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クリスチャン・ボルタンスキー展"Lifetime"を見た。 19.08.23

暗闇、電球、心臓音、藁の匂い。
僕の、クリスチャン・ボルタンスキー作品のイメージである。

ボルタンスキーの作品に初めて触れたのは、昨年行った『大地の芸術祭』での《最後の教室》だった。暗闇、電球、心臓音、藁の匂い、というイメージはどれも《最後の教室》によって植え付けられ、そしてそのどれもが強烈に記憶に残っている。それがこの展覧会へ足を運ぶ出発点だった。

今回の展覧会『Lifetime』は、その名の通り回顧展ということで、ボルタンスキーの作品を新旧含めて見ることが出来る。

入り口で、チケットと共に、新聞みたいな冊子を手渡される。中は場内のマップと作品リスト。会場には作品のタイトルや制作年、所有者などを示す案内プレートが一切存在しない。タイトルや解説よりもまず、自分の目で見て、体で感じて、考えて欲しい、という作者の意向だと思われる。しかしそれでは鑑賞のハードルが上がる。それを考慮して、この冊子を配っているのだろう。前半は僕もこの冊子を見ながら回っていたが、作品に集中できないなと思って、途中からもう見るのをやめた。単純に、いちいちめくるのが面倒、というのもあったのだが。


最初の小部屋で、ただただえずきながら血を吐く男のビデオ《咳をする男》(と、仮面の男が布製の人形を舐める《なめる男》というビデオが上映されていた)が流れていて、いきなりか、と面食らう。噂には聞いていたが、実際に見続けるのは結構キツい。

ボルタンスキーの作品において最も欠かせない要素は、電球なのかもしれない。写真とタイルによる《モニュメント》、ブリキの缶が積み上げられ、その上に写真が載せられた《保存室》《聖遺物箱》《死んだスイス人の資料》といった一連の作品群で、電球は写真を照らしている。そしてその電球はケーブルで繋がり、床まで垂れている。他にも色付きのLED電球が使われた作品もある。
薄暗い展示室で、電球を多用した作品、という言葉だけだと、光を扱うアーティストのようにも思える。しかし実際には、光よりも影の存在を強く感じる。揺れるオーナメントの影が壁に映し出される《影》や《幽霊の廊下》などはそのものだし。

ボルタンスキーの作品に関して、「生と死」を問いかける作品である、と言われることが多い。僕はなんとなく納得した気になりつつ、いまいち理解しきれずにいた。今でもあまり理解出来ていないが、電球を用いることで生まれる「光と影」「光と闇」は、「生と死」「存在と不在」のメタファーなのかな、と思った。

それが分かりやすいのは、後半に控える《黄昏》。床に広げられた無数の電球が、毎日3つずつ消え、会期を終える時全てが消える。会期は9月2日までなので、点灯している電球は既に少なくなっていた。開幕当初はもっと明るくて、会期末には真っ暗になる。その光景に思いを巡らせる。「人生があらかじめ決められた死に向かって進んでいることを示している。」ガイドの冊子にはそう解説されている。


その対面には、壁面に無数の古着が吊るされた《保存室(カナダ)》と、その壁面の窓から覗くことが出来る《黄金の海》。《黄金の海》は、エマージェンシーブランケット(災害時とかに使われる金色の防寒シート)が床に折り重なり、上から吊り下げられた電球がゆっくり揺れている。この作品を覗き込むと藁の匂いがする。シートの下に敷いてあるのだと思われるが、《最後の教室》で感じた強烈な藁の匂いを思い出し、なんだか嬉しくなって、思いっきり深呼吸した。嬉しかったとか言うと変態みたいだが。



瞑想をするかのように、作品の前に佇み、作品の周りを歩いた。神聖なものに触れるかのような時間だった、と今になって思う。

「展覧会を訪れたみなさんに、自分自身と向き合ってもらいたい」「展覧会は私にとって考察の場所」と作者は言う。僕は何を考えただろうか。それを考えて悩んでしまう。「生と死」ということを身を以て考えるにはまだ若いのだろうか。それもまた、自分自身と向き合う、という事なのかもしれないが。


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