第2章 佐伊津十五社宮のこと

第1節 家系調書と肥後國天草郡佐伊津村十五社神祠掌代々涯記からみた神官

家系調書(一二)
明治二年当村三百有全戸大火ノ節拙家全焼セシニ依リ起原等調査ニ関スル書籍悉ク焼失詳シキコト不明代数及姓名称号等ハ漸ヤク墓表過去帳ニヨリ解明申候

第一代山田内記藤原経基
〔本代ヨリ神官トナリ再后代々宅住地鎮座の神社ニ奉祀□在候〕
第二代 山田刑部藤原経義
第三代 山田和泉守藤原経信
第四代 山田丹後守藤原経俊
第五代 山田但馬守藤原経直
第六代 山田丹波守藤原経房
第七代 山田數馬藤原経清
第八代 山田内膳藤原経継
第九代 山田静主膳経貞(経定)
第十代 山田保
〔本代ハ事故アリテ神官ノ職ヲ奉受ス前ニ第十一代山田彦次郎直ニ祖父タル九代ノ至続ヲ継系□在候〕
第十一代 山田彦次郎

右々通リ相違無之候也
天草郡佐伊津村二千四百二十七番地平民
石家至相続人第十一代
明治二十九年二月二十二日山田彦次郎
右証明候也
天草郡佐伊津村二千四百二十七番地平民
村社佐伊津神社四神官
山田経貞(印)
天草郡佐伊津村二千四百十二番地平民
村社佐伊津神社鎮座地亢累代居住
[訂正後:村社佐伊津神社旧神官無之証明出未兼候ニ付随等ヲ以テ比叚申添候也]
岡村祐七(印)
天草郡佐伊津村二千二百五十八番地平民
中村長四郎(印)
肥後國天草郡佐伊津村十五社神祠掌代々涯記〈裁許状冩は加筆〉(一二)
(第一代) 慶長十五戌年(一六一〇)正月二十七日ヨリ神職相勤創籍  山田内記藤原経基
(第二代) 寛永二丑年(一六二五)十二月二日ヨリ  山田刑部藤原経義
(第三代) 寛永十五寅年(一六三八)十一月十三日ヨリ  山田和泉守藤原経信
(第四代) 寛文二寅年(一六六二)八月三日ヨリ  山田丹後守藤原経俊
右四代之文書ハ當村大火■■■■候得□石碑之表ニヨリテ漸ク相和シ■也
(第五代) 元禄七戌年(一六九四)九月十三日ヨリ  山田但馬守藤原経直
裁許状冩
肥後國天草郡才津村十五社々祠官山田但馬守藤原経直恒例之神事忝勤之時可着風折烏帽子狩衣者神道裁許之状如件
正徳四午年(一七一四)三月二十六日
神祇管領長上従二位卜部朝臣(花押、図六)
(第六代) 享保十八年(一七三三)七月九日ヨリ  山田丹波守藤原経房

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裁許状冩
肥後國天草郡才津村十五社々祠官山田丹波守藤原経房着風折烏帽子狩衣任先例専神祇者
神道裁許状之状如件
寛延二年(一七四九)六月二十三(神官裁許状等冩には九と書かれている)日ヨリ右同様
神祇管領長上三位大蔵卿神祇権大副大卜部朝臣(花押、図七)
(第七代) 寛延三午年(一七五〇)五月七日ヨリ  山田數馬藤原経髙
(第八代) 寛政元酉年(一七八九)二月四日ヨリ  山田數馬藤原経清
裁許状紛失セシニ付不明
(第九代) 天保七甲年(一八三六)八月三十日ヨリ  山田内膳正藤原経継

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裁許状写
肥後國天草郡佐伊津村十五社神主山田内膳正藤原経継
右當社祭禮正月五日五月七日九月二十九日一日法会衣冠着用之事□被許如件
神祇管領長上家
天保八酉年(一八三七)三月 公文所
(第十代) 嘉永四年亥年(一八五一)六月□日ヨリ  山田主膳経定
假學證授典セリ
明治二十四卯年(一八九一)
山田彦次郎

