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窓の中

   

 砂地に置かれたベンチに、青年は座っていた。

 昨晩遅くに彼の祖父は死んだ。報せを受けたとき最終電車はすでに無く、車を使うにはあまりに遠く、病院へは始発で行くと告げた。なにも始発でなくともよかったかもしれない。もうじきに出るだろう。しかし立ちあがるどころか指一本動く気もしない。

 湿った夜はへばりついて、遠い街灯は静まりかえり、絹にくるまれたようなおとなしい空気が低くのびている。グラウンドの灰色は、垂れて霧になった細やかな雲と混じり、間を横切るまばらな立木と高架線は沈黙を続け、すぐ左手奥の駅と、その周辺の高層マンションは遥か遠い山頂のように慎ましい。青年の目に風景は塗り重ねられた漆喰の夢のように頼りなく、均質で、こぼれ落ちそうなくせに、堅牢な壁のようでもあった。

 長い闘病の末だから、覚悟は出来ていた。痩せ細った祖父は数ヶ月前に口がきけなくなった。伝えたいことは紙に書くようになり、文字が書けなくなり、伸びきった力のない顔で同じ場所になんどもペンの先をまごつかせ、五十音表を指でつつくようになった。

 昔気質の厳格な祖父から、言葉の奪われていく様は見るに耐えなかった。彼の意志が伝達の媒体をひとつ失うたびに、陰は重さを増し、理性は抜けていき、生気は沈滞し、やがて滴るように流れ去り、感情だけが鈍く残って、姿を見せると怏々としながらも喜ぶ彼は、眼だけがいつまでも鋭い。

 先週寝たきりになった祖父を珍しく一人で見舞った。呼吸器越しの息が、白く硬い部屋にひびき、寝顔にはないはずの辛苦を感じた。音もなくひらいた薄い半目に声をかけようとして、その眼の鈍さに青年は刺し貫かれた。青年の想いは応対されずに霧散し、祖父である確信は揺らぎ、膜の張ったような底無しの彼の眼に、夕日が差し込むまで縛り付けられ、包み込まれていた。

 霧は晴れるどころか密度を増し、溢れかえって落ちつかずにもごもごしている。まばらに差し込むか細い光は、海中から見た面のようにうつろい、未だ夜の優勢な空はごまかされて白く濁り、地面を濡らしている。

 青年の足下は揺らいだ。祖父の眼差しに飲み込まれるように拠り所の薄れていくのを感じる。虚脱感を喰うように、細霧が蹠からまとわりついてきて、足が消え、腹が消え、腕が消え、首が消え、思慮の消えた眼だけが残り、霧の奥にあるぼけた風景を、唯一の救いのように眺めた。

 人を乗せず、積み荷もない小舟のように、漂う青年の無責任と遊んで、霧は乱雑に動きまわった。波のように現れては滲んでいく景色を、やさしい力で遠くから、ゆるやかな弧を描いて我が身を投じるように、眺め続けた。

 ほどなくして、深い峡谷から、平野を従えた運河へ辷りでたように、霧は引きあげて雲に還った。夜はよどみなく気化していき、淡い若葉色の帯へ溶けている。起き上がる猫の背のようなまるみをもって、その姿を現しはじめた太陽の無垢に吸い寄せられて、たなびいた雲はどんどんと流れ去っていく。上空を通り過ぎる一羽の鳥の単調さに合わせて、南からしなだれかかった幾本かの大きな柳が、首肯するように強く上下している。その枝先を受けて連なる住宅群の凸凹した頭は、そのままグラウンドを囲むように伸びる高架線へ滑らかにつながり、黒い地平線になった。そこへ水を流したように電車が走ってきて、全身が見えたと思ったら急に凍ったように止まった。

 眼に映るままに動きを追いかけた青年の視線もまた、そこへ固定された。無人の車内に閉じ込められた均一な光は異物然としてあつかましくも澄ましている。昆虫の腹の模様のようにずらり並んだ窓は、名残惜しむ夜にくっきりと浮かび、いっそう辺りを暗くした。青年はいつしか非常な緊張をもってそれを見詰めていた。はっきりしない記憶の空隙がそこに囚われているように思った。

 ガタンと不躾な音を響かせて、突然全てのドアが開いた。やわらかくも勢いよく洩れ出したひかりを抜けて、向こう側が見えた。夜の侵入を阻むように閉じたドアは、意地悪くもう一度開いて、また閉じた。小さく発した驚きの声を拾うようにして乗りだしていた体を、ベンチに預けなおし、電車の空洞に覗いた闇と、祖父の鈍い眼差しが重なったことを想った。今しがた同様あのときも、青年は時と目が合っていたのに気が付いた。豪として反対側から別な車両が走り抜け、動き出した電車は平然としていて、窓の中の病室に似た均質な光りは運び去られた。

 それを見送ると、透き通った分厚い光線の束が青年に差した。朝日は円く浮かんで黄金色をふりまいて笑い、雲は堂々と流れ、空は際限なく晴れ渡っていた。


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「生きろ。そなたは美しい」