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【とらねこさん企画】藍色空から始まる旅路

藍色の空の下、2007年7月北海道音威子府村からの旅路です。

とらねこさん企画。今回は「藍色の空」という書き出しで書くことになりました。
藍色の空。空の色が濃い青色です。個人的には夜明け前というイメージがあります。この投稿は2007年7月、第2次サハリン遠征直前に北海道北部を自転車で周遊したという話です。思い出を語ることにしました。

今は亡き夜行列車「はなたび利尻」で音威子府駅に降りたった時、まだ未明でした。暗い中、駅舎の照明を頼りに自転車を組み立てました。ここから155km先にある稚内市を目指すことになります。既に走破した国道40号経由ではなく、浜頓別を経由する275号でオホーツク海に出る経路を走ることにしました。

国道275号は街路灯がほぼありません。安全のため夜が明けてからの出発です。霧の中、音威子府駅を出発しました。

国道275号。当時はこんな感じ。これがずっと続きます。さすがに人の気配がしません。街路灯もなかったので、夜が明けてから出発したのは正解でした。

道中、道の駅で休憩を取りました。敏音知。これでピンネシリと読みます。北海道の地名は難しいですね。アイヌ語で男の山という意味があります。

オホーツク海岸のまち、浜頓別に出てきました。まだ朝9時です。街が始まるのは少し遅いようです。雨が降っていたためこの街は通過します。

国道238号です。オホーツク海沿岸では湿原や沼が多く、ゆったりとした時が流れていました。景色も北海道らしい雄大な景色です。

宗谷岬に向かう道は道中、宗谷丘陵を走りました。草原が広がり、黙々と自転車をこぎ続けました。風が強く吹いて、風力発電の風車が勢いよく動いていました。ロシア軍歌「ポーリュシカ・ポーレ」で広がる草原と謳われる。そんなイメージが似合う場所です。

稚内市は3度目の訪問で初めて宗谷岬に立ちました。日本最北端とありますが、これは一般の人が訪れることが出来るという限定がつきます。自由に行き来できるようになったら一度は四島を訪問してみたいですね。

はまなすの花が咲いていました。赤い花です。宗谷岬を超えたら市街地まであと30kmです。頑張って自転車をこぎ進めます。

この日は南稚内にあるライダーハウス「みどり湯」に泊まりました。当時は若い世代がたくさん集い、夜は宿泊者ミーティングで盛り上がりました。
自己紹介のなかで「明日、サハリンに行きます。」と宣言した時は皆さんに激励していただきました。

次の日。フェリーターミナルで船に乗ります。これまた今は亡き「アインス宗谷」です。当時はカーフェリーにもなっていました。バイクでロシア連邦サハリン州を旅する人もたくさんいました。2016年からは小型船270tのペンギン33号に変わり、2019年には経済的な理由で廃止されてしまいました。
現地時間午後6時、上陸した港町を出発して45km先に向かうことにします。現地は起伏の激しい道路が待ち構えていました。

ロシア連邦サハリン州のモニュメント

現地時間午後8時15分。ユジノサハリンスクに到着。午後9時前には鉄道駅前のホテルに到着しました。
現地ではユジノサハリンスクを基点に4泊5日でサハリン中部の街ポロナイスクまで到達しました。かの石川啄木が最果ての地と詠んだ場所です。

当時、自転車でロシア連邦サハリン州を遠征する”バカ(笑)”はごく少数どころか超絶希少価値ですらありました。アニメの主人公で「海賊王に俺はなる!」と叫んだキャラクターがいます。それに倣ってバカは「サハリンチャリダーに俺はなる!」と叫んでみました。

前年に行った第1次サハリン遠征の反省から太腿とふくらはぎを肥大化させるために過酷な筋トレを1年間やり遂げました。
完璧に仕上げた身体で音威子府から稚内まで1日で155km進むのもサハリン上陸当日、2時間で45kmの起伏激しい道を進むのも余裕でした。50歳になる今では1日50km走るのが精一杯です(笑)。
夢はかなう!可能性は無限大!と思っていた若き30代前半の頃でした。



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