 以上より、神官の名前に共通している「経」に注目してみることとした。
 菊池氏は土豪出身の肥後の戦国大名で、同国菊池郡(熊本県)発祥である。藤原北家で長らく関白道隆の子で太宰権帥藤原の子孫と言われていたが、現在は菊池氏の祖則隆は藤原隆家の郎党で、藤原姓を仮冒したものとされる。その出自は菊池郡郡司の末裔ともいわれる。(一三)
延久二年(一〇七一)以降は、中関白家系統の大夫将監藤原則隆が朝廷から菊池郡に関わり、領主として菊池の豪族と一体となり、領主となった。その後、菊池氏は肥後国内に多くの天満宮や八幡宮を建立し、菊池郡の全部が郡荘化して、阿蘇氏と肩を並べ、六代隆直の頃は一国の棟梁的な存在にまでのし上がった。これは中関白家の系統である則隆が、大納言経輔の意図を尊重し、もともと菊池郡を基盤としていた菊池一族を吸収して一体化したためである。そして、朝廷でも則隆を由緒正しき者として、菊池郡の領主に任じ、現地の菊池一族もこれを受け入れ、経輔を徳として、一族ことごとくその傘下に加わり、子孫は「経」の一字をもらって命名しているのである。したがって、菊池系図というのは、血族の間柄を示すものとは異なり、菊池家の事情を物語る歴史的系図である。(一四)
 具体的に菊池氏家系図で、示すと、図八の通りである。則隆以降「経」の字が続き、「経俊」と「経直」に至っては一致している。
そこで、菊池家十三代惣領菊池次郎武重の末裔、菊池肇氏に「経俊」・「経直」について伺うと、

 菊池家五代当主に、菊池七郎「経直」、そして経直の子が六代隆直と続き、その隆直の弟に赤星十郎「経俊」がいる。
年代的にかなりの開きがあるが、菊池家に何らかの思いがあって名付けた可能性は大いにある。
 菊池家では名前に、経や隆、直、武、重などを用いる傾向があるので、貴家では、当時、それを知っていいて経や直を用いたのではないかとも考えられる。また、資料(家系調書、肥後國天草郡佐伊津村十五社神祠掌代々涯記をご覧いただいた)には、藤原の姓があるので、菊池家も藤原氏との関係で藤原姓を用いていたので、菊池家との関連があるように思えてならないがー

 とあり、確かに『菊池市史 上巻』を用いて菊池家の「経直」を調べるも、存命期間が約五百年違い、菊池氏の「経直」とは別人ということが分かった。

 サイツムラの北にある五和町鬼池の社家宮崎家の神官について書かれている史料で同一人物かは分からないが、「経信」の名前を発見した。(一五)

 仮に同一人物だとすると、宝暦五年(一七五五)と書かれているため、佐伊津十五社宮に就任から十七年で兼任もしくは転任したのだろうか。
 本戸馬場八幡宮宮司(旧姓宮崎(社家)、五和町鬼池出身、昭和三八年生まれ)によると、丸に三つ柏の神紋が圭子氏の実家のものと同じ。
 佐伊津神社現14代宮司曰く、昔から社家宮崎家とは親交が深かったとも言っているため、三代「経信」が神官として兼任もしくは転任していた可能性が大きくなった。
 十五社神祠掌代々涯記にのみ七代「経髙」の名があるが、これは他の書物に載せ忘れたのかもしれない。神官裁許状等冩に限っては、「保」を後で書き足したような跡が見える。「記録」の家系調書に「事故アリテ神官ノ職ヲ奉受ス前ニ第十一代山田彦次郎直ニ祖父タル九代ノ至続ヲ継系□在候」とあるため、「山田保」氏は神官とはカウントされないのではないか。
 要するに、彦次郎が口伝での代数が一致しなかったため、泣く泣く書き足したのではないか。しかし、「経髙」の霊璽(山田家の霊璽に関しては参考資料集参照)がなかったため、慎重に調べていく必要がある。
 なお、法会(ほうえ)、公文所(くもんじょ)については今後研究していくべき点である。

