30前に哲学を語るな!
従兄弟にそう言われたのが20歳前。
私に向かってではない。30歳になるまで、自分の哲学を語るなと担当教授から言われたらしい。そんな文脈だったと思う。
従兄弟は、大学院の博士課程に籍を置き、私は行き場のない浪人生。経験の裏づけがない思索ばかり先行していた。
今はあれこれ考えず、受験勉強に専念したらどうか。暗にそう諭してくれたのだろう。
私も還暦。ダブルで30歳を超えた。自分の哲学を語っていい頃合いかもしれない。
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当時の私は心の中で反発した。抱えきれない不安があるのに、なんで受験勉強なんか集中できるんだ。怒りに近い憤りだった。
死んだらどうなる。なぜ生まれてきた。死んで何もかも消えてしまうなら、生きてたってムダではないか。何のために生きてる?
今の私ならすべて答えられるけれど、あの頃わかっていたら違う人生になっていた。
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フジミドリのサイトで、答えを書き続けるのは、かつての私と同じ疑問に苦しむ方へメッセージというより、備忘録なのである。
あれから40年掛かって得た答えを、忘れかかっているのだ。お読み頂き、ご質問下さる方がいらして思い出せる。やれやれ💦
ありがたいご縁に感謝🙇
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哲学は【フィロソフィ=知を愛する】の訳語である。博士号の【DrPh】はすべての学問がPhilosophyであることを意味している。
私なりに哲学を再定義しよう🌿
哲学とは、森羅万象ありとあらゆるものを知ることである。私の言う【知る】は表面の知識ではない。体験して超えることだ。
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虚心坦懐。先入観を捨ててゼロになる。書く人と一体感を取って読む。語る人と一体感を取って聴く。これで体験は共有できる。
スッと入り、スッと出る。
このnoteという世界は体験の宝庫だ。文章・写真・動画・ラジオ。読みながら見ながら、聴きながらいろいろな体験が共有できる。
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そして反対を想定するのが私流の哲学。
例えば、平和主義者の記事。なるほど。成り切って共有する。平和主義者の体験を持つ私という【在り方】になれた。
次は反対の立場を想定する👀
平和の反対とは。戦争賛成。なぜ。そうか。なるほどね。戦争で儲かる武器商人。
もしも富裕な武器商人の家庭に生まれ育ったら、何を思いどう感じ、生きていくだろう。あり得ない想像まで体験できるのだ。
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意識の世界で済ませてしまう。
30年修めた道術の極意。そもそも武道は闘わない。武という字に顕わす。シミュレーションで済ませ、争いを止める道なのだ。
人生はシミュレーション
闘いではない
だから道術には試合がない。ルールを決めて試すのはスポーツである。ルールがなければ勝つのは上位。改めて試す必要などない。
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意識の世界で済ますなら、一つの人生でなんと多くを体験できることだろう。死ねば、実体験かシミュレーションかは無関係。
死後の世界は、金メダルもノーベル賞も通用しない。知識もスキルも使えない。経験から感じ取る理解だけが頼りなのだ。
今回も感じ取らせて頂いた。
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やすぼんさんが、亡妻について書いた私の記事にコメントをくださった。
読みながら泣きました。だからフジミドリさんの文章は心にしみるのですね。
このようなコメントが頂けるとは・・
やすぼんさんの人生哲学と優しさが静かに響いてくるこちらの記事は、私の最もスキな曲が流れている。ご存知ないはずなのに🎼
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HNMさんは、誠実な哲学者の香りを漂わせていらっしゃる。古来の賢人に教えを乞い、学ぼうとなさる謙虚な姿勢が窺われる。
次の記事で、ご自身の哲学をまとめられるそうだ。とても楽しみである💗
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りなるさんは視野が広い。その視野から深く洞察なさる。それでいて偏らない。自由闊達な思考はあらゆる見解に開かれている。
りなるさんの記事なら、どれをとっても示唆に富む。新しい方から選んでみた。
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深くシミュレーションすれば、どんな体験でも可能だ。脳神経は想像と現実の区別がつかない。ヒトにだけ与えられた僥倖である。
シミュレーションは理解をいざなう。理解の世界に身を置けば、死は隣の部屋へ行くようなもの。懐かしい気配が待っている。
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