず、naturはドイツ語で自然という意味だが、beingは英語なのか?)。近づくと柱は黒の袋が積み重なったものであること、また解説文からこれが除染廃棄物を入れるコンテナバッグだということがわかる。中身はなんだろう。まさか。

柱は、栗林隆が2015年に発表した《vortex》という作品を思い起こさせる。その作品で栗林はバッグを積み重ねて、黒の大きな立方体を形成した。中にあるものを隠すように壁が立ちはだかり、壁の一部開いているところから鑑賞者が覗くことができる。中に空間が存在するのであれば、内側を見たくなるのが人間の心情だ。この作品については下記インタビュー記事が詳しく取り上げているので、気になる人はぜひ読んでほしい。

見えないものを見ようとして、(望遠鏡はかつぎ込まないけど)人々は生きている。見えないものをそのままでは理解しづらいから、何かしら見える形にしたいと躍起になる。それでも見えないときに、目に見えないよくわからないものへの漠然とした恐怖心は、次第に忘れられ、無関心へと変わってゆくのではないか。斬新で印象に強く残るインスタレーションを見せられると、見えないものの存在に気づいているのか、それを理解しようと試みているのか、自分に問いたくなる。

その意味でも昆虫写真は、私たちが見えている世界がいかにごく一部にすぎないのかを意識させる。なんといっても虫をローアングルで撮っている映像を大画面で見ていると、自分が「不思議の国」で小さくなったアリスになったような気分を味わう。昆虫が見えないところでいかに活発に活動しているのか、頭で想像するのと実際に目の前で動いているのを見るのとでは違った。第一、体のサイズに対して動きが速すぎて驚いた。肉眼で全体像がやっと見えるほどの小さい生命の一瞬を切り取って、模造紙くらいの大きさにプリントしても細部も背景もぶれずに撮影できていることにも驚愕する。また、余談ではあるが、クマムシだけでなく昆虫全般、他の生物に比べると非常に放射能には強いらしい。

佐藤雅晴 現実をトレースすること

昨年亡くなった佐藤雅晴の未完成遺作の、3.11後の福島を描いたアニメーション作品《福島尾行》が上映されていた。撮影した映像の一部には、実写をトレースしたアニメーションが組み込まれているのが特徴的だ。例えばあるシーンでは、栗林の作品にも出てきた例のコンテナバッグをクレーン車が釣り上げ、荷受する人が位置を調整しながらそれを受け取り積み重ねていく。そこには除染作業や廃棄物の蓄積という日常生活の片隅で実行されている機械的な反復運動が静かに映し出されているのだが、画面の中のコンテナバッグはアニメーションで表現されている。

このように要所要所で目を引く対象が背景からトレースされていた。いや、手で書かれているからその対象が目を引くのではないか。部分的にパーツを実写ではなくトレースで表現する効果は大きい。私たちは映像を見ているうちに自然と、画面中のトレース部分を目で追いかけてしまう。その対象が何かに覆い隠されたり動いて見えなくなったりすると、自分が追いかけていたことにふと気づく。タイトルから想起する通り、鑑賞者は映像を「尾行」するのだ。また、初めは気付かないくらいの実写とアニメーションとの微妙な違和感によって、ドキュメンタリーとして見ているにもかかわらず、これが現実なのか非現実なのかのはっきりしない感覚を見る者は味わう。

この作品がなぜ「尾行」と題されているのか。佐藤は、制作過程にも「尾行」の概念を見ている。そのヒントとなるのが、佐藤の別の作品《東京尾行》だ。動画のリンクを貼っておく。

《東京尾行》では冒頭、フランスの思想家ジャン・ボードリヤールの次の言葉が表示される。

他者のあとをつけること、自分と他者を置き換えること、互いの人生、情熱、意志を交換すること、他者の場所と立場に身を置くこと、それは人間が人間にとってついに一個の目的となりうる、おそらく唯一の道ではないのか
──ソフィ・カル著、野崎歓訳『本当の話』平凡社、1999年、189頁

この文章に沿って考えるならば、実写で映し出されたものの中から選び取った幾つかの対象物の形態をなぞっていくトレースの作業と、尾行という行為の類似性が見えてくる。

佐藤は、「トレース作業は、対象を自分の中に取り込む行為」だと後述のインタビュー記事で語っている。自分の中に取り込む、とは、対象の姿形を追いながらそれを理解し吸収することを試みる行為を意図しているのではないだろうか。その時に対象は、トレースする、追いかける存在(=佐藤)に自らを委ねることになる。

