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秘密のノート

地元の文房具屋でしか見たことの無い分厚いノート。
厚手の表紙に施されたデザインと、書き心地の良い生成りの用紙。
二本で百円のボールペンが、信じられないくらいに実力を発揮できる。

罫線のない無地のページに、自由にペンで書き連ねる。
それは今日起きたこととか、昨日見た夢とかあることないこと書きたいことは全部書く。
徒然なるままに、あるいは泳ぎ回るように。

目の前に置いてある物をスケッチしてみたって良い。
下手でも、味のある絵だ。

父さんが買って来てまだ空けてないうウィスキーの瓶は、琥珀色の液体を斜めに抱え込んでいる。

姉さんが大事にしていたはずの壊れた髪飾りは、やっぱり留め具のとこが壊れたまんまだ。

行ったことない外国の街並みでも書いてみるか。
立ち寄ったことの無い喫茶店でのワンエピソードを綴ってみる。
飽きる程読んだあの本を、まるで初めて読んだみたいに感想を書く。
別に、誰も見ないのだから気にしないで書く。
好き勝手、自由気まま。ここは自分だけの特別な王国。
我儘に、なんの縛りもなくいられるところ想像と、
現実の狭間。

ボールペンのインクが切れても大丈夫。
なんせ二本で百円、まだ一本あるのだから。


ある日、そんな大切なノートを落としてしまった。
うっかりした、どこかに、置いたまま忘れてきてしまったのだろうかでもどこに?

駅のホームにも、交番にも聞いてみたが無い。
鞄の中も、家も、どこもかしこも、見つからなかった。

そのうち、あのノート自体本当はなかったように思えてきた。
というより、そのほうが良いんじゃ無いかと思えてすらきた。
だって、たとえ親切な誰かが拾ってくれていたとして、中身を覗かれていたら?
それだけならまだしも自分だけの自由の王国に勝手に立ち入られたとしたら?
踏みにじられたら、そんな恐ろしいことはないだろう。

さっきまでショックに打ちひしがれていたのに急に恐ろしくなった。
自分はこのまま大切な世界を封鎖しなければいけなくなるのではなかろうかと。

恐ろしくて夜も眠れない気分だったけど、案外あっさりと眠りについてしまった。
重ねて、そんな自分が情けなく思えた。

いつもと同じ朝、同じ通学路、だけどとっても遅い足取り。
とぼとぼという効果音は本当にあったのだとどこか冷静な自分がいる。
いつものように改札を通り、いつものように電車が来るまでの間ホームのベンチに座ろうとして、思わず目を見開いた。

あった。

あれだ、間違いなく。
あれは昨日落としたノートだ。

大慌てでベンチに駆け寄り、ノートを拾う。
そういえば、昨日駅のホームで見かけた鳩を描こうと思って出したのだった。
そんなことを今更になって思い出す。

ノートをパラパラとめくって無事を確かめる。
どうか、何事もありませんように。どうか、
見知らぬ誰かに踏みにじられてませんように。


結果、無残に踏み荒らされていることはなかったのだけど、

ノートの、途中。

書いてあるところが最後のページに一枚、ポストイットが挟まれていた。
普段自分でポストイットなんて挟まないからこれはきっとこのノートを見つけて中を見て、だけどどこにも届けなかった誰かが残していったメッセージ。

恐る恐る手にとって、そこにならんだ文字を見る。

すぅ、と、自分の肩から力が抜けていくのを感じた。



『俺もこの映画見た!ラストのどんでん返し、めっちゃワクワクして最高だった!ちなみに俺は犯人最後まで分からなかった!』

そこには少し下手くそな字でそう書いてあったのだ。
ポストイットが挟まれたページには、本当はない映画の感想を書いていた。
あらすじや、キャスト、どこの映画館でどの辺りの席で見たのかまで事細かに。実際には全く存在しない映画について、見開き使って書き込んでいた。

そのメッセージは、さっきまでドン底に落ちていた気分を一気に大気圏まで持ち上げるのに難しくはなかった。

嬉しかった。

中身を見られた恥ずかしさだとか、ノートを無くしかけたこととかもう、全部吹っ飛んでった。

自分だけの自由の王国に、最初に来たお客さん、あるいは大変な任務の遂行の手助けをしてくれる共犯者のような、そんな感覚だった。

思わず、ノートを抱きかかえて駅の改札を飛び出た。
それで、沿線沿いをまっすぐ、ただひたすらに走り抜けた。
今なら目的地への三駅分くらい、余裕で走れるような気がしたからだ。

なんの縛りもない想像と現実の狭間、その境界線がずっとあった気がしていたけど、今、それが無くなった。
たった一枚のポストイットで、簡単にどこかへ消えていった。

きっともう、二度と会えない。
見知らぬ誰かがこのノートを見ることはもう無いだろう。

だけど、自分は、
ずっとこのことを忘れない。

高揚する体温は全力で走っているせいか、見知らぬ誰かのせいなのか、もう判断がつかなかった。


横を抜き去っていく電車の音に紛れて、大きな声であああと叫ぶ。

今、世界で一番、無敵な気分だ!



三駅分全力疾走して、結局学校には遅刻したけど、後悔はしていない。

ずっと忘れられない、春の記憶。



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