教室

秋の西日は、肌を刺すように強烈な夏のそれとは違って、小さなころ幼馴染のお姉さんに頭を撫でられた時みたいに、ちょっとこそばゆいような優しさをはらんでいて。だから私は、この時期の西日が差し込む放課後の教室が好きだ。こうして人がいなくなるまで荷物をまとめるふりをして適当にやり過ごす。そうしているうちに人がいなくなった教室の、開いた窓から流れる風が鼻先をかすめて、夏の香りをちょっとだけ残しつつも、確実に冬の香りをはらんだその風は私の胸をぎゅっと締め付けて、放課後の優しい静寂を演出してくれる。
ふと目の端に人影を捉え、私は咄嗟にカバンを持つ。帰るふりをしようと立ち上がりながら、急激に顔が熱くなるのを意識する。はずかしいところを見られてしまったかもしれない。誰もいない教室で一人たそがれてるなんて。
私は目の端の影を意識しつつ、そちらを見ないように出口へ向かう。と、見ないようにしつつもやっぱり気になってしまうもので、せめてどんな人に見られてしまったかだけでも確認しようと、ちらと影の方向を見ると、机の上に手を組みつっぷしている鈴谷さんの姿があった。
彼女が寝ていることに安堵しつつも、私はさっきよりもいっそう胸が締め付けられるのを感じる。別の意味で顔がほてり始めてきたことを感じながらも、無防備にさらされた彼女のつむじから目が離せなくなる。つっぷしていて、けしてこちらに顔を見せることのない今の彼女の、その寝顔はどんなだろうか。普段張りつめた空気を醸し出し近づきづらい彼女の寝顔は、やっぱり険しい物なのだろうか。それとも、ふとしたときに見せるあの無防備で柔らかな笑顔同様、暖かなものなのだろうか。

見てみたい。

私は彼女の机に向かってゆっくりと一歩、また一歩と踏み出した。距離に比例するように、鼓動の音も早く、強くなっていく。鼓膜の裏側に心臓があるんじゃないかと思うくらいに大きくなっていくその音は、私の耳の奥と心臓に鈍く、それでいて心地いい痛みを与える。


住んでいる世界が違うんだ。

鈴谷さんに対する私の印象は、そんなありきたりなものだった。人生で最も輝けるはずの十六年間を、人に嫌われないためだけに生きてきた私にとって、鈴谷さんはあまりに遠かった。
鈴谷さんは、近寄りがたい雰囲気の女の子だった。切れ長の目に、明るい茶髪。無口だけど、口を開けば落ち着いた低めの声音が響く。ちょっぴりだらしなくて、例えば常にシャツの裾がスカートから出てたり、いつも遅刻ギリギリで登校してきたり、常に眠たげだったり。どことなく不良みたいな雰囲気で。それでも成績は優秀で、テストがあれば必ず学年十位以内をキープするほどで、おまけに中学生の頃、プロの画家さんもエントリーするような絵画のコンクールで入賞をはたしたらしく、その道の人たちには将来を期待されているらしく、だからクラスメイト達は彼女の事を、羨望と嫉妬が混ざったもやもやとした視線で見つめながらも、事あるごとに彼女に関わろうとしていた。鈴谷さんは無口だったけど、人を無視してる感じでもなく、誰かが話しかければ愛想よく返すし、お昼に誘われれば誰とでも一緒に食べた。でも自分から誘うこともなく、放課後も一人ですぐに帰っちゃって、つれない印象で。それがまたミステリアスで、クラスメイト達は鈴谷さんに興味津々だった。
学校って、実は社会より厳しいところじゃないかって昔知り合いのお姉さんが言っていた。隔たれた空間で、自身に決められた階級がしっかりと存在して。そこから逸脱しようとする者には、容赦ない仕打ちが待っていて。大人のように表面上だけでも取り繕う、なんて器用なことが出来る年齢でもなくて。私は社会に出たことなんてない子供だけど、お姉さんの言っていたこと、少しだけ分かる気がする。
人気者だった鈴谷さんは、クラスの中でも一番目立つ須原さんのグループに目をつけられた。彼女たちの本当の目的がどんなだったか、何となくわかるけど、憶測で人を悪く言うのは嫌だし、どうだっていい。彼女たちは自分たちのグループに勝手に鈴谷さんを引き入れようとして、そうして勝手に彼女を突き放した。悪口の話題に入ろうとしなかったとか、色々あったらしいんだけど、決定的だったのは三園さんの事だと思う。三園さんは、どういう経緯か知らないけど、ある時期から須原さんのグループに無視されてた。三園さんも元々は須原さんたちと一緒に居たはずなのに。そんな中、鈴谷さんは三園さんに普通に接した。三園さんに話しかけられれば普通に喋って、お昼に誘われれば一緒に食べた。鈴谷さんは、変わらず鈴谷さんだった。でもそんなことがあったから、鈴谷さんは須原さんのグループから無視されるようになった。須原さんの言うことは絶対。安っぽくて、ちんけで、でも確実にこのクラスの神様で。だから鈴谷さんはいつの間にかクラスメイト全員からいないもの扱いされるようになってた。そうすると、クラスメイト達のため込んでいた黒い感情が爆発した。自分から話しかけてくれたことない。付き合い悪い。はなにかけてる。見下してる。鈴谷さんの方が悪い。ほんとのことはわからないけど、私にはどうしても鈴谷さんが他人をみくだしてるようには思えなかった。それでも一度崩れ出したみんなの感情に歯止めはきかなかった。嫉妬。自己顕示欲。優越感。ばかみたい。気持ち悪い。
と言っても、鈴谷さんから誰かに話しかけるなんてめったにないことだし、鈴谷さんは鈴谷さんのまま、平常運転だった。三園さんはその後も無視をされていたけれど、鈴谷さんに話しかけることもなくなっちゃって、どうやら鈴谷さんは三園さんの須藤さんに対する当てつけに利用されただけみたいで。腹も立ったし、もやもやしたけど、傍観決め込んで何もしない私は、多分このクラスの中で誰よりも最低で、空っぽで。だから私なんかが、鈴谷さんに近づけるわけなかった。だって私は、ここまで彼女を観察してて、何もしなかったのだから。それなのに私は、誠に自分勝手ながら、鈴谷さんに惹かれていた。私にそんな資格、あるはずないのに。