一方で、ボードリヤールが「置き換える」という言葉を用いるからには、その行為は自分と対象とで相互に作用していることに注意したい。前提として、尾行とは対象に自身を従属させる行為である。したがって、その先の行動に主体の意志はなく、「尾行」の行為の目的が対象そのものとなる。ゆえに尾行は、主体性の欠けた自己目的化にほかならない。

佐藤がボードリヤールの思想にどれだけ忠実に自らの制作行為を重ねていたかはわからないので、ミスリードを招くような解釈をここから広げる必要はない。ただ、少し前の行にはこのように書かれているので、引かれている言葉をより文脈的に理解するために合わせて紹介しておきたい。

他者のあとをつけること、それは彼の足取りを引き受け、彼の人生を彼の知らぬうちに見守ることであり、どこにでもついてきて太陽から守ってくれるという、古来影が果たしてきた神話的役割を演じることだ──影をなくした男は、防波堤なき人生の荒波に晒される──それは自分自身の人生に対する責任という実存的重荷を軽くしてやること──そして同時に、他者の後をつける者もまた自らの重荷を軽減される。なぜならそれは他者の足跡へと盲目的に身を投じることなのだから。
──ソフィ・カル著、同、188-189頁

ボードリヤールは、自己目的化する尾行という行為を決して否定的に受け止めてはいない。むしろその甘美さを認めている。私たちが自分自身の行為をすべて自分の責任で、自らが引き受けるべき義務として認めていたら、どれだけ生き難いのかを彼は指摘する。他人の人生を一部引き受け肩代わりすることで、自らも責任を手放す。そうやって生きる方がよっぽど自由なのだ。

だが、私の理解が追いつかない点は、それこそが核心といえるけれども、《大いなる眠り》でソフィが他者に眠る間の数時間自分の人生を委ねるように、それが能動的に自らの身を投じる行為であれば責任転嫁の仕組みの理解はできるが、自分が尾行されていることに対象が気づかないからこそ尾行なのであって、果たしてその場合に尾行されている者の重荷が軽減されているといえるのだろうか。

作品から大きく逸れてしまうので《東京尾行》に戻り、同作品について作者と原美術館の学芸員の坪内雅美との間で交わされたメールインタビューの記事リンク(3本シリーズ)を貼っておく。記事内(2本目)では、作者がトレース作業を「尾行」だと認識した経緯が書かれている。

《福島尾行》にかける佐藤の思いは、生前のFacebook投稿からもうかがい知れる。

ちなみにボードリヤールの言葉は、ソフィ・カル『本当の話』にボードリアールが寄せたソフィ論から引かれていた。(身内が持っていたので借りて読んだが、amazonではどうやら現在品切れしているらしい。)

日高理恵子 そこに「在る」感覚を表現する

樹をモチーフに、真下から空を見上げた世界を日高理恵子が絵画で表現する《空との距離》シリーズは、本展のメインビジュアルとしてポスターにも使われている。樹木の幹や枝、葉、花芽が隅々まで、麻紙の大きな画面に岩絵具で描きこまれている。日本画の画材とここで出会うとは思っていなかった。

日高が樹を通して空を写し出すようになったのは、1980年代後半のことであるから、その取り組みは四半世紀を超える。以来「樹を見上げて」「樹の空間から」と作品タイトルを変え、少しずつ作風も変化してきた。2002年から「空との距離」シリーズが開始されると、樹と空との間の「距離」へとその関心は向けられていく。

日高のモノクロームの作品は筆触を目立たせずに細部まで樹木を再現するので、遠目では写真のようにも見えるが、それだけリアルであっても写真とは大分異なった印象を覚える。特に近年の作品では、真っ白な余白に空の奥行きを感じる。全く同じ構図で下から写真を撮ってもこうはならないだろうから、いかに彼女が見えているように描いているのかがわかる。人間の知覚とは不思議だ。空の高さを知っているから、その高さを感じるような見え方をするのだろうか。

タイトルの変遷が物語るように、日高の眼差しの向けられる先も、樹そのもの、樹との距離感から空との距離感へと変わっている。背景だった空が対象そのものに変わるとき、樹との間には確かに存在していた距離が、測れないもの、感じ取るしかないものへと変化する。

