見出し画像

「バチェラー3」は初めから1対1のボーイミーツガールだった ー祝福に代えてー

愛する存在は愛する者にとって宇宙の代理なのである。
ージョルジュ・バタイユ

はじめに

バチェラー・ジャパン シーズン3が完結しました。本記事はエピローグまでを見て大変感動した筆者が、その感想を述べるものです。ネタバレが多分に含まれておりますのでご注意ください。また、7000文字くらいあります。最後に要約を書きましたので、簡単に読みたい方はそちらをぜひ。

さて、バチェラー3はその波乱の結末から大変話題になりました。有り体に言うと炎上しました。“バチェラー・ジャパン”のルールにあるまじき行為によって、それまでの出来事のほとんどが茶番となり、さらには酷く傷つく女性が出てきてしまいました。
これについて、「バチェラーは/恋愛は/男性は、かくあるべきだ」という規範意識から強い言葉で批判する人が大変多かったです。僕がひとりで勝手に大感動して、みんなの感想を見ようとTwitterを検索したら、バチェラー最低🍇最低の大合唱でした。
この苛烈な規範意識について思うところはあるのですが、本論ではそこには踏み込みません。
ここでは、途中まではみんなが最高傑作だと思っていたはずの「バチェラー3」を、そのまま最高傑作だと受け入れられる僕なりの解釈を提示したいと思います。

「バチェラー3」は1対20ではなく、初めから1対1の物語だった

本論の核心はこの点にあります。
バチェラー3はたしかにバチェラー・ジャパンの第3作ではありますが、その中身はそういった前提と全く関係ないボーイミーツガールだったのです。その過程で他の女性たちがどのように振られるかというのは、いわば『君の名は』における彗星落下の回避努力と同じ位置付けであり、それが発電所の爆破だったことは重要だけれどサブプロットでしかない。その違法性、非倫理性を殊更に取り上げても、作品そのものの素晴らしさには影響しないでしょう。

バチェラー3は、友永さんを主人公としたボーイミーツガールである。この観点から改めて、バチェラーのみに感情移入してシーズン全体を見返すと、あまりにも美しすぎる物語になるのです。
その美しさを、まずは構造面で分析します。ボーイミーツガールとしてのバチェラー3は、見事な三幕構成を取っています。三幕構成はもともと映画の脚本理論であり、フィクション全般に応用されています。ここでは各論の説明は割愛するのですが、出会い・小さな成功・ターニングポイント・挫折・再起・大きな成功・エンディングという流れが、友永さんと岩間さんの関係性のみを取り出すと見事に再現されています。
そしてまた、美しさは細部にも宿ります。フィクションであれば演出の部分。とにかく2人の見た目が綺麗な上に、友永さんも岩間さんも互いの美しさを再確認するためのコミュニケーションだけを常に取り続けています。そして岩間さんの凄さは、そこに一切の期待外れがないことです。岩間さんの性格は散々叩かれていますが、あれだけ見事に、全ての会話において「この人を好きと思えて良かった」と思わせてくれる女性はそういないです。テクニカルに言えば、もっと好きになるための余白を常に残しながら、常に好きが前進した分だけの幸福感を与えてくれるような会話です。
極め付けはウエディングドレスのシーン。それまでは正直、僕は田尻さん水田さん推しで、岩間さんは一度失速し始めたらそのまま落ちるだろうなと思っていました。でもあのシーンがあまりにも、あまりにも美しくて。絵もさることながら、あの行為と会話が2人の関係性に与える意味を考えると、泣きそうになりました。恋愛が聖性を帯びたような。
あそこは一視聴者としてもかなりのターニングポイントで、あれ以降は田尻さん好きだなと思って応援しつつも、最後には必ず岩間さんに落ち着くなというのを確信しながら見ていました。それによって“バチェラー”の枠組みは終わり、一対一の関係性とその周囲という物語として見るようになりました。この時はまだ最後の波乱までは予想できていなかったので、ほうほうそんな感じかーと思いました。今となって思い返すと、本当はそれすらも不完全な見方です。最初から、ぶどうジャムを口にした瞬間から、2人は「出会って」いたのです。エピローグの直前、最終回のあとの意味深な次回予告を見たことでそれに気づき、鳥肌が立ちました。僕目線だと、凄まじい伏線回収です。それまでのあらゆる出来事が再解釈され、全てが2人のための物語だったことが浮き彫りになるのです。
もちろん、バチェラー3を胸糞悪いと感じた多くの人は納得しないでしょう。たしかにバチェラーの幼さ・不完全さは随所に見られましたし、最後の裏切りは許されざるものです。だから批判に対する反論の余地はなく、その点でバチェラーを擁護するつもりはありません。しかし、むしろその点において、この物語は物語としての輝きを放つのです。

