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掛け合うことば。

「コロナが落ち着いた頃にね」

そういう風に何度ことばを重ねたのだろうか。期待を込めて、願いを込めて。オンラインでの飲み会、電話、メールのやり取り、その言葉を交わす度に、たまらなく人に会いたくなる。

画面越しに、電話越しに、笑い合えるし、話ができる。今の時代は恵まれているのだろう。その場にいなくてもコミュニケーションがとれて、お互いを知ることができる。便箋を待つよりも早く、そして気軽に「元気?」とメッセージを送ることができるし、長くても1日すれば「元気!」と返事を返ってくる。それはとても幸せなことなのに、どこか物足りない。

一人の時間は好きだ。好きな時間に好きなことができる。ゲームをしてもいいし、本を読んだっていいし、ボケっと物思いにふけることができるから。

でも、一人でいることが好き、は、一人でも平気とは違う。バランスなんだと思う。きっと人にはそれぞれ、誰かといる時間と一人の時間の適切な割合が身体や心のどこかに刻まれていて、どちらか一方が多くなりすぎると、バランスを崩してしまうのだと思っている。

最初は、一人の時間が好きなくせに、自粛が続いて人恋しくなるなんて、ただのあまのじゃくなだけなんじゃないかとも思ったけど、きっとそうではない。

仕事で人に合わなくなって、職場にもいかなくなって、面とむかって会話することがなくなったり、居酒屋でワイワイガヤガヤしながらお酒を飲んでバカ話をすることがなくなったのは、もちろん大きいのだけど、それだけでなくて、隣の席でキーボードをたたいているなあ、とか、誰かと誰かが楽しそうに話しているなあとか、ぼんやりと肌で感じていた、なんだろう「温もり」というか「存在感」みたいなものが明らかに生活から消えてしまっていて。きっと身体のほうについていたセンサーみたいのが、「人のオーラがたりないよ~」と警報を鳴らしているんじゃないか、と思う。

会えないと感じられないことがたくさんある。パソコンやスマホのマイクでは拾えないちょっとした息遣いとか、表情、声のトーンの微妙な違い、その人が放つ独特の温度感、そして目の前に自分とは違う誰かがいるという存在感そのもの。一人暮らしの自分からしたら、それら一つひとつがたまらなく、恋しい。

言葉足らずな自分は身振り、手ぶりであれやこれやを伝えたくなっちゃう。電話越しに「あ、今ちょっと伝わってないかも」と思うこともけっこうあって、電話は相手の時間を貰っているような気おくれを感じるから、何となくその伝わっていないことをあきらめてしまう自分がいて、時々たまらなく悔しくなる。「今すぐ会いに行きます!さっきの伝わってないこと今すぐ伝えに行きますから」と電車に飛び乗ることができたら、いいのにな。

誰かと一緒に暮らす、って煩わしいことも多いだろうけど、こんな時はすごくうらやましくなる。「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」「ごめんね」そんな何気ない言葉をかけあったりできる人がいる喜びや、同じ部屋で違うことをしてる瞬間に誰かが傍にいるその安心感みたいなのに、この半年をかけてすごく憧れるようになってしまった。昔から隣の芝は青く見えがちなので、自分がその環境にいないというだけで、羨ましがっているだけなのかもしれないけれど。

でも一方で、「コロナが落ち着いた頃にね」は希望のことばだ。

目下の状況がよくないから、少し不安になる気持ちはあるけれど、根拠のない漠然とした未来を信じて言葉にできるのは人のいいところだと思う。

だって、やりたいことがたくさんある。そして、家にいる時間が増えれば増えるほど、その期待は膨らむばかりだから。

まだ行ったことのない場所がある。ゴールデンウィークに行き損ねた福岡で美味しいものをたくさん食べてみたいし、東北や北海道とか寒いところにも行ってみたい。海外だと中東とか中央アジアとか、南米とか、東南アジアのブルネイ(なぜか国の名前をしってからよく知らないから行ってみたい欲があふれてる)とか。

1年会っていないあの友達は今頃どうしているんだろうか、会って話がしたいなと思うし、いつものメンバーで朝までどうしようもないほどくだらない話もまたしたいな。前よりもいろんな場所や、イベントとかに参加して今までよりもたくさんの人と話したいとも思うようになったな。

大好きな相撲も国技館で見たことないし、寄席にいっておなかが痛くなるほど笑いたい。野球も応援に行きたいし、おいしい焼き肉やお寿司とかちょっとお高くておいしいものも食べてみたい。

そんな未来に思いを馳せるたびに、心はそわそわして、明るくなって、たまらなくなる。

会えなくなってほんのり寂しく思う気持ちや、明日への願いを込めて、

「コロナが落ち着いた頃にね」

と言うんじゃないかな。


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