指先まで数センチのところで、ふいに我に返る。気づけば私の指は彼女の髪をすくい上げそうで、咄嗟に引っ込めようとしたけれど、どうにも引っ込みもつかず、私のそれは宙ぶらりんな状態で川上さんの頭上で行き場を失ってしまった。
間近で見る鈴谷さんは、それは綺麗で。夕日を反射する少し痛んだ髪先も。髪の間からちらっと見える真白な耳の先も。ふわっと香る甘い柔軟剤の香りも。それらはとっても愛しくて。

ちょっとくらい、いいよね?

行き場をなくした私の指は、再び鈴谷さんの髪に向かって動き出して。すくい上げた鈴谷さんの髪は私の指の間をするするすべってこそばゆかった。今の感情を、適切に言い表せる表現を、私は知らない。空っぽの私が、気安く幸せなんて言葉を使うのはやっぱり抵抗があって。それでも鈴谷さんに触れた今、私はたぶん限りなく幸せに近い存在になっていて。ひとつだけ確かなことは、鈴谷さんにふれた私の心臓は、締め付けられて、すごく痛くて、息もし辛くて、それでもその痛みが、びっくりするくらいに心地よかった。

「あの……」

「へ?」

やっぱり幸せなんて言葉を気安く使うもんじゃない。私は今、そんな言葉から最も遠い人間になってしまった。気づいてなかったわけじゃない。鈴谷さんが姿勢を変えた時、鈴谷さんの目がうっすら開き始めた時、私にはいつだって彼女の髪から手を放すチャンスはあった。でもそれ以上に、私は鈴谷さんに触れていたかった。鈴谷さんの姿勢が変わった時。私は当然だけど初めて彼女の寝顔を見た。無防備にさらされた彼女の寝顔は、それはとっても安らかで、柔らかくて。鈴谷さんの目が開き始めた時。初めて間近でみた彼女の目は、とっても透き通って、深くて底がなくて。鈴谷さんの目がまっすぐ私を見つめた時。夕日をたっぷり含んだ彼女の視線はとっても暖かで。私の見たことのない鈴谷さん。私の知らない鈴谷さん。そんな彼女の一面に、私は今誰よりも近くで触れることが出来ている。そんな事実が嬉しくて、苦しくて。だから私は、彼女の髪から手を放すことができなかった。

終った……。

「ごめん!」

ようやく理性が働いて、私の指は鈴谷さんから離れたけれど、それはあまりに遅すぎて。

「いや、あの…」

「ほんとにすみません!」

鈴谷さんは今、どんな顔をしてるのかな。知らない人間に、寝てる間に髪を触られてたなんて、気持ち悪いよね。怖いよね。顔が、見れない…。

「あの、すみませんでした」

「いや、うん、大丈夫なんですけど、えっと…、少しびっくりしたかなって」

「ほんと、ごめんなさい…」

固まってる場合じゃない。ここはもう一度しっかり謝って、早急に鈴谷さんの視界から消えるところでしょ。早く動け。早く…。頭の中でぐるぐると渦巻くいろんな考え。やらなきゃいけないこと。これ以上鈴谷さんに不快な思いをさせちゃいけないのに、わかっていてもなぜだか私の体はここから一歩も動こうとしなくて。

「あの…」

「はい…」

「熊野さん、だよね」

ぎゅっとなった私の心臓は、痛くて痛くて。息が吸えなくて。こんな状況なのに、幸せで、嬉しくて。

名前、覚えててくれたんだ。

「あの、はい…。そうです…」

「ごめん、なにかついてた?」

「え?」

「髪…」

「い、いや、そういうわけじゃ」

じゃあどういう訳?ここは素直にごまかしとけばよかったのに!せっかく鈴谷さんがくれた助け舟を沈めてどうすんの!
何かごまかそうにも、どうにもいい言葉が浮かばなくて。でも、ごまかしてしまえば私が鈴谷さんの髪に触れた時に感じたあの感情を否定するみたいで、鈴谷さんに嘘をつくみたいで、何だかそれはとっても嫌なことに思えて。だからと言って、じゃあ素直にあなたに惹かれていて、なんてとてもじゃないけど言えなくて。

「あの、熊野さん」

「は、はい」

「私の名前、知ってる、かな…?」

「え?」

「あ、いや、やっぱりなんでもない」

「鈴谷千鶴さん、だよね」

私が名前を呼んだとき、鈴谷さんはどこか嬉しそうで。それはとっても柔らかで、綺麗で、可愛らしかった。

「ち、千鶴でいいよ…、深雪さん」

消え入りそうな、それでも私の耳元にしっかり届いたその言葉は、彼女の声は、私の胸の奥の、一番満たされたい部分に、暖かな何かを広げてくれた。

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