愛と倫理、あるいは宇宙と対峙すること。

バチェラー3は物語としては上質なものだったとこれまでに論じました。一方でただ上質なだけならテクニックによって再現可能であり、僕がわざわざ筆を取ることもありません。
バチェラー3は、それがドキュメンタリーであり、反倫理的な結末を迎えたことによって、固有の存在価値を帯びます。

愛する存在は愛する者にとって宇宙の代理なのである。
ージョルジュ・バタイユ

冒頭に引用したこの文が、友永さんを主人公とする物語の文学性を言い当ててくれています。主体が対象を「愛する」とき、対象は宇宙の代理となるのです。
この文章の理論的背景についてはやはり割愛してしまいますが(そのため本論は僕の感傷以上の意味を持たないのですが、)友永さんはこの観念をほぼ完全に体現したひとでした。哲学者バタイユは言います。存在はそれ自体のみでは必ず自身の不充足を自覚する。その不満に対して、愛する対象は、エネルギーの果てなき蕩尽先たる開かれた宇宙としてあらわれる。そして「対象が完全に主体を補完するのは、ただ主体を愛することを通してだけ」なのです。ウエディングドレスの岩間さんを受け止めた瞬間から、岩間さんは宇宙の代理となったのです。それからは岩間さんに全てを捧げることしかできないし、岩間さんが自分を愛することでしか自分の存在は完成しないのです。
この、「恋愛の絶対性」ともいえるものが如実に現れたのは、”バチェラー“という枠組みあってのことでしょう。それにより、バチェラー3は「愛すること=宇宙と対峙すること」という主題を強烈なリアリティで提示する、唯一無二の物語となったのです。ここに至ってバチェラー3はエンタメではなく、ひとつの文学となります。

さて、この目線でもって、バチェラー3終盤を解釈しましょう。中川さん、田尻さん、野原さんとの別れは何を意味したのか。そして、なぜ最後のローズは水田さんの手に渡り、それでも結末はあんなことになったのか。
そもそもバチェラー3におけるメインプロットは岩間さんとの恋愛です。一見すると、他の19人との関係も恋愛の文脈に回収されそうになります。しかしそれだと視聴者だけでなく当事者としても3ヶ月間なんだったんだとなってしまいます。これに対して、他の19人との関係は「19人を振ることを通した人間的成熟」というサブプロットだったとの解釈を僕は提示します。言ってしまえば岩間さん以外の女性はある種の装置だったと。非常に残酷ですが。
バチェラーシリーズ開始時から言われているように、バチェラー自身が女性と別れるという行為はとても辛いです。比較不可能な、人間存在全体どうしを比較するわけですから。それでも最初はテンポよく選ぶことができます。友永さんはこれまでと比べて、「自分が残した人の中に運命の人がいる」という確信を強く持ち、それを毎回強調していました。これは自分の選択に自信があるという表明であり、即ち自信を持って選択したことが彼にとって意義深いことを示唆します。
そしてそれが、中川さんに対してローズセレモニー前に別れを告げるという事件につながります。自分の態度が人を傷つけていたという事実が現前し、それでもなお我を通します。
この選択によって、バチェラーは困難に対峙することになります。女性たちの家族と会った上での別れ。その中には田尻さんが含まれていました。友永さんの心中を完全に読み取ることは不可能ですが、それでも子どもと会った上での別れに何も感じないということはないでしょう。というか、これはウエディングドレスの次の回です。もう岩間さん以外ありえない状態で子どもを含む家族に会うということ自体、かなりの精神的障壁であったかもしれません。
この回はかなり重要な動きがもうひとつあります。岩間さんからの愛が不可欠になったにも関わらず、それが思うように得られていないということが明確に自覚されるのです。バチェラーが「神戸から東京に行ってもよいかもしれない」と最初に発言したのはこの回です。(これについてはブレブレだという批判がありますが、実際にはたった一度の「ブレ」です。岩間さんが絶対的な存在になるという質的な変化ゆえの転換です。)
それに対して、岩間さんはありがとうと言わずに、困惑します。この回において、バチェラーがこれまでの完璧な旅の結果手に入れたと思った完璧な関係性が揺らぎ、さらに確信を持った別れも宣言し難くなります。