第2節 吉田神道との関係

「記録」によると、
元限(ママ)二年辰四月十日 覺
正徳四年(一七一四)申午三月廿六日
寛延二月六日
免許状受不申候
天保八七(ママ)申年八月
免許状受申候
右之御座候以上
一代 山田備後藤原経直
初代 山田但馬藤原経直
二代但馬子 山田但馬藤原経房
三代丹波子 山田數馬(ママ)藤原経清
四代數馬子 山田内膳藤原経継
五代内膳子 山田静(ママ)藤原経定
明治五年壬申八月 佐伊津村祠掌 山田静
天草御□役所
右を□与五代前山田但馬与連□都吉家々を□□目
相續免許状頂戴仕候外家□由者□((細?))□候仕候為
 とあり、前述した裁許状冩と重ねてみても、神祇管領長上家としてのはじまりは、五代経直からであり、十代経定まで神道裁許状を受けていたということが判明した。
 四代経俊から五代経直の間に大火が起こっており、当時の由緒書や文献、各種証書が紛失し、改めて社格を維持・証明する為に神道裁許状の発行を依頼したと思われる。五代経直(一六九四年就任~一七六八年没※没年は参考資料集の山田家霊璽調査より)が吉田兼敬(一六五三~一七三二)より裁許状のを受け取ったのは正徳四年(一七一四)で年号に疑いはないはずだ。
ということは、五代経直の名義で発行したということは、十代のうちに宮司を襲名したということか。
 またここでも、七代経髙の名前がなかったため、存在自体が疑われる。
 なお『阿蘇神社』によると、「肥後藩は、藩主の細川家が吉田家と縁戚関係にあり」、「阿蘇神社が吉田家との仲介行為を行っていた。」(一六)(詳細は参考資料集 七二頁~)とあり、阿蘇神社からの観点からみると、より佐伊津十五社宮からの研究が進みそうである。

第3節 佐伊津十五社宮の沿革

『熊本県歴史の道調査―天草路道―』によると、
 言い伝えによれば、古くは隅田川の上流(山田家の所有地から推測するに、登記面積が四六九平方メートルの佐伊津町字登都路三五八六番地一か?)にあり、洪水で流され現在地に移されたと言う。

一の鳥居には、
安政三(一八五六)丙辰九月下浣(かかん)、
才津村庄屋、中村吉郎右衛門
 とあり、他に数名の名がある。(一〇)
 安政三年(一八五六)丙辰の九月下旬、才津村庄屋の中村吉郎右衛門によって本社に奉献されたのであろう。
 また、一の鳥居は当時のまま現存しているが、二の鳥居は平成十一年十月吉日に再建している。現存する一の鳥居には、山田経貞という名前が確認でき、当時の神官は九代経貞と分かる。
 しかし、洪水伝説による神社の移転(参考資料集参照)はよくあるようだ。神社として成立するには以下の五つの要素が必要なためよく考えるべきだ。
①御霊代(みひしろ)(日本の神祇)、②境内と設備(鎮座の土地と社殿)、③氏子崇敬者・神職(信仰する人)、④祭祀(祭りはその神社の生命)、⑤経営(神社の維持)
 もし、洪水に流される以前の場所が山であった場合(山を御神躰とするような)、神の社(神社)とはいえず、特殊な場としかみなされない。(一七)

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第4節 祭神 

天照大御神
神武天皇
神八井耳命
阿蘇十二社※
※阿蘇神社から勧請された神々
一宮健磐龍命
二宮比咩神(阿蘇津媛即チ一宮ノ妃)
三宮国龍神(単部吉見神即チ二宮ノ父神)
四宮日咩御子神(三宮ノ妃)
五宮彦御子神(一宮ノ孫神)
六宮若日咩神(五宮ノ妃)
七宮新彦神(三宮ノ房神)
八宮新日咩神(七宮ノ姫神)
九宮若彦神(八宮ノ房神)
十宮彌日咩神(七宮ノ妃)
十一宮国造神(速瓶玉命即チ一宮ノ御子)
十二宮金凝神(綏清天皇即チ一宮ノ御叔父神)
     佐伊津村祠掌
         山田彦次郎 (一二)

第5節 神像

一  神八井耳命中央后
二  一宮后 草部吉見之比咩 二宮比咩大明神
三  一宮御子 三宮國造大明神
四  五宮之后 四宮比咩御子大明神
五  五宮 彦御子大明神
六  三宮 御子七宮之后 六宮若比咩大明神
七  七宮 新彦大明神
八  (中央)天照皇大神宮
九  中央ノ后 神武天皇
一〇 神武子 神八井耳命第五御子 一宮 健磐龍命
一一 九宮 若彦大明神
一二 十一宮國龍大明神
一三 一宮外祖綏靖天皇 十二宮金凝大明神
一四 九宮后 八宮新比咩大明神
一五 十一宮后八宮妹 十宮弥比咩大明神

