見出し画像

*3. 芋づる式読書マップ 【前編】

 本棚を人に見せるというのは、少し気恥ずかしくないでしょうか。読んでいる本の種類や並べ方には持ち主の人となりが表れる、とよく言われます。
 先日ネットで見かけた「岩波芋づる式読書MAP」が面白そうだったので、「部屋の本棚の中から、今の自分が良いと思った本を」という条件で芋づる式選書をしてみました。
 せっかくの選書ということで、タイトルと簡単な紹介文を書いて記事にまとめています。これなら本棚を見せるよりは大分ハードルも低くなりました。

芋づる式の進め方

マップのルールは、本を選んだら、その本から連想した本を一冊手に取り書き入れる、というシンプルなもの。なかなかお芋の蔓を探り当てる過程は面白く、なんとなしに選択した次の本について、連想した理由を言葉で言い表せない……とキーワードを考え込む時もあった。

私は真っ白な紙に自分で丸を書いてマップを作っていったが、下記リンク先には岩波新書の用意した白地図テンプレートと充実のラインナップの読書マップがあるので、ぜひご覧いただきたい。

マップをnote記事で紹介するにあたっては、途中で枝分かれしている箇所もあり分量も多いので、A4の紙一枚に書き出した27冊のうち15冊をこの記事ではまず紹介しようと思う。残りの12冊については、後編の記事を後日上げる予定。

では、さくさく進んでいこう。ミステリー小説は含まれていないが、内容紹介欄には多少のネタバレを含むので気にされる方はご注意いただければと思う。

①イタロ・カルヴィーノ、和田忠彦訳『魔法の庭・空を見上げる部族』

 イタリア近現代文学を代表する作家の一人、カルヴィーノ(1923-85)の短篇集。ネオレアリズモ映画の情景がぱっと浮かび、太陽の光や野生の描写が鮮やかに印象に残った。子供たちの遊びの世界に戦争があまりにも溶け込んでいて、現実と子供たちの頭の中のファンタジーの境目がよくわからなくなる。どうしたら魔法の非日常の世界に飛び込めるのだろう。「食べたい」「勇敢さを見せたい」「冒険したい」といった時に残酷で原始的な欲求の描写が心に沁みた。

→「子どもたちの世界」

②ジャン・コクトー、中条省平訳『恐るべき子供たち』

 ジャン・コクトーが自ら挿絵も手掛けた小説。終始子供たち(特にエリザベト)の目線で語られ、ほとんどの場面が子供部屋の中で完結する4人の男女の話である。序盤から破滅への暗示的要素があり、怠惰で耽美な20世紀初期のブルジョワジーの世界に浸れる。作中描かれる同性愛や盗みや近親相姦や薬物などは当時の社会で悪とされてきただけに、読者にとっても現実世界からの逃走にうってつけで、この作品は当時の若者を阿片のように魅了しただろうと思う。

→「死に向かう話」

③カミュ『誤解』

 調べたら、カミュの戯曲『誤解 Le Malentendu』の日本語版はどうやら文庫版では今日絶版らしい。『カリギュラ』にはハヤカワから岩切正一郎訳が出ており、「死に向かう話」といえばそちらを挙げてもよかったが、ここではあえての『誤解』を紹介したい。20年ぶりに母と妹のいる故郷に婚約者を連れて戻った若者が、彼女たちの営む宿に泊まるのだが、そこで彼女たちが日ごと行っていたのは殺人だったという話。そこからの結末にどんでん返しはなく、観客は初めから結末を見据えている。しかし、サプライズのなさが作品としての評価を下げるわけでもないだろう。兄は自ら名乗ることなく家族に自分だとわかってもらおうとしたが、初めに正体を明かしさえすれば悲劇は防げたのかもしれない。では「自分を他者に認識させる」とはどういうことなのだろう。カミュの他の短編作品にも通じるテーマに溢れた戯曲である。

→「家族」

④ナタリア・ギンズブルク、須賀敦子訳『ある家族との会話』

 須賀敦子によって日本に紹介された女性作家ナタリア・ギンズブルクの代表作である。1920年代から50年代、ファシズム台頭期から戦後復興の時代にかけてのイタリアを描写している。ユダヤ系の一家である自身の家族や身の回りの実在の人物たちを実名で登場させており、ユダヤ系としての出自や反ファシズムの友人との交流の描写には歴史のリアリティがのしかかる。馴染みの薄い土地と時代の一家族の物語ということもあり、この時代背景に興味がなければ少し読みづらいかもしれないが、読み終えれば豊かな読後感を得られるはずだ。

