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食べることと感情と言葉と、人生を救う家庭科のこと:最果タヒ『もぐ∞(もぐのむげんだいじょう)』

おいしそう。おいしい。おいしかった。うまそう。うまい。うまかった。

お、と思う食べものに出会う度、私の手の中にある言葉たちは途端に貧弱になる。「おいしい」と「うまい」の未来現在過去形だけで済んでしまうなんて、食欲や味覚を前にしてなんて言葉は脆弱なんだろう。

私が誰かにその食べものの魅力を伝えなければならない立場であったならもっとボキャブラリーを鍛えたのかもしれないけれど、そうじゃない。食べることは私にとって贅沢なまでに孤独を堪能できる行為だ。

だから、社会的にはどうだかわからないが、自分の決めたものを思うままに食べたいと思う。相手とメニューがかぶるかどうか、食べ合わせがどうか、出てきたメニューを何から食べるか、シェアするかどうか、相手の食べるペースに合わせるか。会計はどうしようか。出来ることならそんなこと考えずに、さようなら雑念、と軽やかに挨拶をして「食べること」に全力で挑みたいのだ。

さらに社会的にはどうだか知らないが、私の食事は節操がない。メインの前にはサラダや前菜、とか最後にデザートとか、ごはんに合うおかずだとか頭を使って食事を組み立てることが苦手で、つい食べたいものを食べたい順に食べてしまう。健康やルールや慣例なんかに気を遣う余裕がないし、そうすると絶対的にエンジョイできない。食べた気がしなくて「私の負けね…」と思いながら食後だとかかまわず「あーなんか食べたいなー」とこれまた節操なく口にしてしまう。

そんなことを考えながらつらつらとキーボードを叩いていたら、「ああ、やっぱり最果タヒは天才だ」と思ってしまった。私のパソコンで初めて「さいはてたひ」と入れると「最果てタヒチ」と予測変換が出たときにはビックリしたけれど、二回目からは覚えてくれた。それくらい。どれくらい?それくらい、天才だ。天才がどういうものかも知らずに天才だなんて言ってしまっているけれど、具体的には文章の魅力がハンパねえ、って感じだ。

良き、と思った部分を引用しようと思ったらできなかった。というかしようとしたらそのトピック全部を引用したくなった。著者の脳内からだらだらと漏れてくるような言葉たち。作文の授業で言われるような「ですます調」を揃えるなんてことを大きく飛び越えて、あーもしかしたら感情を言葉にすることってこういうことなのかな、なんて考えてしまった。

「パフェはたべものの天才」とか「また会おう、タイ料理。」とか「良いサンドイッチはミステリー」とか、もう目次だけで「ハイセンス!」と天高く放り投げてジャンプしてキャッチして抱きしめてくるくる回りたい。とにかく不思議。とにかく素敵。本の感想としても語彙が乏しいけどそんな感じ。

なかでも「現実の国から。」がとてもとてもよかった。それは写経ならぬ写詩でもして冷蔵庫に貼って毎日眺めてもいいくらい。

愛より夢より成績より家庭科が救ってくれるものって人生のなかに、ほんと、たくさんあるって思うよ。――「現実の国から。」

そうだよ、着ようとしたシャツのボタンが取れていても絶望しなくていい。失恋した夜に作る味噌汁が美味しい。気に入っていた服についたシミが自力で取れた。安くて買った大きな魚がきれいに三枚におろせた。

人生は生活の積み重ねで、生活は朝昼夜を繰り返すことで、生活とは結局、衣食住だ。それが安定してはじめて「夢」なんてものが顔を出し始める。

おいしいもの、きれいな部屋、ここちよいおふとん。生きる、ということにつまずくとき、それらが一番やさしく、救いになってくれる。その可能性は決して奪われない。――「現実の国から。」

食べものの本を読んでいたつもりだったのに、結果として家庭科の話に救われてしまった。生活は強い。いつだって、それだけは揺るがないでいてほしい。


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