 天草市本戸馬場に鎮座する向陽山明徳寺の神像を造った方と同一人物(図8)である。

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第6節 由緒

(原文)
創立年月由来等記載スベキ事項ニ関スル史書旧記先年大火ノ際焼失セシニ依リ詳記スル能ハサルモ古老口碑傳説ニ依レハ創立年月不詳ニシテ爾来奉祀来リシニ天正年間(一五七三~一五九一)肥後国司加藤清正天草征討シ騒擾平定スルニ及ヒ国永安寧武運長久祈願トシテ自カラ在来ノ社殿ヲ改築シ祭祀ノ盛典ヲ計リ一般崇敬ノ諾ヲ啓ケリト

(意訳)
 創立年代や由来等が書かれた歴史書や古い記録は、先年(ここでの先年は、明治期以前をさすと思われる。根拠は後で述べる。)に起こった大火事の時に焼けて失くしてしまった。それらの詳細は分からず、昔のことを知っているお年寄り曰く、本社の創立年月は分からないが、昔から奉祀されてきた。天正年間(一五七三~一五九一)に、当時、肥後の国司であった加藤清正は、天草に兵を出して、背く者や逆らう者を討ち鎮めていた。集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱している彼らを落ち着かせるために、「国永安寧(肥後国が永遠に穏やかで安定しますように)」「武運長久(加藤清正自身の命運が長く続き、皆兵がいつまでも無事でありますように)」と祈願した。そこで、加藤清正自ら、それまであった(佐伊津十五社宮)社殿を改築し、盛大に祭祀を行えるように、一般崇敬者(御氏子崇敬者)への同意(改築、祭祀等の行為について賛成ないし是認の意思表示)を教え導いた。

第7節 神紋(家紋)


 佐伊津神社の神紋は、丸に三つ柏(図9)である。
 家紋や神紋は元来、奈良朝時代に公家の間で自分の持ち物などに目印として使用されていたもので、社寺仏閣でも神紋・寺紋が用いられた。
 また、当時の豪族や士族の間でも威厳を表す象徴として家紋が用いられた。(一八)古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。柏は神社や神家と切っても切れない縁があるようだ。柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。公家でも神道を司った卜部氏が用いた。(一九)

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第8節 佐伊津十五社宮の名称の変化

『天草寺院・宮社文化史料図解輯』によると、
万治二年(一六五九年)「天草風土考」:十五社
元禄四年(一六九一年)「天草郡明細帳」:十五社大明神
文政七年(一八二四年)「天草郡神社録」:十五社
                ※八幡宮・天満宮・恵美酒・湊江宮
文政七年(一八二四年)「天草嶋鏡」:十五社宮
天保四年(一八三三年):十五社宮
昭和三八年(一九六三年):佐伊津(十五社)神社

第9節 神社明細帳からみた佐伊津十五社宮

一 「記録」(一二)
明治十二年六月廿二日
第十六大區小二區才津邑
一、才津神社村社 祠掌 山田経定
祭神十五社 天照大御神 神武天皇 神八井耳命 及阿蘇十二社
神躰本像
祭日 十月十三日
社地 三百坪 東西十一間 南北二十七間三合 無税地
氏子 七百八十五戸 佐伊津邑

二 「記録」(一二)
村社 佐伊津神社 佐伊津村大塘
一 祭神 天照皇大神 神武天皇 神八井耳神 阿蘇十二社
一 由緒 勧請年月不詳(明治初年社宅□焼際旧記等全部焼失調査□□碑□□□□□□)
(誰れがうけて来たか分からないと薄く鉛筆書きされている)
一 建築□ 神殿 縦一間半横二間
     幣殿 縦三間横八尺
     拝殿 縦二間横三間
一 境内凡□(致か?)) 境内大小鬱蒼神苑□(極か?)□深遠
一 例祭日 十月二十五日
一 氏子 七百十戸
一 境内神社 一社
  祭神 海津見神 塩竃神社 由緒勧請年月不詳 建物石祠
  祭日 十月十一日
境外神社 無格社
佐伊津村字東通町鎮座
一 恵美須社 (漁協前にお祭りしてあると薄く鉛筆書きしてある)
佐伊津村字玉ノ橋
一 天神社
佐伊津村字後田
一 八幡社
佐伊津村宇土
一 祇園社
佐伊津村明瀬平
一 明神社

