見出し画像

「書く意味も読む意味も自分で守るものだ」って言ったばっかりじゃないですか。

 ちょっと待てい。

 ↓に「効率よく消費することを目的化した、今の世の中の構造に違和感がある」って書いたばっかりやん。

 何で丸乗っかりしようとしているんだ。
 どうなってんだ、おい! とセルフツッコミしてしまった……orz 

「消費すること」自体は今の社会では仕方ない。
 でも自分の利益を追求するために、物事の意味や内面まで「効率よく消費するもの」と見るのは違和感がある。
 十代、二十代の時なら、自分が生きる(生きざるえない)社会の中で自分の可能性を追求する必要がある。
 システムなり構造なりに違和感があっても、いったん脇において「そのシステムの中で、何をしたら最も効率よく結果を出せるか」を考える。
 そうやって自分の可能性だけをひたすら追求することで、自分がどんな社会で生きているかが見えてくる。
 自分を作って社会の全体像を探る時期だから、むしろ可能性を全力で追求したほうがいいと思う。(犯罪や規約違反は駄目だがな)
 でも自分自身について言えば「そのシステムの中で、いかに自分が上手くやるかを一番に考えるのは違うのでは」そう考え直した。

 プラットホーム側はなるべく多くの人を集めたい。だから作品が大量に循環して消費されたほうがいい。その中で一時でも売れるものが出れば御の字。書く側はシステムを攻略することを目的にして、駄目だったら止めてもいい作品を投下し続ける。読む側は一瞬でそれを消費する。
 それぞれの立場では最適化された行動なので、個々の立場で見れば仕方ないと思う。
 自分もプラットホームを使わせてもらっているのだから、人を集めるために最適化した仕組みや他の人に対して何か言うのは筋違いだ。
 ただ自分自身に限れば、消費することで消費されるようなサイクルにはやっぱり抵抗がある。

 自分が十代の時は一冊の本を何回も読んだ。
 一瞬で忘れるどころか今でも内容を覚えている。
 その感覚が自分の読書のスタート地点だった。
 読む側の人がどう読むかはその人が決めることだし、どんな読み方であれ読んでくれるだけで嬉しいしありがたい。
 でも書く側の自分は、十代の自分が読書をした時に持った、面白い、ワクワクしたあの感覚のために書きたい。そうでなくては自分にとっては書く意味がない。   

 上を目指すための消耗品(目的のための方法)として書くのではなく、ごく少数でもいいから読んだ人の心に少しでも長く残ることを目指して書こうと思った。
 元々そういうつもりで書いているしね。

 いま読んでいる本の中で、竹田青嗣がマルクスについてこう書いていた。

 国家の本質と経済システムの本質を再定義すること。
(マルクスは)そのことが人間の解放という最大の課題にとって最も大事なことだと考えたから、当時の思想の権威や流行思想に見向きもせずに(略)必要であると信じたことを「はじめの一歩」からやり直した。

(「21世紀を読み解く竹田教授の講義21講」竹田青嗣 みやび出版 P234)

 自分はマルクスとは違って時代の流れに流されて消えていくだけの存在だけれど、自分が何だかおかしいなと思う流れでも時代の主流なんだから仕方ない、のっかって流されてもいいかというわけにはいかない。

 それが何故かと考えた時、言葉にすると自分が感じていることと違うものになってしまう。
 そういう言葉にできないもの、でも自分の内部に確かにあるものを形にするために「お話」を書いているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?