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和服業者、必読・・・着物を愛しているから伝えたいこと。

「図案家なのに、なぜ呉服店のことや着物の消費者のことに詳しいんですか?」

私の記事や日頃の言動を知った和装関係者から、上記のようなメッセージをいただくことがあります。

時には、もっと汚く罵られることもあります。

ちょうど良い機会のなのでお答えしたいと思います。

私は平成元年から平成17年までの17年間、株式会社さが美の専属で自分のデザインブランドの着物を展開しておりました。

さが美では毎月2回2日〜3日間、北海道から沖縄までの全国のさが美の店舗での店内催事、それ以外に年に4〜6回ホテルや大会場での大型催事に呼ばれ、自分の商品をお客様に直に勧め、販売しました。

17年間で行った店舗は約420店舗(重複を含む)参加した催事は約60回。

お話しさせていただいたお客様は5000人以上。

私が関わり始めてすぐ、さが美は東証一部上場を果たし、全国の店舗数も360店に達しました。

数字が示す通り、当時はとても勢いのある会社でした。

私はデザイナーですから、他の作家さんのように自分で染めたり加工したりしません。もちろん、芸術家でも技術職人でもありません。

そもそもデザインには「誰の為に」「何の為に」という思考的根拠が必要です。

私がやったことは自分のコンセプト&デザインに相応しい技術者(職人)に依頼して作っていただくことでした。

当時、私の仕事ぶりと才能を見出してくれたあるメーカーの社長が、私がデザインしたものは100%無条件で作ってくれる条件でブランドを立ち上げないか?とお話をいただいたのがきっかけでした。

ラッキーなことに、さが美の中でもとても優秀な人が私の思いを理解してくれました。これで、デザインの段階でエンドユーザーまでの販路が確立してしまったわけです。

これこそ私が望んでいた仕事でした。
私は嬉々としてその仕事に打ち込みました。

当初、3年、長くて5年と思っていたそのブランドは、おかげさまで誰もが満足する結果を出せたので、結局17年間続きました。

続いたというより、やめさせてもらえなかったと言っていいかもしれません。(笑)

それでも15年経った時に、デザイナーとして他の仕事もしたいと思っていたので、決心し、辞めたいと申し出て、在庫を減らす協力を2年間して辞めました。

私のブランドは女性物限定でした。
デザインするにあたり最初から一貫していた信念がありました。

「着物は脇役、女性が主役」

「女性を美しく際立たせる着姿の着物」

「着物はコーディネイトして完成するもの」という信念です。

他の作家さん達は一つの加工技術を中心に主役を作っていましたが、私は技術に固執しないで脇役を作っていたわけです。(笑)

しかし個性的でお洒落な脇役を目指しました。

ですから私は催事会場でも衣桁に広げて飾りませんでした。

コーディネイトして100%になることが前提ですから、衣桁映えに意味はないと考えました。

見せ方は原則マネキンに着装しました。

そして、必ずお客様が羽織れるように、付け下げも丸巻きではなく仮絵羽仕立てしました。もちろん帯も作りました。

私がやったことは、この業界では初の試みだったと思います。

これまでの地値打ち中心主義の着物とは全く違う価値をそこに込めたのです。 
既成の価値(素材の特殊性、技術の特殊性、希少性、芸術性)を一切排除し
私はコンセプトに伴うデザインから生まれる感動価値が最も重要と考えていました。


だから私の着物は、他の作家さんのように一つの技術に固執していないので、あらゆる技術を試しました。
絞り、ロウケツ、刺繍、金彩、手描き友禅、等々。
技術だけで見るとなんでも有りの寄せ集めに見えるのです。
他の作家さんの着物とは全く異質なコンセプトでした。

そのせいか、17年も続いたのに、私の着物が売れる理由をさが美の社員も他社も理解できず、誰も興味を持ちませんでした。当時さが美の社員でも売れる理由を理解していたのは1人だけでした。

だから、脚光を浴びず静かに私は実験を続けることができました。

当初は私にチャンスをくれたメーカーの社長のご恩に報いるために、会社になんとか利益をもたらしたいと、無我夢中で自分の理想の着物のデザインをしておりました。

最初は売れることだけが目的でした。

しかし、3年を過ぎた頃から、自分の信念の正しさに自信を持ち、余裕が出てきて、目的は『呉服業界の実情観察や、デザインの実験、客の観察、分析、検証、法則を導き出す』ことなどに変わっていきました。