日高は、見ながら描いたのか。それとも見た記憶を元に描いたのだろうか。彼女の描いたものをみれば、真上に目を向けてから、視線を落として見えたものの記憶を元に再現したと考えるのが自然だろう。ゆえに、その距離を表現する行為は、距離感という自身の身体感覚に頼って描くことだといえる。従来、立体感は遠近法や明暗を使って表現されてきたが、彼女の場合にはそのどちらでもない方法を使って立体感を表わしている。それこそが写実的な絵画を現代においても描き続けてきたアーティストとしての個性なのだと思う。

宮永愛子 広がる空想世界の地図

次の部屋に入るなり、膨大な数(目録によれば12万枚)の金木犀の葉をつなげた長さ30mにも及ぶベールを天井から吊り下げたインスタレーション作品《景色のはじまり》に目を奪われる。これらの葉っぱは、溶液にさらして葉脈だけにしてから地道に貼り付けて繋ぎ合わされた。本展のチケットにも、葉脈だけになった葉が一枚写っている。

葉っぱが重なったところは山吹色になり、薄いところとひだ状で重なって厚くなったところでは光の通し方が変わり立体感が出るのだが、近くで見ると羽のように繊細で空気に溶けてしまいそうだ。一方で、現実的な話だが、これだけ華奢にもかかわらず大きな作品を高くから吊り下げる設営作業の大変さも想像できる。

作品の周りを一周しながら、景色のはじまり、というタイトルの意味を考える。本作品を制作した宮永愛子は、この作品について制作当初(東日本大震災間もない頃)、下記のように語っている。

一枚の葉が、今まで誰かの庭を彩り息づいていた時の地図だと思うと、その一枚一枚の地図を繋ぐ作業は、それぞれの景色を結ぶ作業であり、また人と人とを繋いでいく作業でもあるのだ と思います。毎日少しずつ大きくなるこの小さな景色は、世界の綾を織り込み重ねるように広がっています。

――景色はこの足元からどこまでも繋がっている。
遠い景色、これから生まれる新しい景色、隣に今まであったそれぞれの見慣れた景色へも。

地図と地図を繋いでいく過程で連想するのは、巨大な世界の地図をひたすら小さく切り分けて、ジグソーパズルのように再構築する作業だ。ただし、このジグソーパズルは凸凹をかちっとはめるものではなくて、飛び出たところは重ねてもよいし、へこんでいるところはそのままでよい。向きだって正しさがない。そうやって繋がるはずのなかった道を繋げて、山と川を繋げて、全く別の世界が出来上がる。そうやって出来上がった世界に息を吹き込んでふわっと広げたイメージ。これはもう完全に私の頭の中の想像。作家の意図や美術史的文脈は度外視。ただ、なんとなく彼女の作品からは、そんな空想のインスピレーションが漂ってきて、その匂いに包まれるような気分を味わった。

毎年落葉する樹々には再生の気持ちが込められる。日高、宮永と樹を扱った作品を見てきたが、次の畠山の写真にも樹木が登場する。

畠山直哉 再生と消えない痕跡 ー改めて「傷ついた風景の向こう」を考える

最後に登場するのは、畠山直哉が3.11の被災地を訪れて樹木を撮影した《untitled (tsunami trees)》シリーズである。この作品は、制作者の背景(東日本大震災で甚大な被害を受けた陸前高田市の生まれで、母親も実家もこの災害で失っているという事実)を知っていると知らないとでは、見え方が大きく異なる。

被災地を写した写真は相当な数見てきた。「今から津波の映像が流れます」というテロップが表示された後に流れる映像、写真が頭に焼き付いている。畠山の写真は、被災地を美しく表現しているように思った。改めて美術館の壁に掛けられた写真として見るからなのか、いや理由はそこにはないだろう。災害の跡を美しいという言葉で表現することに嫌悪感を示す人もいると思うが、私は、あれらの写真が、震災という個人的な体験への反応として故郷への愛情を表現しているような印象を覚えた。とあるインタビューで畠山は「死化粧」という言葉を用いていたが、弔いにおける故人の美化、という気持ちも私の想像する愛情に含まれる。ただ、そういった他者への働きかけだけではなく、彼が自身の内面の傷と向かい合うための個人的な行動として撮影しているようにも思えるのだ。流された実家のあった場所、自分の知っている風景の変わり果てた姿、そこには記憶そのものが写されている訳ではないが、個人的な記憶が投影されていることを私たちは想像する。

