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「進撃の巨人」全34巻を一気読み(再読)した感想を箇条書き。


◆あまりに面白くて「なぜこんなに面白いのか」真剣に考えてしまう。

 アニメは原作とラストが違うという噂を聞きつけて、アニメを見始めた。
「滅茶苦茶おもしれえええ。続きどうなるんだ(知っている)」→ちょっとだけ原作で予習しておくか→「超おもしれええええ(人生二十回目くらいの叫び)」→結局全34巻一気読み。
 読んでいる途中、余りに面白くて「なぜこんなに面白いのだろう」と真剣に考えた。


◆半生記のような話

 以前の感想で、

 自分はずっと、「進撃の巨人」は作者が見た世界をそのままを描いた物語だと思って読んでいた。
 壁に囲まれて何も分からず、「世界=他人」は巨人の姿をしていて意思の疎通が出来ず、何故かはわからないが壁を壊し、何故かはわからないが壁の中の人間を殺戮する、そういう世界で実際に生きている人が見たことをそのまま描いているのだ。

 こう書いたけれど、今回も読んで「半生記のような話だな」と思った。
 壁の中にいる時は世界のことは何もわからず、恐怖に怯えながらも外の世界を一歩ずつ探るしかない。
 外の世界にはどんな未知のものがあるかと思いきや、壁の中と同じような世界が広がり、そこでまた他人との戦いを強いられる。

(「進撃の巨人」33巻 諌山創 講談社)

 子供のころ、自分が行ったことのない場所には見たことがないものがあるに違いないと思っていた。
 よくRPGで行った場所だけマップが生成されていく作りがあるが、自分のこの先の人生はああいう感じだと特に疑いもなく信じていた。
 一日歩けるだけ歩いてみようと思ってたどり着いた場所が、電車に乗れば30分くらいで行ける距離の場所だったと気付いた時の落胆といったらなかった。
 全然規模が違くて申し訳ないが、エレンのこの台詞を聞いてその時自分が感じた落胆を思い出した。
 エレンと違って情報は制限されていないのだから、普通に考えて自分が行く場所は既に誰かが足を踏み入れて、誰かがいて、誰かが知っている場所なのは当たり前だが、「誰か」にとってはそうであっても自分にとっては凄い場所のはずだ、と何の根拠もなく信じていた。


◆何かひとつだけ「面白さ」の要因を上げるとしたら「エネルギー」をあげる。

「進撃の巨人」は自分が今さら何を言うまでもなく、すさまじく面白い傑作だが、もし何かひとつだけその凄さを上げるとしたら、「読み手を物語の中に引きずり込んで、その中に眠っている感覚を無理矢理読び覚ますエネルギーだ」と答えると思う。

「進撃の巨人」の登場人物たちが、作内で怒りの叫びを世界に向かってあげるたびに、自分の身の内にかつてあった同じ怒りが、もしかしたら今この瞬間に生まれたのかもしれない怒りが繰り返し再現された。
 そうしてそのたびに励まされた。
「進撃の巨人」で叫ばれる怒りは、世界に対する強い負の感情であると同時に、「それでも外の世界に行きたい。何故なら自分はこの世界に生まれてきたからだ」という、世界に対する肯定の叫びだからだ。 

「進撃の巨人」を読んでいる時は、「もういい加減、息してないだろ」と思っていた自分の中にある何かが目を開けて起き上がるのを感じる。
 世界に対して凄く怒っていた時や凄く期待していた時、その反動で失望したり、それでもやっていくしかないと思っていた時の感覚が蘇ってきて、「まだいたのか」と自分でも驚くのだ。


◆父親の存在デカすぎ問題

「進撃の巨人」は、作品全体を「父」の陰が色濃く覆っている。
 主人公たちを囲み、外敵から守るものであると同時に外の世界に行くことを阻む「壁」は父親の暗喩として見ることも出来るし、キャラたちの多くは「父」の影響を強く受けている。
 ジークが疑似父親は必要としても疑似母親は必要としなかったように、母親は父親に比べると圧倒的に陰が薄い。
「進撃の巨人」のキャラたちは父親に抑圧されると同時に、父親を愛し、父親を裏切る罪悪感に苦しんでいる。
 穿った見方をするなら、ユミルとフリッツ王の関係も夫婦(対等の関係)ではなく、権威と隷属者→父子なのではないかと思う。「舌を抜かれた相手に神に等しい力を手に入れた後も従順であり続けた」……ふむ。
「世界」と「パラディ島(の仲間たち)」を父親と自己の暗喩として見ると、ラストは激突の末に自己の一部(エレン)を殺して和解したと見ることも出来る。
 自分が原作のラストに納得がいきづらかった理由のひとつが「父と子の物語」としての文脈において、自分(の一部)を殺すことによって和解した、と読めたからだ。


◆原作のラストに納得がいかなった理由(ストーリー編)