ちょっといったんここで僕の休憩も兼ねて、比喩を持ち出します。この文章は書くのが楽しすぎて休まず一気に書いてるのであたまボーッとしてきました。
さて、さきほど三幕構成の話を出しましたが、このエピソード789あたりの動きとその描写は、冒険譚のアナロジーでかなり見通しが良くなります。勇者としての力を手にし、生き生きとそれを行使していたが、あるとき自分の強さゆえに周囲との軋轢が生まれてしまう。それでも自負と使命感から前に進もうとしたら、 強大な敵によって自負すら傷つけられてしまう。そして、自らに限界があるという絶望を払拭しきれないまま、それでも最終決戦に挑まなくてはならない。ここで注意したいのは、英雄譚においてはメインプロットが世界を救うことで人間関係はサブなのに対し、バチェラー3においては岩間さんとの関係がメインプロットで、バチェラーとしてバラを渡すのはサブだということです。
スパイダーマンとか君の名はとかラプンツェルとか、ああいう終盤の焦りと絶望感が、このあたりのエピソードでも感じられませんか。

さあ、自分の家族に女性を会わせます。ここでバチェラーは焦ります。岩間さんしかあり得ないのに、岩間さんの心はどんどん離れているように見えます。この回のバチェラーは口説くのがめちゃ下手で、「あなたが好き」ということしか言えていません。ここの岩間さんの動きが最後のカタルシスを生むのですが、僕は岩間さんの心中については一切わからないので、だれか読み取れる方は教えて欲しいです。
ここで語るべきは野原さんへの涙です。野原さんへ別れを告げるということは特別な意味を持ちます。強さと美しさの象徴のような女性でした。友永さんも再三、完璧や理想的といった言葉で彼女を褒めています。またお母様も、野原さんが息子のタイプだと言っていました。野原さんは、強さ≒母たる存在を求める「無意識」の向かう先であり、「過去」の代理です。過去とはすなわち、岩間さんと出会い恋する前の自分の全存在です。野原さんはそのような異質の絶対性を持つ、岩間さんに対抗し得る唯一の存在でした。だからこそここで、母と対峙したこの回で野原さんと決別しなければならなかったのです。この決別は最も困難だったはず。これは過去との決別であり、母との決別であり、岩間さんとの最終決戦に向けた退路を断つものでした。こんなに恐ろしいことはありません。苦しすぎる涙でした。(野原さん解釈はラカンあたりを持ち出せば説得的になったでしょうが、頭が回らないので私見に留めます。僕の想像が多分に含まれます。)

最終回。
水田さん。岩間さんと対比されがちですが、僕はあまりそうは思いません。
彼女は自分を幸福な結婚相手として演出しており、実際に誰よりも素敵な女性でした。友永さんとしても、幸福度との相互言及から、水田さんが最も結婚相手にふさわしいと頭では考えていたはずです。ですが、その筋では岩間さんには勝てません。岩間さんは宇宙の代理なのだから。クリリンがスーパーサイヤ人に勝とうとしているようなものです。絶対性を帯びた相手に、どれだけ素敵さを磨いても人間では太刀打ちできません。結婚が絶対性を持ち得ないのは、それが合法的であり、習慣化されているためです。むしろ、絶対性に打ち砕かれるために存在するような観念。

ただ、嗚呼、フランスでの最後の夜、岩間さんは友永さんに、恋していないとはっきり伝えます。
聖剣が折れて世界の滅亡を確信した勇者。準決勝で敗退が決まった高校球児。
これがフィクションなら、最後の最後に希望を取り戻せると思えます。でもバチェラーはドキュメンタリーです。このまま、主人公が挫折して終わるのではないか。そんな不安の中で最後のローズセレモニーを見ました。途中で挿入されたインタビューのとき、岩間さんは語ります。好きでないと伝えた後でも、バラをもらったのなら、それには応えたいと。それがほんの僅かな希望の光に見えました。この時にはもう主人公は友永さんではありません。友永さんと岩間さんの「関係性」そのものです。僕は祈るように手を合わせながら見ていました。どうか、どうか岩間さんの名を……。


……水田さんの名が呼ばれ、苦痛の中に2人がいました。存在の充足が終ぞ果たされぬまま、宇宙が閉じていき、物語は終わりました。幸せな、素晴らしい日々が始まります。
ほろ苦いけど、叶わぬ恋もまた美しい。そう思いながら、凄まじく感動して、Twitterで大騒ぎしながらスタジオの会話を見ていました。

すると!!!!!!

