第1章 想起の現象学
概要
21世紀の哲学における潮流として、思弁的実在論運動がある。人間中心的な相関主義を斥けることで実在を語るこれらの議論は、フィクション世界の実在性を示すことが可能である。しかし、その実在性は思弁的であるがゆえに、人間の実存との関わりにおいては効力を持たない。実際に私たちは日常において、ドラゴンが現実に存在するとは考えない。本論は、過去の記憶が現在という時点において現象するあり方を詳細に検討することで、実存におけるフィクションの実在性を論証することを試みる。過去の記憶が現象する際の、「当時の私が直接経験した」という意味の現れには、「私」に関する恣意的な選択が導入される。この恣意性を許すのであれば、フィクションが過去において直接経験されたとする選択も可能である。現前する世界と世界内存在のリアリティに比して、過去の思い出とフィクションの感傷は同程度に捨象された現実性を持つ。ゆえに、フィクションは実存においても、過去において実在したと解釈することが可能である。これを〈想起の現象学〉と名付ける。
本論
フィクションの実在性を示す近年の存在論としては、マルクス・ガブリエルの「新しい実在論」やグレアム・ハーマン「オブジェクト指向存在論」がある。
「新しい実在論」において存在とは「意味の場」に現象する意味である。意味の場そのものも別の意味の場に現れるという点で、「新しい実在論」は実在どうしが入れ子構造になったフラクタルな多元論である。私たちが日常的に語る存在とは、私たちの実生活という意味の場において現象する意味の集まりである。この意味の場においてはフィクションの登場人物は現象しない。しかし例えば、『ドラゴンボール』の世界において孫悟空は存在しているかという問いに対して、私たちはイエスと答えるだろう。このように存在は意味の場において現象するという形で(のみ)語ることができる。(これは西田幾多郎における「場所」の概念に近いと指摘されている。)
では、世界全体という意味の場は存在するのか。仮に存在するのであれば、その意味の場に現象しないものはリアリティを持たない。だが、そのような意味の場は存在しない。というのも、世界全体という意味の場が仮にあるとして、その意味の場が現象する意味の場が必要だが、それは世界全体に内包されていないのである。ウィトゲンシュタインは眼が眼を見ることができないという点を指摘したが、同様の不可能性が世界全体の実在についても指摘される。すなわち、あらゆるものが存在するが、世界全体だけは存在しない。この点から、フィクションは私たちの実生活における事物と同様の実在性を持つと言える。
「オブジェクト指向存在論」は人間中心的な相関主義への反駁を試みる思弁的実在論運動の一形態である。ハーマンは存在どうしの到達不可能性を厳密に検証し、各々の存在をオブジェクトと見做して、オブジェクト同士は全く関連しない(「退隠」している)という立場をとる。退隠するオブジェクトどうしは内部の感覚によって相互に「魅惑」し合い、それによって私たちと世界は関連する。この点で私たちの実生活における現れ方とは別に、月も椅子もドラゴンも同等のオブジェクトとして存在する。直接触れ合うことはない以上、フィクションとリアルの別はない。
以上のような思弁的な方法でフィクションの実在を語ることは、しかし、その方法ゆえに実存的でない。換言するならば、私が私として生きているという自己中心的な視点を保ったまま、私の生きる世界の中に実在するものとしてフィクション(の登場人物や出来事)を語るには至っていない。
これについて、日常的な感覚から反論すれば、「フィクションはそもそも実在しないからだろう」となる。しかし、この議論は「実在しないから実在しない」というトートロジーであり、論理として成立していない。ゆえに本論ではまず、この日常的な感覚の根拠を検討する。その上で、過去の想起という特定の条件においては、その根拠が失われ、フィクションの実在が成立することを示す。
リアリティを語る言葉に「手触り感」がある。これを示すサルトルの象徴的なエピソードがある。サルトルがカフェでアロンから初めて現象学についての説明を受けたときのことである。アロンはあんずのカクテルを指差しながら、「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」とサルトルに語った。サルトルは「事物について語ること、彼が触れるままの事物を……そしてそれが哲学であること」を強く望んでおり、感動して青ざめたという。
実存主義者にとっての実在とはそれが「触れ」られるような形で現象する事物である。あるいはそれと意味連関する自然科学的な事実、それが突き止める億光年先の星々や素粒子たち。その背景には私たちが「世界内存在」であるという議論がある。自らについて思考できる「対自的存在」あるいは「自由の刑」に科せられた身として、世界に内属し、そのあり方を現象から考察する。このような実存にとって、フィクションの登場人物は、本などの事物に付随する意味であり、どれだけ譲歩しても私たちと異なる世界に属する存在であって、リアリティを持たない。メルロ=ポンティならば、孫悟空は「肉」を持たないと言うだろう。
