「自分の足で歩く感覚」を取り戻すために、ベルトコンベアから離れたい。

 どうも最近の流れ?に自分の中で違和感がある。
 経済成長の時代に、人間の仕事はベルトコンベアの前に待機していて流れてきたものを処理するだけになると言われていたけれど、今は趣味や遊び、日々の考えに関してそう感じる。

 以前から言われていることだけれど、「注目をパッと引くものが注目を集めるだけ集めて『これが注目を集めていますよ』と差し出され、それを消費して終わり」で、自分が能動的に何かをしている感覚がない。
 ベルトコンベアの前に待機していて、目の前に流れてきたものにその瞬間だけ反応して、流れていくのを見送って終わり。
 そんな感覚だ。
 最近は何かが自分の中に残る感覚も希薄になり、消費することで消費されていくような違和感が強くなっている。
 よくある「今の時代についていけなくなった」ということかもしれない。
 そうだとしても、自分は「自分で何かを探しに行き、選んだものを自分の足で歩いて見に行っている感覚」を取り戻したい。

「パッと目を引くものが注目を集めるだけ集めて、『これが注目を集めていますよ』と差し出されて、それを消費して終わり」
 この流れに違和感があるなら、自分がその流れにのらないようにするしかない。

「こうしたほうがいい」と思うことは自分がやる、「これはおかしい」と思うことがあるなら自分がやらない。
 
その行動の積み重ねでしか「こういう世の中であって欲しい」という思いは実現しない。(というより、それくらいしかできることはない)
 長文を読む訓練を兼ねて新聞を隅から隅まで読む、意見を言う時は必ず全文を読む、党派性で物を言わないなどの自分の内部に規定を作っているのはそういう発想からだ。

 もちろん自分一人だけでそんなことをやっても何かが変わるわけではないので、何の意味があるのかと言われれば特に意味はない(と思う)。
 ただ、そもそも自分の内部の「意味」は自分一人で支えるものだ。

 自分が今の世の中に持つ根本的な違和感は、たぶんそこだ。
「意味」は元々はごく個人的なものなのに、「他人にとって意味がなければ(共有できなければ)意味がないもの」→「意味を共有すること」が目的になってしまっている。
「自分にしか意味がないと思っていたものを、結果的に共有できたから」喜びがひとしおなのだ。

 そんなことを連休中に考えていたけれど、やはりその点については「そういう時代だから」「そういう社会になったから」と思って合わせる気にならない。
 ベルトコンベアの流れから意識的に距離を置いて、自分に合ったペースで歩きたい。
 そうすることでしか「自分にとっての意味」は取り戻せないような気がする。

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