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18冊目―『公教育をイチから考えよう』

週に2日だけ、学習塾で講師の仕事をしています。

5足のわらじのうちの1足なわけですが、これが大手の進学塾であるので思想的には「学歴至上主義」がぎゅっと濃縮されたような空間で、個人的にはまったく相容れないところがあって。

生活の要請から始めた仕事であって週にたった10時間程度のことなのだから割り切ったらよいのだけれど、どうもそのあたりが器用に生きられない悲しい性分。

今回は、そこでオルグされぬように抗うための、救いと希望の一冊でもあって。

そして僕のささやかな抗いの現状を、備忘的に書き置いておくものです。


リヒテルズ直子・苫野一徳『公教育をイチから考えよう』(2016,日本評論社)

日本の公教育・学校教育が、画一的な労働力を大量生産することに最適化されてしまっており時代に合わなくなっているという批判は各所で久しく行われているけれども、本書もそのスタンスから、そうした教育のアンチテーゼとなりうる「よい教育」について検討しようというもの。

問題は、こうした「最小限の投資による効率化」ばかりを狙う国の施策によって、すっかり「粗末」となり硬直してしまった日本の公教育が、公的な縛りを受けない塾産業や、親が教材やサービスを購入する教育産業を助長させ、結果として、営利ベースの教育機会にアクセスできない貧困家庭の子どもたちが、最新のメソッドや機器に触れる機会から遠ざけられていることです。そして、画一一斉型の授業だけを金科玉条として管理され、子ども一人ひとりを丁寧に育てる機会を与えられず、やがては疲れて燃え尽き寸前になってしまっている教員たちが、ストレスと過労で浮かない顔をしながら働く教室の中で、誰からも助けられることなく放置されていることです。
(リヒテルズ)

哲学者である苫野さんの『教育の力』(2014,講談社現代新書)は数年前に読んでいて、そのときも感銘を受けたけれども、そこにリヒテルズさんのオランダでの20年間の生活者および研究者としての知見がプラスされて、より具体的なイメージが提示されていて。

学びの「個別化」「プロジェクト化」「協同化」、対話、アクティブラーニングといった「イエナプラン」にもとづくオランダの具体的な実践についての各論の説明はここでは措くとして、そもそも公教育とは何のためにあるかという問いについての、苫野さんの語る「自由の相互承認」の原理は、すべての教育従事者にとって一聴に値するものだと思うのです。


「自由の相互承認」の原理

「人間的欲望の本質は自由である」というヘーゲルによるテーゼから出発し、「哲学者たちが何世代にもわたる思想のリレーを通して、誰もができるだけ平和で自由に生きるための根本条件を明らかにした」、その原理。

お互いの「自由」をただ素朴に主張し命を奪い合うのでも、これを絶対権力のもとに抑えつけて支配するのでもなく、お互いにお互いが「自由」な存在であることを認め合い、そしてそのことをルール(法)として定めること。これだけが、人類が自由かつ平和に共生できる道である。ルソーやヘーゲルはそう主張したのです。
これを「自由の相互承認」の原理といいます。
(苫野)

目新しいわけでも、刺激的なわけでもありません。
誰が聞いても納得できそうな話であって、むしろそうであるからこそ「原理」と呼べるのだけれども、一方でそうであるのに、それが社会で十分に実現されているかと問えば、到底そうは思えないこの国の現状。

例えば性別によって、例えば国籍やルーツによって、例えば身体的特徴によって、他人の「自由」を認めようとしない人々が大勢います。
あるいは制度や環境によって、その「自由」を阻まれている人々が大勢います。

だから、教育にはこの「自由の相互承認」の原理を具現化し、実質化する役割があるというのです。

このことについては、次の二つの観点から述べる必要があります。
一つは、社会における「自由の相互承認」の原理を実質化するために、わたしたちは教育を通して、子どもたちに「相互承認」の“感度”を育む必要があるということです。(中略)
もう一つの観点は、公教育という“制度”を通して、一人ひとりの対等な「自由」を具現化していく必要があるということです。家が裕福だろうが貧しかろうが、都市に生まれようが農村で暮らそうが、すべての子どもが、公教育を通して「自由」な生を手に入れることを保障すること。
(苫野)

後者は「教育機会の均等」と「<教養=力能>獲得の保障」とも言い換えられえており、僕自身は児童福祉の畑にいた/いる期間が長いので、こちらについてはわずかながら実践も経験していて、具体的には生活保護家庭の学習支援や、発達障害児向けの療育がそれにあたり、これが公教育の“制度”によって担われるべきだという考えには強い実感をもって賛同するのです。


“感度”を育む実践の必要

一方で、第一に挙げられている「相互承認」の“感度”を育むということについては、今まで実践的に取り組んだことがなく、目下、勤務先の塾において現在進行形でその必要性を強く感じているというところ。