その結果、呉服業界が抱える様々な問題が見えてきました。

例えば訪問着の袖丈は本来は、着る女性の体型、年齢、用途、によって、1cm刻みで変えるべきものだという事も解りました。
しかし現実はお店の都合によって決められていたのです。
何よりも、店や販売員が美しい着姿の方程式を持っていないことに驚きました。
当時、私は自分の商品の全ての着物の袖丈は50cmから75cmまで選べるようにしました。

17年間、私は全国の店舗に出向き、お客様と直接かかわらせていただくことにより、得難い経験を沢山させていただきました。

お客様との会話では、本当に沢山のことを学ばせていただきました。
着物を多数持っていても、必ずお気に入りの着物とそうでない着物があります。なぜその着物が一番のお気に入りなのか?
その理由を探りました。


ある時、ある地方のさが美のお店でたまたま店内催事を行っていたのですが、いきなり見知らぬ中年の女性が怒鳴り込んできました。
持っていた風呂敷に包まれた着物一式を店長に投げつけ、「恥かかされた!」と怒りをぶつけたのです。
偶然その場に居合わせた私は驚きました。
なんでも、ご主人は会社の重役で、会社の社長の息子(次期社長)の結婚式に夫婦で招待されたので、思い切って100万円以上の訪問着をその為に買って着て行ったのに、当日、社長の奥様から「良い小紋ですね」と皮肉を言われたと言うのです。

私が見てみると総柄の汕頭刺繍の着物でした。
一応、柄は一方向けの絵羽柄なのですが、着たら確かに小紋に見えてしまいます。
その着物は、このような式典では着てはいけない趣味性の高い街着でした。
私はそのご婦人の怒りはもっともだと思いました。

滅多に着物を着ない人がご主人の為に目的を販売員に伝えて、信頼して高価な着物を買ったのです。
店は取り返しのつかないミスを犯してしまったわけです。

そのミスはなぜ起こったのでしょうか?
そのミスを繰り返したことが後の結果(一部上場廃止、そして会社売却)につながったのです。

催事などでお客様、店員、店長、バイヤーなどと接しながら呉服販売が抱える問題点を肌で感じることができたのです。

私は常に「なぜ?」を忘れませんでした。

呉服店の内情や呉服店が抱える問題。人材教育のあり方。
和装産業の流通の問題、本来あるべき付加価値とは?
全国の地域性、等々、多くのことが学べました。
その結果、お客様にとっての「真の着物の価値」を再認識することができました。

日本はコロナ渦以降、様々な「当たり前」を見直す機会を得ています。

タンスの肥やしの隙間を狙う商品にはなんの価値もありません。
着物業界が生み出した高付加価値商品は業界の自己満足の極みです。
織り手が減少している織物の希少性を謳って、何百万円もの価格をつけることの異常性に気づくべきです。

和装産業の市場規模は戦後のピーク時(昭和56年)の6分の1以下まで落ち込んでいます。 
結果が全てです。

そもそも女性は「着物離れ」なんかしていません。
低迷の理由は、業界の女性離れなのです。

この結果を見てもまだ、改革しようとしないのには呆れ果てます。

みなさん自分だけは生き残れると思っているのでしょうね。

生産者の高齢化と後継者不足はどうしようもない現実です。
近い将来、着物生産者が日本から消え、小売店と問屋の在庫品と中古品がぐるぐる回る市場のみが残る、そんな悪夢が現実にならないことを祈るばかりです。

かつて私がお世話になった「さが美」は、その後業績が悪化し、ベルーナに買収され、店舗数は4分の1に減りました。
原因は「種蒔き」と「水やり」を怠り「刈り取り」ばかりに注力したことです。

販売業と流通業の先見性の無さと問題解決能力のなさで生産者を潰さないで欲しいのです。
本当の意味で呉服店が繁盛してほしいのです。

気がつけばこの道50年。
私は今、着物産業にご恩返しする年齢になったと自覚し始めました。

だから、あえて生意気なことをこれからも申し上げます。

なぜならば着物を愛しているからです。


和装研究家 
繁盛する呉服店の作り方講師
着物デザイナー

成願義夫


よろしければサポートをお願いします。 着物業界の為、着物ファンの為、これからも様々に活動してまいります。