→「息子で歴史家」

⑤カルロ・ギンズブルク、竹山博英訳『ピノッキオの眼』

 著者カルロ・ギンズブルクが、④の著者ナタリアの息子であることからの連想である。学生時代に、著者の『チーズとうじ虫』(これまた今は絶版になっている)(「牛乳からできたチーズにうじ虫がわく」現象を見て書物を読み、自分の考えを発展させて、当時の宗教的思想を否定したという中世ヨーロッパの粉挽農民が出てくる。)の面白さに惹かれた。
 本書は、何かを(クリティカルに)見るための適切な距離とは?という問いに関する9つの論文のアンソロジーだ。まるで百科事典のように古今東西の思想や芸術が登場する。全ての章がナショナリズムや文化の摩擦に関する示唆に富んでいるが、特に「神話」「様式」「中国人官吏を殺すこと」が印象的だった。

→「ユダヤのアイデンティティ」

⑥西成彦編訳『イディッシュ短篇集』

 ⑤の著者ギンズブルクのユダヤ出自から派生して。「イディッシュ語」という東欧のユダヤ人が日常的に使用する話し言葉(ヘブライ文字を使用)がある。この短篇集にはイディッシュ語で執筆され、直接日本語に翻訳された13の短篇がまとめられている。この言語で書くことを選択した著者たちは、一国の人々ではなく世界の様々な場所で暮らす人々で、そのほとんどを私はこの本を通じて初めて知った。テーマは様々で、必ずしもポグロムやユダヤの戒律に深く関係したものばかりではないが、世俗的でコミカルな寓話にみられる宗教性を読み解ければさらに面白いのだろう。

→「第二次世界大戦、迫害」

⑦ウンベルト・エーコ、和田忠彦訳『永遠のファシズム』

 イタリアの作家にして様々な顔を持つウンベルト・エーコの政治的発言をまとめた本。91年から97年にかけての時事に応答したエーコの記事や講演が収められている。それぞれの文章がどのような文脈で書かれているのかは序文に示される通りで、その背景に沿ってエーコの示す倫理的判断(べき論)を読むことが求められる。ただし、内容が古びているわけでもない。むしろ論拠となる時事に古さを感じるからこそ、それからの20年を振り返ることのできる現代の私たちは、ファシズムの芽がどこにあるのかを指摘したエーコの目の鋭さにははっとさせられる。
 ネットで調べたところ、手元にある単行本は98年に出されて以来しばらく品切れ状態が続いていたらしいが、一昨年に文庫版が刊行された。現代の社会情勢から本書の意義が見出されて、再版が実現したのではないだろうか。

→「集団と迫害」

⑧ヴォルテール、斉藤悦則訳『寛容論』

 18世紀フランスの哲学者ヴォルテールの著作。この古典新訳文庫版は、注釈も含めて噛み砕いたわかりやすい言葉遣いの文章で読めるので、18世紀のクラシックといっても恐れることなかれ。当時起きた「カラス事件」という冤罪事件を糸口に、普通の人々による迫害や差別、不寛容がいかにして起こるのかについて論じている。ここでの寛容は、宗教的寛容つまり異なる宗教、信仰を持つ者を容認することを意味している。
 現代社会で多様性と言う場合に、日本社会ではどちらかといえば民族や性的指向に関する差別が問題になることが多いが、寛容への道は易しくないようである。絶対的な主義主張を持つ人々がその主義にそぐわない人を迫害する理由、なぜ不寛容が起きるのかをまずは考えることからその道を探れないだろうか。

→「集団の責任」

⑨ハンナ・アーレント、中山元『責任と判断』

 ハンナ・アーレントの未刊行論文集で、わかりづらいところを確かめるように私も断片的に何度も読み返している一冊。⑧「寛容論」から、「イェルサレムのアイヒマン」で悪の凡庸性を論じたアーレントが浮かんだ。アーレントは本書で社会の中の個人に焦点を当て、なぜ人々が良心を失い、道徳的な真理と信じて体制を支持したのかを問う。
 本書中の問題提起の中でも、私が衝撃を受け今でも時に考えているのは、「ある期間において道徳的な秩序が明らかに崩壊し、それが「ある勢力の敗北」と共に元の正常な道徳的秩序を回復したと人々が認識している」異常さである。この異常さを私たちは認識しているだろうか。
 この数年ブームになっているのか、アーレントの思想を解説する本が多く世に出たが、本書の書きぶりは読者を突き放すようなものではなく巻末の解説も丁寧である。アーレントの原典に初めて触れる一冊としてもおすすめだ。

