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【「進撃の巨人」キャラ語り】「友達とは何か?」を描いた「進撃の巨人」第69話「友人」が好きすぎる。

「創作はすべて作者の願望」の亜流みたいな雑な話だし、例えもズレている(サウザーは愛情の喪失に傷ついたのであって友情ではない……台詞もそうなっているし)
 ジャンルの特徴について話したい、ということはわからないでもないが、それを踏まえても持論のために触れるものすべてを雑に扱いすぎだと思う。「その論が正しいかどうか」以前の問題だ。

 友達は

(引用元:「青空エール」2巻 河原和音 白泉社)
つばさ、めっちゃ可愛いな。

二人が「相手は友達」と思っていることだけが、成り立つ要件ではないだろうか。

 上記にまとめについてはそれ以上の感想はない。
 この記事は↑の記事をきっかけにして思い出した、「進撃の巨人」の中で超超超超大大大好きなエピソードである第69話「友人」について語りたいだけだ。(ここからが本題)
 ちなみに自分の中では第80話「進撃の巨人」とこの話がベストエピソード1位2位を争っている。
 額に入れて家に飾って眺めたい。

 第69話「友人」は、そのタイトル通り、始祖の巨人を受け継いだウーリと、ウーリを殺しにきたケニーの長年に渡る友情の話である。
 以前「全34巻を一気に再読した」の記事で書いた通り、自分は「進撃の巨人」の登場人物の中で、ケニーが一番好きだ。

 ケニーは、自分の生き方を変えたウーリがどんな景色を見ていたか、どんな思いで生きてきたかを知りたかった。
「ウーリと対等の目線になること」 
 それがクソみたいな人生の中で、ケニーが唯一持った生きる目的であり意味だった。

 ケニーは自分は「ウーリと対等の存在ではない」「友人になる資格がない」と思っていたし、リヴァイに対しても「父親になる資格がない」と思っていた。
 ウーリやリヴァイは、ケニーに資格があるかどうかなど気にしていない。
 そんなものがなくとも、ウーリにとってケニーは友人だし、リヴァイにとってはまぎれもなく(疑似)父親だった。

(「進撃の巨人」17巻 諌山創 講談社)

 リヴァイの人物像やケニーとのやり取りを見れば、ケニーがリヴァイにとって「ちゃんと父親であった」とわかる。ケニーもリヴァイが自分と対等に殺し合えるようになったことを喜んでいる(ことを部下に指摘されている)

「34巻まで一気に再読した記事」で、ケニーのことが好きな理由として「自分のことをよくわかっているから」と書いたが、これはかなり説明を端折っている。
 自分がケニーが好きなのは、「ウーリやリヴァイは、ケニーに友人や父親の資格があるかどうかを気にしていない。客観的に見てもウーリにとっては友人でありリヴァイにとっては父親だった。でもケニー自身はどうあってもそこが気になってしまう。そういう自分の面倒くささを他人のせいにしないところ」だ。

 最期のリヴァイとの会話を見るに、ケニーは自分がリヴァイから父親として慕われていることには気付いていた。自分もリヴァイの面倒を見たのだからリヴァイに対して愛情(が言い過ぎならこだわり)があることは認めざるえない。
 ではなぜリヴァイの下から去ったかと言えば、「自分で自分にその資格があるとは認められないから→俺は人の親にはなれないから」と答える。
 ウーリが、リヴァイが、社会が、状況が問題なのではない。
 自分自身の問題だ、とちゃんと認めるところが凄く好きなのだ。

 ケニーは、常に憎まれ口を叩いている。
 ビビッた時も、相手を心配している時も、変わり果てた姿になった妹と再会した時も、息子のような甥と再会した時も、自分はもう助からないと思った時も。
 ウーリが死ぬだろうと分かった時のこのやり取りがいい。

(「進撃の巨人」17巻 諌山創 講談社)

 リヴァイはケニーとは違って、心根は優しくて立派な人間だ。
 だが言動はそっくりだ。
 悲しさも痛みも労わりも全て憎まれ口になってしまう。親子だなあとしみじみ思う。

 ケニーは最期に「ウーリも自分と同じだった」と気付く。
 誰もが同じように何か酔っぱらって、すがってなければ生きられなかった。

(「進撃の巨人」17巻 諌山創 講談社)

 このシーンを読んで、ケニーは本当に生きるのがキツかったんだろうなと思った。

 ケニーは本人が言うように「クズ」で「クソ野郎」だ。実はいい人でした、とかそういう人間ではない。(有能であるにせよ性根は)ただの卑劣で残酷な小悪党だ。
 でもウーリはそういうケニーを友人だと思っていた。
 ウーリは、ケニーが立派だから、高潔だから、尊敬できるから、友人だったわけではない。ケニー自身は「友人になる資格が必要」と思っていたが、ウーリはそんなことは思っていなかった。
 友人だと思ったからウーリにとってケニーは友人だったのだ。

「俺のようなクズにも、本当にお前と対等の景色が見ることができるのか? なあ? ウーリ」は何度読んでも泣く。

(「進撃の巨人」17巻 諌山創 講談社)
ウーリと並んで美しく穏やかな同じ世界を、ちゃんと見ている。

「誰か何とかしてやれなかったのか」という思いと「ウーリに会えて良かったな、ケニー」という思いが両方いっぺんにわいて感情の収拾がつかない。

「友人」を読むと「ケニーにとってのウーリのような人」に一人でも出会えたら、それだけで人生は十分生きた価値があったと思えるんだろうと思える。
 そしてそう思える相手が「社会的な人間としての素晴らしさ」と一致しないところが、友人や恋愛などの個人の関係性の不思議で面白いところだと思うのだ。

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