冒頭の石内の「mother's」シリーズを思い出す。彼女は、母親が皮膚のように身につけていた服や化粧品を撮影した。そうすることで初めて母親と向かい合えたような気がしたという。そのような個人的な弔いの行為がなぜ鑑賞者の琴線に触れるのだろうか。それを考える上で、まず悲劇的な出来事をいかにアートで表現できるのか、またそれを鑑賞者がどのように受け止めることができるのかという二つの問いに分けて考えたい。

悲劇的な出来事の芸術表現と受容の方法

悲劇的な出来事について、芸術家がいかに表現することができるのか。そのひとつのアプローチをこの展覧会を通じて見出した。森淳一の《山影》や石内都の《scars》を例にあげるとわかりやすいが、これらの作品は、例えば報道写真のように出来事を直接的に再現し伝えている訳ではない。過去の出来事に対して、明確な意味を提示しているわけではないので、鑑賞者は想像力を働かせて、そこに見えないものを自分なりに考え思い描いていくことになる。つまり、制作者は、作品の見方を特定の出来事や犠牲への追悼または賞賛などの意に固定せずに、意味を曖昧なまま残し鑑賞者に考える余地を与える。それを受けて鑑賞者は、作品から目に見える形で表現しきれないものを汲み取り想像する。これは、私たちが傷ついた風景と向き合う上での一つの態度なのではないだろうか。

そのように考えると、ひとつの個人的な喪失体験を、出来事そのものの忠実な再現度合いではなく、その出来事を鑑賞者に思い描かせる力こそが芸術作品としての真価だと考えられる。

先日アカデミー賞の授賞式で、マーティン・スコセッシが言ったとされる「最も個人的なことが、最もクリエイティブ」という言葉が注目を集めたのはまだ記憶に新しい。映画《パラサイト》の監督ポン・ジュノがスピーチ内で紹介したフレーズである。この言葉からは様々な意味を読み取れるが、個人的な喪失体験がいかにして人々の心を動かすのかを示すことで、一つの解釈を提示したい。果てしなく個人的な記憶ほど、人々の想像力を刺激する。

ここまでの話は、制作者の側からの傷ついた世界を表現する可能性、さらには鑑賞者がそれらの表現からいかに想像力を広げるのかについて書いてきた。鑑賞者の態度に話が及んだところで、私たちがなぜ「想像」する必要があるのか、について考えてみたい。

完結した物語ではなく、見えないものを伝えること

過去の悲劇的な出来事を、作品で直接的に再現し目に見える形で再構築したとき、それは「悲惨な物語」として人々に一定の意味を持って受け入れられる。過去の出来事に対して、「真実はこうだ」「このように理解するべきだ」と、作品がひとつの解を示すようでは、アートは限りなくジャーナリズムに近づくのではないだろうか。私はそれらを混同することは危険だと考える。

だからこそ、制作家のアプローチとして、直接的な表現ではなく、表現者と鑑賞者が共に「真実ではないかもしれないこと」「わからないこと」「語りえないもの」をそれとして受け止め、自らの想像力を駆使して鑑賞者も能動的に作品と向き合うことが求められる。

見えないものの中に意味を見いだすこと、虚実の境界の不確かな世界を見つめること、他者の中に自身が混ざりこむこと、そうしたフレーズはまさに本展の出品作を想起させる。そうした曖昧な表現にこそ、私たちが過去の悲劇について考え未来を思考する対話の種がまかれている。

過去の記憶の意味づけがアートにできるのか

もちろん歴史の解釈や、政治的思想の表明をすることはアーティストの自由であるから、私はその自由を尊重する。これまで話してきた「悲劇的な出来事の表現方法」についても、この手法が最も適切だと主張しているわけではない。ただし、彼らの表現や思想の自由を尊ぶからこそ、作品が事実として直接的には表現していないが包含している政治性を捉えていくことが、受け手のあるべき姿ではないだろうか。

ここで問題提起しているのは、作品そのものが政治的な意味を持つ、あるいはある出来事に対して特定の意味を直接的に示すというのは、アートとしてふさわしくないのではないかという点である。権力者が、自身に都合のいいように作品を利用することがいとも簡単にできるからだ。

芸術が権力と接近すること自体が問題だとはいわない。政治と芸術との距離をどこまで許容するかで政治利用の定義は異なるが、国が芸術文化を支援することは望ましいことだ。例えば私は国が、新進芸術家海外研修制度を設けてこのDOMANI・明日展を開催していることを支援する。問題は、それが特定の思想を目に見える形でわかりやすく表現するための道具として使われる場合に、私たちがそれをアートが備える訴求力や心を動かす力によって意識せずとも、それを事実として受け止めてしまうことだ。

