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私から自分へ。

おはようございます、咲けるリーフ🌿です。

見出しの絵は、1月の満月の時に書きました。

1月の満月をウルフムーンと言います。

満月には、満月が起こる月(1〜12月)によってそれぞれ呼び方があります🌕



今朝は起きて昨晩の記事の投稿を思い出して恥ずかしくなりました。


また感情的になってしまった気がして。

でもよくよく考えてみたら、私にしては冷静にまとめることができた文章で、恥じることもないんだと思えました。

私のステップアップの段階として、ありのままの自分を冷静に見つめることが必要でした。


文章を書き終えて思ったのは、私がまた鬱の状態にあるという自覚でした。

ここ数日、「これはやばいな」と思っていたのですが、なんとか過ごして来れていました。昔ほど一気に酷くはなりませんでした。

ただ、生活を耐えられても、脳の働きがどんどん鈍くなっていくのを感じていました。うまく情報処理をできなくなり始めていると感じていました。

思うように動かないからだ。それはもどかしく、体調にもだるさとして現れてきました。頭も胃も痛くなりました。

5週間前から咳が続いていました。心的ストレスからくる自律神経の乱れの症状でした。

私は昔からストレスはすぐに察知して、寝ることで休息をとっていて、何もせず全てを放り出して寝ることで、罪悪感を感じながらも、だるさのみの症状で済んでいました。

それは社会的責任や基本的生活を放棄したから出来る事でもあって、だから今回のように、社会活動や基本生活を続けながら、自分の課題にも向き合って挑戦していたことで、私、逃げないで乗り越えようとしてるんだ!えらい!と思っていました。

逃げないで立ち向かうと体に症状が出るんだということで自分を褒めて鼓舞していました。

今まで自分は逃げていると負い目に感じたり後ろめたく感じたり、人とは違う、社会不適合者だと思ってきました。社会で責任持ってみんなと同じように働けもしない無責任で無能なダメな人間なんだと。

社会もそういう雰囲気だった。テレビのメディアとか。

若者の鬱とか引きこもりとか、問題視して困ったダメだ不安だ心配だって。

みんなこう思っているんだなって。

(子供の教育とかで、心配しないで信じて応援して関心を向けていくって大切だね。)

だから逃げている自分ダメなんだって。逃げるなって言われてきたし、お前は逃げている、逃げているからダメだと言われてきた。

でも最近じゃ、逃げる決断、辞める決断をできない人の方が多くて、逃げる勇気とか辞める勇気とか諦める勇気を持とうって言われたりしてる。

それも、もっと早い段階で見切りをつけて次に行ける人こそが成功するんだと言われている。

そういう人たちは軽いフットワークで、物事をラフに考え、だからこそ決断も早い。即座にやっては違うと思ったら辞めて、また違うことをやって、だから経験も増える。

今までは、物事を真剣に考えろとか、深く重く考える人が素晴らしいと言われてきた。嫌でも辛くても続けていたら乗り越えられる、逃げるな諦めるなと。

時と場合によってそれが効果的な場合もあるだろう。ただ、それだけが正解じゃないって思うことを私たちはもっと自分に許すべきだと思う。

それだけが正解じゃないんだ、逃げない諦めないだけが素晴らしいのではないんだ。他の道もあるんだ。そう思っていいんだ。

そう思ってはいけないと思ってたから。


人々は変わり、若い世代はきっともっと自然とこれを主張し受け入れて生活しているのかもしれない。

こんなことでがんじがらめになっている私は古い人間かもしれない。

まぁ、古さと新しさの狭間にいるというのがあっているかもしれない。

完全に逃げるな諦めるなの思考を受け入れて適応できていたなら、こんなにも苦しんでないだろう。

その思考の環境のもとで育った私は、そこに適応できないダメ人間とされた。


でもきっと、私は自分を信じたかったんだろう。

凝り固まった一つの視点に囚われている大人が窮屈だった。違うんだと言いたかった。それだけじゃない、もっと違う世界もあるんだって伝えたかった。

でも、今でもそれをできていない。はっきりと自信を持って主張できない。

怖いんだ、ボロボロなんだ。

ダメだダメだと言われたくない、思われたくないんだ。もう。これ以上。


それでも言われ続ける、自分も思い続ける。


それなら突き抜けようよ!

ダメなんかじゃないんだって、自分で自信持てるようになろうよ。

逃げたっていい。むしろそこからは逃げるべきだ。回り道をしてみろ。

もっといい道があるかもしれない。もっと面白い道がきっとあるんだ。


視野が狭くなってるけど、今見えてる世界だけが私の居場所じゃないよ。


私自身を表現していこうとすると、その過程で矛盾を指摘されたり、様々な立場からそれぞれの正論を主張されるものだけど、そりゃみんな生きてるからそうなるよね。

私は私の言葉で誰かが苦しんでいると思うと辛くなって苦しくなって、また自分を責めるのだけど、

それは相手も私も、自分で解決する課題なんだよね。


私は、人に敢えて主張することもないし、みんなの主張は私が違うと思ってもそれぞれの立場があるからそれはそれで良いと思っていて、だから否定したくないし、それは私のことも否定しないで欲しいから。

だから私は表現をあまりして来なかった。

人は皆自分が一番で、他人のことは否定して蹴落とそうとする。

私は自分を侵害されたくなかった。

だけど、主張をしなくても侵害される。むしろ主張をしないとズカズカと土足で踏み込まれ侵害される。他人は無意識だ。


だから私は表現することにした。

自分を守るために。

自分の誇りを守るために。


私というのは、私であって私でないから、私は私に感謝して私を大切にするべきだ。私のことは私が守らなければいけない。私には私を守る強さが必要だ。


私でさえ他人なのだから、私を大切にできないと他人を大切にできない。

もっとラフになろう。

もっと寛容に。楽に。おおらかに。そして自分の正義を守ろう。

守るべきものを守れるようになってこそ強く楽しく輝くのだと思う。


この世は、言葉にしてしまうと矛盾する。

他人は自分とは違うと考えることは、自分自身も私ではないと思うことと同じで、大きな意味では、他人も自分の一部だということでもある。

他人も自分も大切にしないと、私は満たされないということだ。

他人を優先してこようとしていた私だけど、それがどういうことなのか、他人を大切にしていることになるのか、これからも考えていくことになるだろう。

少なくとも、自分を傷つけてきた事実から目を背けてきたことを反省していくことが必要になりそうだ。


こうして考えて見ると、私はとても横暴だった。

人を傷つけてきた。自分という有難い存在に暴力を奮ってきた。


自分、ごめんね。

自分、今までよく一緒にいてくれたね。

本当にごめんね。本当にありがとう。


大切にしていくからね。


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