→「人間の判断」

10. 渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』

 これまで紹介した作品とは一風異なるジャンルを選んだ。数年来、何度目かの「人工知能」ブームが到来している。本書の立場は明確で、いかにして人間の意識を人工的に作り出すのかを考えている脳科学者たちの野心がうかがえる。彼らこそがブームの作り手でもある。一般向けの新書なので、前半は当分野の「何ができて何ができていないのか」「研究史のおさらい」に割かれる。これがあるからこそ、後半に著者の立てた理論がイキイキとしてくる。そもそも「何がまだわかっていないのか」を一般読者が理解できる分野というのは、科学の世界で珍しい。ちなみに次に紹介するラマチャンドランも少し本書に登場する。

→「脳科学」

11. V・S・ラマチャンドラン、山下篤子訳『脳の中の天使』

 『脳の中の亡霊』の続編で、れっきとした科学論文の単行本でありながらその分野の門外漢の私でも面白く読めた。2013年高校時代の恩師に『亡霊』を紹介されて以来、骨太な研究書の割に、具体例が身近でわかりやすいのでちょっと賢くなったような気分を得られるラマチャンドラン本のファンである。本書では(決してヒトを特別優れていると言うわけではないが)ヒトのどこが他の生物と比べて特殊なのかを論じており、私は特に「共感覚」「美的感性の誕生」に関する仮説に興味を惹かれた。
 美の普遍的法則については、果たしてそうだろうかと首をひねりたくなる記述もある。ただし、こうした美の科学的追究が人間の創作する美術の価値や歴史的文脈における評価のを目的としていないことは確かで、むしろ(乱暴に言ってしまえば)「西洋美術とそれ以外」「キリスト教美術と仏教美術とそれ以外」という枠組みではない「世界文学ならぬ世界美術」を考える一つのアプローチになるのではないかと考えた。

→「人間の美を感じる力」

12. 宮下規久朗『美術の力 表現の原点を辿る』

 特にカラヴァッジョ研究で知られる美術史家、宮下規久朗の新書で、新聞連載の記事などを中心に再編集したものである。著者が美術の原点を模索し始めるきっかけには自身の家族の喪失体験があるため、その背景を知って読むからか、登場する古今東西の名画からはどことなく重苦しい雰囲気が漂う。一つのテーマに割かれるのは数ページ程度だが、素人向けに作品を見るために必要な知識をふんだんに盛り込みながらも、この短い文章の中に目新しい見方も示してくれるところが有難い。空いた時間で気になったところから読み進められる一冊である。

→「美術と喪、巡礼」

13. カトリーヌ・ムリス、大西愛子訳『わたしが「軽さ」を取り戻すまで』

 2015年パリで週刊誌シャルリ・エブド社の記者らが、イスラム教を冒涜したとしてテロリストらに襲撃された事件からもう5年以上たつ。本書は、当日惨事を免れた挿絵画家の自叙伝(バンド・デシネ=漫画)である。彼女がいかにして、事件で追った痛みから日常の生活を取り戻そうと試み、一筋の光を見出すのかというノンフィクションである。この本からは、美術や文学でトラウマを克服できるかもしれないという学びもあるが、トラウマを抱えている状態の彼女(元から非常に知的な人である)のちょっとした言葉や思考から考えることも多い。

→「トラウマの克服」(→「ヨーロッパ社会とテロ」にも枝分かれしていつが、取り急ぎこの前編記事では割愛)

14. 野田正彰『喪の途上にて 大事故遺族の悲哀の研究』

 書名にある「大事故」とは、1985年の日航ジャンボ機の墜落事故である。リアルタイムで知らなくとも、テレビや新聞を通じて何度もこの事故については見聞きしてきたが、これほど遺族と向き合った文章を読むのはこの本が初めてだった。岩波現代文庫版は、1991年に出された本の再版だ。
 帯にある「かけがえのない人の死をどのように受け容れるのか」は私にとってこの数年来自問している問題である。それだけでなく、意味ある?と思われるかもしれないが「私をかけがえのない人だと思ってくれている人に対して、私の死をどのように受け容れてもらうのか」も考えてきた。死に目に会えない感染症が流行している今、また読み返そうと思う。

