佐伊津神社

佐伊津神社

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快適なご祈願・ご祈祷のために

佐伊津神社でのご祈願・ご祈祷1.快適性の向上(拝殿土足可能、エアコン配備、駐車場拡大) 令和2年度に神社の改修事業「令和の大造営」を行いました。 氏子崇敬者の多くのご支援ご協力により 立派な社殿と境内地が完成しました。 心より御礼申し上げます。 これまでご祈願などをする拝殿は畳敷きで 必ず靴の脱ぎ履きする必要がありましたが、 それを改善して靴を履いたまま土足であがれるようになり ご祈願などがしやすくなりました。 加えて、以前は駐車場の入口が非常に狭く出入りが非常に大変で

    • 第5章 佐伊津町の人口の移り変わりと年表

      第1節 佐伊津町の人口の移り変わり(天保2年(1832年)~) 第2節 佐伊津町の年表(元久2年(1205年)~)    この記事についてご質問や関連分野の調査依頼がありましたら、以下のメールアドレスへお問い合わせください。 saitsujinja@yahoo.co.jp

      • 第4章「阿蘇家文書」を読み解く

        第1節 阿蘇家文書とは 阿蘇家文書(あそけもんじょ)とは、304通のものからなる貴重な史料である。  阿蘇神社の旧大宮司家である阿蘇家に伝来したもので、現在は三十四巻に分装され、熊本大学附属図書館に保管されている。その内容は鎌倉、南北朝時代を中心に平安時代から江戸時代に至る三百四通からなっている。  阿蘇家は平安時代後期頃に在地領主化し、鎌倉時代から南北朝時代にかけてその勢いは最も強くなったが、以後次第に衰え、天正十五年(一六一〇)秀吉の九州平定時に神領は没収され、大宮司職

        • 第3章 天草独特の神社形態「十五社宮」のすべて

          要約 熊本県天草市に多く点在する十五柱(じゅうごはしら)・十五社宮(じゅうごしゃぐう)。  一般的には、神社にはメインの一体の神様がいらっしゃったり、三社託宣(さんじゃたくせん)の影響等で三体の神様がいらっしゃたりする。  しかし、この十五柱・十五社宮というのは、その神社に神様が十五体と多くの神様が鎮座する。  具体的には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と阿蘇神社の十二柱、そのほか二柱の合計十五柱の神社である。  これまで100年間近く、神社の神職や郷土史家などがその解明

          History of Amakusa city (1st - 2nd chapter)

          Hama-su, Su-nosaki and Myo-se I would like you to be interested in Saitsu village and Saitsu-jinja shrine (also known as Saitsu Jugoshagu Shrine). The origin of the name of the village has not been identified clearly, but they say that the

          History of Amakusa city (1st - 2nd chapter)

          【特別公開】佐伊津町阿弥陀寺(寺ノ尾)の古文書解読

          第1節 解読までの流れ① 天草アーカイブズにおいて目録検索。 『上田家古文書調査事業報告書』天草上田家文書目録/平成8年3月発行/天草町教育委員会 ↓ ② 上田家資料館で原本確認。 『柄本河内諏訪社神主玉木氏并才津阿弥陀寺由緒』 ↓ ③ 読みくだし、意訳。 第2節 天草アーカイブズにおいて目録検索 第3節 上田家資料館で原本確認 第4節 読みくだし(原文) 慶應四辰四月書上 柄本河内諏訪社神主玉木氏并才津阿弥陀寺由緒旧記写 01 肥後国天草郡佐伊津村阿弥陀寺由緒書之写

          【特別公開】佐伊津町阿弥陀寺(寺ノ尾)の古文書解読

          第2章 佐伊津十五社宮のこと

          第1節 家系調書と肥後國天草郡佐伊津村十五社神祠掌代々涯記からみた神官 家系調書(一二) 明治二年当村三百有全戸大火ノ節拙家全焼セシニ依リ起原等調査ニ関スル書籍悉ク焼失詳シキコト不明代数及姓名称号等ハ漸ヤク墓表過去帳ニヨリ解明申候 第一代山田内記藤原経基 〔本代ヨリ神官トナリ再后代々宅住地鎮座の神社ニ奉祀□在候〕 第二代 山田刑部藤原経義 第三代 山田和泉守藤原経信 第四代 山田丹後守藤原経俊 第五代 山田但馬守藤原経直 第六代 山田丹波守藤原経房 第七代 山田數馬藤原経清

          第2章 佐伊津十五社宮のこと

          第1章 サイツマチのこと

          第1節 サイツの地名の由来と沿革 熊本県天草市佐伊津町(さいつまち)の現在主要部分である平地は比較的新しい。昔は洲ノ崎(すのさき)・堀ノ内(ほりのうち)・浜洲(はます)の3か所に至る一帯は海中の砂丘であった。  それが年月を経るにつれて、洲ノ崎・堀ノ内・浜洲の3か所に洲を生じた。故にこれを三洲村(さんすむら)と称するようになり、それが後日、一体の陸地となり現在のような町を形成するようになった。  その後、三洲村がなまって鎌倉時代頃までに「才津(さいつ)」となったらしい。伊能忠

          第1章 サイツマチのこと