フィクションは我が実存と同一の世界に内属しない。この感覚がフィクションの非実在性の根拠であるとする。この「同一の世界」について詳細に検討すると、「実世界(=理論的に干渉可能な世界)という意味の場に現象しない」とも記述可能である。
ここで、現象学の一領域である神経現象学を参照したい。神経現象学はフッサールの現象学における時間論を神経学的な方法論で分析することを試みるものである。ここで提唱者のヴァレラがキーワードとするのが「今性」である。ヴァレラは、現象学において事象が私たちの意識に現象する際にそれは「今」という時間においてしかあり得ないことを踏まえ、その「今」の幅としてフッサールが言及した過去からの展延を、神経伝達の速度から具体的時間に結びつけた。
では、過去はいかに現象するのか。過去もそれが想起される時点は「今」である。その想起は記憶や思い出という言葉で語られる。そして私たちはそれを、現実にあったこととして、疑い得ない実在として把握する。
しかし、想起の現象を実在とする根拠は何なのか。仮に先述の「同一の世界」論を採用すると、過去は「理論的に干渉可能」でないため、私の実存におけるリアルと語ることはできない。故に、過去のリアリティを語るためには、それが今において現象する際の意味の場を個別に分析しなければいけない。
①思い出の現象する意味の場
五感による知覚 ー その思い出における(主に映像)記憶
事象の前後の文脈 ー その思い出の原因と結果
事象の意味 ー 事象が「私にとって」どのように位置付けられるか
事象を思い出した原因 ー 今における何らかのきっかけ
事象によって受ける感傷 ー 今、想起したことによる感情の動き
これに、過去に見た「フィクションを思い出す」ことによる現象を対応させる。
②フィクションの想起の現象する意味の場
フィクションが脳内で構築した映像
想起したシーンの前後の文脈
想起したシーンにおける事象が「フィクションの中で」どのように位置付けられるか
想起した原因
想起したことによる感情の動き
両者を比較したとき、リアリティに関する差異はその意味の位置付けにおいて現れる。すなわち、「私」が体験したのか、「フィクションの登場人物」が体験したのかという点である。この「私」は一見すると強固な根拠に思える。しかしまさにこの点において、思い出とフィクションの権利は同等になる。なぜなら、思い出が記憶の再生である以上、その「私」は記憶し、再生される過程で現前する世界との直接的な意味連関から切り離され、「恣意的に選択された」私に過ぎなくなるためである。記憶は自分自身の処理によって容易に虚構と入れ替わる。そこで自身の記憶の「私」性を付与するものは、今の私による恣意的な選択のみである。
この恣意的な選択を自らに許すのであれば、私たちはフィクションにおける経験も同様に、「私」性に引き入れることができる。こうして、フィクションは思い出としては過去の経験と同等のリアリティを持つのである。
ただし、フィクションは現前する世界ほどのリアリティは持たない。フィクションはその定義上、現前する世界とは異なるのである。過去という時間が実世界のリアリティを捨象することによって、思い出の中でのみ、フィクションは実在性を帯びる。
結論
本論では実存におけるフィクションの実在性を、過去の記憶の実在性と比較することで、その同等性を示した。過去の記憶を想起するという形で記憶が現象するとき、その実在性の根拠となる「私」は恣意的に選択されている。この選択をフィクションに対して行うことができないという根拠はないため、記憶の想起においては、経験とフィクションは同等の実在性を帯びる。
これは現在でない時間が現象の一側面を剥奪するという性質によるものであり、その性質を用いれば因果律を超越した実存主義を構築することが可能かもしれない。そのような実存主義については第7章で検討する。
参考文献
マルクス・ガブリエル, 清水一浩 訳. “なぜ世界は存在しないのか.” 講談社, 2018.
飯盛元章. "断絶の形而上学―グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学における 「断絶」 と 「魅惑」 の概念について―." 大学院研究年報 文学研究科編 46 (2017).
小松佳代子, 橋本大輔. "新しい実在論の理論的射程と美術の探究." 長岡造形大学研究紀要 16 (2019): 6-13.
浅沼光樹. “日本哲学という意味の場 ガブリエルと日本哲学.”国際哲学研究 11(2019): 33-42.
シモーヌ・ド・ボーヴォワール, 朝吹登水子 訳. “女ざかり 上 ある女の回想.” 紀伊國屋書店, 1963.
手川誠士郎. "ヒューマニズムについて: J・サルトル, M・ハイデッガーをめぐって."立正大学文学部論叢 46 (1973): 91-106.
武藤伸司. "FJ ヴァレラの神経現象学における時間意識の分析 (1)―神経ダイナミクスと過去把持―." 東洋大学大学院紀要 48 (2011): 51-69.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?