→「遺族」

15. 紀貫之、鈴木知太郎校注『土佐日記』

 大事な家族を失った時の人間の反応について、何か自己を表現する創作物を残すというのは一つの選択肢としてあるのではないか。遺族というキーワードで2冊が繋がった。文学史に登場する有名作だが、本書を手に取ればわかるように本文はとても短い。大きめの文字で60頁程度、およそ60日の土佐から京への道中が綴られている。国語の授業で習った冒頭の文章と概要(男性がかなで書いた・亡児を思う)しか知らず、中身にあまり興味を持ってこなかったのだが、読んでみれば日記の形を取った随筆として中身も面白い。記録というよりは随筆として紀貫之の思想が前面に出ている。少しnoteのようでもある。

振り返り

この芋づる式をやってみると、「どーと言ったらどーなつ!つーと言ったらつみきー!のように一つ前の本からのみ考えればよい」かというと、ルール上はその通りなのだが、少しはその本に至る流れを意識するバイアスがかかってしまうようだ。しばらく同じようなテーマでの連想が続いていく。

この15冊全体を振り返ってみたところ、多少の傾向が見えてくる。大雑把に言えば①からヨーロッパ文学が続き、次いで迫害やユダヤを意識し、認知科学に移ったかと思いきや、心に負った傷へとテーマが移っていく。どれも私がこの数年関心を寄せている領域で、それゆえに本を持っていたり頭に浮かびやすかったりする。

もう一つの発見は、イタリアの作家の本が多かったということだ。確かに私はイタリアの近現代文学や思想をたまに読む。経歴的に身近なのはフランス文学だが、大学でイタリア文学に出会い魅了された。

ただ、日本文学はもちろん英米文学やフランス文学が好きという友人は多くとも、イタリアの作家を特別好む人は私の周りにあまりいない。実際、岩波の赤本一覧を眺めても、英米、フランス、ドイツ、ロシアがほとんどで、イタリアはというと南北ヨーロッパ文学でまとめられてすらいる。国別・言語別に文学を分ける意味があるのかという問題はわきに置くとして、もう少しイタリア文学の面白さを共有できる人が増えたらなという個人的な願いはある。その気持ちから、最近は友人におすすめの本を聞かれた時に、1冊はイタリアものを紛れ込ませるなどの草の根活動を進めている

イタリアの作家たち

ここに挙げなかった近現代作家にも例えば、邦訳も多いタブッキ、幻想的なブッツァーティ、ネオレアリズモのパヴェーゼやヴィットリーニ、ダンヌンツィオ、マフィアを題材にしたシャーシャがいる。また最近では、インド系アメリカ人作家のジュンパ・ラヒリもイタリア語で執筆している。

19世紀ならば『クオレ』の作者のデ・アミーチス、『いいなづけ』のマンゾーニもいるし、詩人やゴルドーニなどの劇作家も忘れてはいけない。時代を遡れば、有名どころでは『デカメロン』や『神曲』もイタリア文学である。

羅列するのはこの段落で最後にするが、須賀敦子らの手で日本語に翻訳された名作も相当ある。その他、21世紀の作家では、例えばパオロ・コニェッティなどは昨年日本の文芸界でも取り上げられる機会が多かったのではないか。

確かに物語の背景となる社会が想像しづらいところがあり、私も大学までほとんど馴染みがなかった。しかし、いざ入ってみれば奥深い世界が広がっている。これまで読んだものについて、改めて感想をまとめてみる機会が必要ではないか。イタリアの文学作品については、いつかまとまった記事を出そうと決めた。

画像1

この記事を書いている今、全世界がコロナの危機に直面しており、特にイタリアの犠牲者数には心が引き裂かれてきた。なんとか早く事態が好転するように祈りつつ、必要なところに必要な手が差し伸べられるように私にもできることをしたい。

あとがき:
 ということで、宿題が残りました。①残りの12冊、②イタリアの作家(近現代、近代以前・詩人・劇作家)について。せっかく好きなので、音楽や絵画との関係についてもしっかりと触れられたらと思います。
 これらの文学についての記事は、しばらくは今回に引き続き「あとがき」マガジンに投稿していくので、美術展マガジンで詰まった時の気分転換としてまとめたいと思います。


▲後編を書きました。マップの全体像も載せているので、ぜひ合わせてお読みくださいませ。









この記事が参加している募集

最後までのお付き合い、ありがとうございます!