記録と解釈の違い、解釈の自由について

アートとジャーナリズムの混同を危険視していると先ほど述べた。現在を忠実に記録するのがジャーナリストであれば、過去を忠実に記録するのは、歴史家の仕事である。過去そのもの(史実)は変えられないが、過去の見方は開かれているので多数の解釈が存在する。特定の解釈だけを正義あるいは誤りだとすることはあってはならない。その意味で、言論、表現の自由は保障されるべきだ。そして歴史家には、誰がいつどこで何をしたのかという史実を、国情や政治意識に左右されずに調査し明らかにする義務があると私は考える。

それゆえ、出来事について特定の解釈を直接的に表現するものは、アートとは見なせないという風に私は考えている。それは、アートとしてではなくひとつの言論として見なされるべきだ。言論および表現の自由は守らねばならない。ただしその自由を、他の自由よりも優先して守ることもできない。規制と自由の線引きが一本で済むなら話は単純になるが、表現の自由と、表現が侵害する自由はまた別の問題である。既存のケースに即した入念な検証が必要であろう。

最後に、悲劇的な出来事をアート作品にする場合に切り離せない問題に触れておく。先ほど、被災地を写した写真を美しいと表現したが、この表現からは倫理的な問いも生まれる。長崎の彫刻をめぐる議論はこの問いにも関連しているのだが、悲惨な出来事を想起するような芸術作品を生み出し審美化するのは倫理的に許されないという考え、追悼すべき記憶をアートではなく娯楽として消費することへの抵抗感は、確かに存在する。美しいからといって快楽をもたらすとは私も思わない。では、何がよくて何が許されないのかを、どのように区別するのか。残念ながら、私にはまだその問いを考える材料が十分にあるとは言えない。先に書いた、言論とアートの区分、表現の自由の問題と合わせて、既に世に出ている作品を地道に冷静に検証していくことを美術界に求めたい。もちろん一個人としても、これから私は作品に対して真摯に向き合っていきたい。

ここから先、「傷と忘却と記憶」について書く予定なのですが、非常に文章が長くなってしまい、一度キリの良いこの辺りで切ることにしました。少し内容が熟したら続きを書きます。少しだけ前振りを入れておきます。

傷と忘却

記憶の表現についてさらに考えていく上で、改めて畠山の写真に戻ろう。彼の福島で撮影したシリーズには、左右で異なる表情を見せる木の写真が目立つ。痛々しく枯死した右側に対し、左側には濃い緑が生い茂っている。津波で損傷しても反対側だけは成長を続けてきた。陸前高田といえば「奇跡の一本松」が有名だけれども、からだの一部が死んでいて一部が生きている状態こそ奇跡のように思えて、畠山は被写体として撮り始めたという。

この被災した樹木は、人間の負う心の傷を象徴しているように思えた。一部の傷は完全には癒えないし、傷跡が残る。それでも人は、傷跡を抱えたまま残りの一生を生きていく。その日々には新しい出来事が登場し、いつの日か傷跡は目立たない存在になるのではないか。そうやって私たちは悲しい出来事を乗り越えてゆく。

だが、直接の外的刺激から生じた傷が癒えたとしても、傷ついた記憶や痕跡は残る。身体の傷もそうだが、私たちの記憶の中にも痛みの痕跡が残る。それらを完全に消し去ることはできるのだろうか。仮に消し去ることができなかったとして、直接傷ついていない人でも、その記憶と痕跡を共有することはできるのだろうか。

(つづく)

あとがき:
三本目の記事にしてようやく、文章を書くことに少し慣れてきたような気がしますが、一つの記事を書いている間に五つくらいは書きたいテーマが出てきて、インプット不足を痛感します。文章を書くのは難しい。

今回「傷ついた風景の向こう」について考えているうちに、今年放送されたNHKのドラマ「心の傷を癒すということ」と宇多田ヒカルのアルバム《Fantôme》、フランスのバンド・デシネ『わたしが「軽さ」を取り戻すまで La légéreté』のことを思い出していました。最後のはパリのシャルリ・エブド事件の生存者の描いた漫画です。それらについて連想したことも追い追い別マガジンにてまとめられればと考えています。

随所で話が抽象的になりましたが、この記事内では難しいことを言っているわけではないので、文章にわかりづらいところがあれば、ひとえに私の咀嚼力と表現力が追いついていないのだと思います。しばらくしたら手直しするかもしれません。
   
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!


最後までのお付き合い、ありがとうございます!