どう考えてもそういうことやろって感じの意味深な次回予告とともに、真のエンディングが告知されました。

そして昨日、エピローグを見たことで、物語の完成を知りました。

もうこの感動は凄すぎて語るのも野暮なのですが可能な範囲で言葉にしましょう。


人は、幸せになることができます。友永さんはバチェラーに参加し、水田さんを選ぶことでそれを手にしました。でも、幸せって、明日を必要としているじゃないですか。それに、頭で理解できてしまうし、どうすれば失うかも常に知ってしまっている。幸せは素敵だけど、ずっと完璧になってくれないじゃないですか。それでも何もないよりずっとずっとマシだから、人はそこに縋ってしまいます。

幸せじゃなくていい、と思わせてくれる何かが欲しい。明日なんかなくても、今この瞬間が完璧で、それだけで過去も未来も全て赦せるような何か。現実では届きようもないから、フィクションにそれを求めてしまう、絶対的な何か。真の恋愛。

友永真也はそれに手が届いたのだと思います。

絶対的な存在と愛し合う可能性があって、諦めても諦めきれず、最後の賭けで僅かに光明が見えたとき、規範や倫理がなんの障壁になるでしょうか。


人間が、現実世界で、真の恋愛に到達し得ると教えてくれたから、僕はバチェラー3が大好きです。

さいごに

もう誰も読んでないと思いますが、総括します。
今回のバチェラーは本当に最高でした。感動しました。言葉を尽くしたつもりですがまだまだ語ろうと思えばいくらでも語れてしまいます(岩間さんも一度振られている、ということの意義など。)

とはいえバチェラーが番組コンセプトを壊しかねない行為を取ったことや、水田さんをひどく傷つけたことは確かです。個人的には当事者以外が責めることではないと思いますが、そう思わない人の批判も否定はできません。

ただせっかくこんなにすごいものを見られたのだから、規範意識や倫理性にはいったん目をつむり、素晴らしさそのものを味わいたいな、と僕は思います。

また今回のバチェラーが面白かったのは、女性陣がみな素晴らしかったのも理由でしょう。毎回素敵な女性たちが集まっていますが、今回は特に相互をリスペクトし合いながら純粋な人間的魅力で全員が良い勝負をしていたように思います。
友永さんもめちゃくちゃかっこいいし、ユーモアもデートの質も良くて、毎回楽しめました。
映像と編集もさすが。
MC陣も、こちらの思っていることを圧倒的な言語センスで言い当ててくれるので、とても気持ちよかったです。
とにかく関わった方々みなさんに感謝しています。

読んでくださったみなさんもありがとうございました。僕の自己満足にお付き合いいただいて。ぜひバチェラー3を好きになってください。

友永さんと岩間さんの今後については僕はどうでもいいと考えています。未来なんてどうでもいいくらい今が完璧なはず。おふたりを媒介に、世界の全てに、恋愛の全てに祝福を送ります。

良いもの見た〜〜。



要約

「バチェラー3」は友永さんが最後のローズを水田さんに渡したにもかかわらず、ずっと好きだった岩間さんに後からアプローチして付き合い始めたことから、大きな批判を浴びました。
しかし、“バチェラー・ジャパン”という枠組みを無視して、「友永さんを主人公にした、岩間さんとのボーイミーツガール」であったと考えるととても美しい物語でした。本論ではその美しさを3点にわけて分析します。
1 岩間さんとの恋愛をメインプロット、ローズセレモニーを重ねることをサブプロットとした三幕構成が成立していた。
三幕構成とは映画の脚本理論で、人間が感動する作品に共通の構造を表します。
出会い・小さな成功・ターニングポイント・挫折・再起・大きな成功・エンディングという流れが、友永さんと岩間さんの関係性のみを取り出すと見事に再現されています。
2 友永さんと岩間さんの会話が美しかった。
物語の構成要素として、岩間さんとのデートがどれも素晴らしかったです。岩間さんは常に、それ以上に好きになる余白を残しながら、好きになればなっただけ幸福感を与えてくれる存在でした。
3 恋愛の絶対性を反映していた。
哲学者のバタイユいわく、恋愛対象は宇宙の代理となります。その対象から愛されることで、人間は自己の存在の不充足を克服します。この、恋愛の絶対性が、過去の理想や結婚の持続的な幸せを超越するということを、示してくれる物語でした。その点で、バチェラー3はもはやエンタメではなく文学となります。
友永さんの行為はバチェラーという枠組みや水田さんの気持ちを裏切るものでしたが、そういった規範や倫理を無視できるほど、完璧な恋愛に到達できたのだと考えると、あまりにも感動的な物語だったなと筆者は個人的に感じています。
(本文では各項を詳細に説明するのに加え、エピソード7以降の出来事について個別に解釈を行なっています。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?