 表層のストーリーを追うだけなら時間も経っているし、初読と感じ方が変わるかなと思ったが、こちらも初読の時より納得がいかなかった。
「進撃の巨人」は自分にとっては「外に出ていく」話だ。
 それがラストだけベクトルが内向きになっている。
 これまでも「何かを守りたい」「自分が犠牲になる」という考え方は「進撃の巨人」に出てきた。
 ただそれはあくまでその先にある何かに進むためであって、そこで動きが安定して止まるために(平和のために)自分が犠牲になるという発想は「進撃の巨人」が発し続けていたエネルギーと向きが真逆だ。
 周りはエレンが「いい子」であって助かった。
 だがそれは我慢する人間が、ユミルからエレンに代わっただけでは?と思ってしまう。
 フリッツ王への愛のためにユミルが二千年奴隷をやっていて、その怒りが爆発寸前まで溜まっていたのだから、話が物語の前提に戻っていないか?
と思ってしまうが、原作はもう描かれているのだからそのまま受け取るしかない。
 アニメではラストが変わっているらしいので見てみようと思って見始めた。


◆好きなキャラ

「進撃の巨人」はどのキャラも好きだが、特に好きなのはケニー、グリシャ、クルーガー、ザックレーだ。
 一番好きなのはケニーかな。
 死に際の

(「進撃の巨人」諌山創 講談社)

「俺は人の親にはなれねぇよ」が好きすぎる。
 このひと言にケニーがどういう人間かがすべて詰まっている。
 自分がどういう人間かよくわかっているところが自分の中のケニーの好きポイントだ。
 ウーリに出会った時の超小悪党っぽい啖呵と命乞いも好きだし、ウーリへのツンデレぶりもたまらない。
 あれだけ残虐非道の限りを尽くした理由が「俺のようなクズにも本当にお前と対等の景色を見ることができるのか?」というところがいい。細かくてスマンが、ここの台詞が「同じ景色」ではなく「対等な景色」なところが個人的に滅茶苦茶ポイントが高い。

 クルーガーは「お前が始めた物語だろ」が有名だが、その少し前の

(「進撃の巨人」諌山創 講談社)

この台詞も凄くいい。 
 グリシャが進撃の巨人を受け継いで、クルーガーと意識を共有することからもわかる通り、「お前が始めた物語だろ」は話の文脈的に他人に対して言う台詞ではない。
「未だあの時のまま、戸棚の隙間から世界を見ているだけなのかもしれない」、そんな自分自身を鼓舞する時に使う台詞である。

 ザックレーはこのシーンに共感しかない。

(「進撃の巨人」15巻 諌山創 講談社)

 むかつくのだよ、偉そうな奴と偉くないのに偉い奴が。
 イヤ……もうむしろ好きだな。

 思えばずっとこの日を夢見ていたのだ。人生を捧げて、奴らの忠実な犬に徹し、この地位に登りつめた。クーデターの準備こそが生涯の趣味だと言えるだろう。
 君も見たかっただろ? 奴らの吠え面を。偽善者の末路を!
 あれは期待以上のパフォーマンスだった。まさかあの年でべそをかくとはな。(略)
 私はこの革命が人類にとって良いか悪いかなどには興味がない。

(「進撃の巨人」15巻 諌山創 講談社/太字は引用者)

 読むたびに握手したくなる。(芸術の趣味は合わないけど)
 最期、椅子に殺されるところも、諌山先生のセンスを感じる(好き)

 エルヴィンもザックレーと同じように「自分の夢(趣味?)」だけを考えているが、エルヴィンは真面目すぎて感情移入しにくい。

(「進撃の巨人」19巻 諌山創 講談社)
「私だけが自分の夢を見ているのだ」という台詞はめちゃ好きだが。

 自分のために戦うのは普通だし(でもないのか?)動機が何であれこなしている任務は同じなんだからそこまでストイックにならなくてよくないか……と思うが、この真面目さと責任感の強さがエルヴィンらしい。

 女性キャラではピークが別格、他はアニとヒッチが好きだ。
 ピークはビジュアルも性格もすべてが好きである。
 一見ダウナー系、頭良くて感情に流されず冷静に的確に判断ができて、子供思いで敵には容赦ない。神かよと思う。
 アニは読み返すと、意外と(失礼)女の子らしいところが良かった。
「でも何で、相槌一つ返さない岩なんかの相手して喋っていたの? もっと、明るくて楽しい子とかいたでしょ?」
って、完全に告白誘導だよな。
 このときのアニは滅茶苦茶可愛い。
 ヒッチみたいな一見ひねくれ者に見えて情に厚い女の子というパターンに昔から弱い。「アニの荷物が邪魔」とかそんな言い方しかできないのか、できないんだよね、とニヤニヤしてしまう。

 まだ「これ書きたいな」と思っていたことがあるはずなのだが……思い出したらまた書きたい。

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