特に顕著なのが小学4年生のクラスで。

教師の指示に従って一斉に同じ行動をとることが美徳として叩き込まれたのであろう子どもたち。
違う行動をとる輩がどうにも許せないようであって。

「先生―!〇〇が答え見ながら書いてますー!」
「先生―!××が私の答え見てきますー!」

といちいち「教えて」くれるのだけれども、これいずれも「告発者」自身の学習には無害であるにもかかわらず、「先生に言われた通り同じようにやってない」ことがどうにも気に入らないようで、それはどこか「私も自由奪われてんだからお前だけ自由にしてんじゃねえよ」という呪詛のように聞こえなくもなく、それはどこか生活保護やニート・引きこもりに対するバッシングと似た響きをもっていて。

この「告発」行為は、言うなれば異質な他者を権力者に対して暴露し、叩き、抑圧し、ときには排除することで溜飲を下げるという行為といえるわけだけれども、無論、それで溜飲が下がる身体に育つためにはそのような大人がまわりにいるはずで。

実はこのクラスにはADHD傾向ありと思われる男の子がいるのだけれど、他の教師たちが完全にその子を「問題児」扱いしていて、教室長は「席替えして後ろの方に<隔離>しておきましたから安心してください」とのたまうし、ある先輩教師に至っては「退塾してくんねえかな」などと言い出す始末。

大人がそんな状態で「相互承認」の“感度”など育まれるはずもなく、子どもたちの間にも異物を排除したいというような、いま書いていてもおぞましい、そんな雰囲気が漂っているようでいて。


ささやかな抵抗

こんなことでいいはずがない。
学びのスタイルとスピードの差なんていう、そんな些細な違いで人格を否定されて排除されるなんて、そんなことがあっていいわけがない。

しかも他の子どもたちがそれを正しいことのように受け入れることだって、あっていいわけがない。

僕はささやかな抵抗を始めました。

まず彼ら/彼女らに宣言をし、それから、提案をしたのです。

僕は、大きな声を出して君たちを怒るようなことは、絶対にしません。
約束します。
それは、君たちが大人の顔色をうかがって、言うこときいてるようなフリをするテクニックを身につけたところで、そんなもの何の役にも立たないから。
だから、絶対に、しません。
それに、そうやって無理矢理みんな同じタイミングで同じことをさせるよりも、それぞれに合う形の勉強のしかたがあると思うから。
これからはそれぞれに合うやり方を自分で選んでもらいます。
1人で黙々とやりたい人もいるでしょう、仲間と話しながらがいい人もいるでしょう、ときどき歩きたい人もいるでしょう。
どれもいいです。
だからその代わり、他の人のそれぞれのスタイルを大事にしてあげてください。
みんなで協力して、教室をつくっていきましょう。


どれだけ伝わったかはわかりません。
まず「怒らない」に対してかなりの驚きがあったようでした。

「協力して教室をつくる」に関してはおそらく伝わってません。
自分で言ってて曖昧だと思ったくらいで、しかしより伝わるであろう表現は、まだ見つかっていません。

その後の授業では20人ほどのクラスを

「1人で進めるグループ」
「2~4人のチームで進めるグループ」
「先生と進めるグループ」

の3つに分け、子どもたちにグループを選んでもらうスタイルを試験的に導入しました。

課題のゴール地点もそれぞれに定めて、「1人」と「チーム」のグループに関しては進め方も任せています。

スマホで調べながら進める子もいます。
チームでは先に問題を解ける子が解いて、他の子に教える場面も見られました。(答えを丸写しする場面もよく見られますが)

もちろんこうなると、静かな授業ではいられません。
他の教室の教師からしたら「騒音」が響いているはずです。

集中が切れてただのおしゃべりを始めたり、歌を歌い出す子もいます。


教材にも空間にも僕の能力にも限りがあり、理想的なものとは程遠いものになっているとは思いますが、それでも、力で一方的に支配してそれに従わないものを排除しながら行う授業よりは、いくらかマシだろうと思っています。

問題の彼は「チーム」に入れてもらえたり入れてもらえなかったりしていますが、他の子どもたちもようすをうかがっているようで、一進一退という様相。

正解なんてまったくわかりません。
ヒントはこの本にも書いてありますが、毎回毎回、手探りで微調整を加えながら臨んでいます。

終わった後は神経すり減って、いつもぐったりです。


それでも、この抵抗戦は続けたいと思います。

出会ってしまった彼ら/彼女らの、その大切な時間を、何かしら価値あるものにしたいと思うから。

きっとどれだけやったところで、小4の時の塾の先生の話なんて、よくても中2くらいには忘れてしまっているだろうとは思うけれど。

先日の内部試験で3名が「上位クラス」に移動になりました。

僕の感想は「やったじゃん!」よりも、「ほら見たか!」よりも、「ちょっとさみしいな」でした。

もっといろんな話がしたかった。

「また落ちてこい」などというのはひねくれが過ぎるというものですが、仮に「落ちて」戻ってきても、「そんなのたいしたことじゃないし、むしろ上がって落ちた人間だからこそ感じられる人のやさしさもあるだろう」と伝える用意くらいは、しておきたいものです。

闘いは、続きます。


#推薦図書 #苫野一徳 #リヒテルズ直子 #教育

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