三 熊本県神社庁から入手した神社明細帳
社掌定員一名
明治廿九年二月廿日認可
熊本縣管下肥後國天草郡佐伊津村字大塘二千四百三十六番地村社佐伊津神社
一 祭神:上記と同様のため省略
一 由緒:勧請年月不詳従来村社タリ
一 社殿:間數神殿:縦一間三尺横二間
拝殿:縦二間横三間
一 境内坪數:四百四十三坪
一 例祭日:九月十五日
一 境内神社:壱社
塩竃大明神祭神:海津見神
由緒:勧請年月不詳従来本社ノ末社タリ
建造物:石祠一尺方
例祭日:十月十一日
一 氏子:八百十二戸
一 管轄廰迄ノ距離:二十六里二十六丁
宮司:山田経貞
氏子総代名:(銀主)岡村市郎平
氏子総代名:(銀主)岡村信吉
戸長(代理書記):(小庄屋)中村長四郎

 記入者は書かれていなかったが、十一代彦次郎と思われる。境内坪數の坪数の下に殴り書きの文字あるが、読み取れなかった。

四 「記録」(一二)
熊本縣肥後天草郡佐伊津村字大塘
村社 佐伊津神社
一 祭神:天照皇大神・神武天皇・神八井耳命・阿蘇十二社
一 由緒:口碑□((外?))不詳
一 神殿:竪一間半横二間
一 拝殿:竪二間横三間
一 境内:四百坪
一 例祭日:旧九月十五日
一 境内神社:一社
一(ママ) 塩竃神社
一 祭神:海津見神
一 由緒:口碑□((外?))不詳
  石祠:竪一尺横一尺
  例祭日:十月十一日
  氏子:八百十二戸
管轄廰迄何拾里 二十六里二十六甼
以上 官有地第一種
肥後國天草郡佐伊津村字東通甼(ちょう)
一 蛭子社 村社 無格社
建物:一間一間
敷地:十五坪
戸數:十間
末社 民有地第二種
肥後國天草郡佐伊津村字東通甼
一 蛭子社
建物:一間一間
敷地:十五坪
字玉ノ橋
一 蛭子社
建物:一間一間
敷地:十五坪
字玉ノ橋
一 天神社
建物:一間半一間半
敷地:六坪二合
字明瀬平
一 明神社
建物:半間半間
敷地:三坪
字後田
一 八幡神
建物:一間半二間
敷地:九坪
字宇土
一 祇園社
建物:一間半一間半
敷地:三間四間
明治十二年御□((厘?))

 口伝では伝わりきれなかった兼務社や規模などを知ることができた。
 また一九八一年十月発行の熊本県神社誌において、熊本県の戦後調査を行ったとされる上米良利晴によると、「天草に海神信仰はない」と言っている。
 しかし、二の資料で境内神社の御祭神が「海津見神」であるため、海神信仰がないとは断定できないし、海に囲まれた島と言っても過言ではない天草に海神信仰がないというのは、違和感がある。

第10節 佐伊津神社の社殿建築様式

 「社殿連結型(拝殿・幣殿・本殿一体型)」と「回廊」があることから「八幡造(→権現造)」である。
 明治期に書かれた社殿構造の史料と現存しているものを見ると、拝殿と本殿が一体化して間に幣殿がある。これは、権現造または八幡造の表れである。権現造の特徴としては、拝殿と本殿の間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けている。この三つが平面の大きさも高さも異なるため屋根は複雑化する。屋根の棟数が多いというので八棟造と呼ばれる。入母屋造・平入の三棟を、入母屋造・妻入の縦の棟で串刺し状に一体化している。権現造は石の間造とも呼ばれ、その石の間とは本殿と拝殿をつなぐ一段低い部屋で、実際に床が石敷になっている訳ではない。二つの社殿を結ぶ石の廊下が発達した形式ゆえにこの名が付いた。床は、北野天満宮のように古式では石の間は石敷であるが、板敷が多い。日光東照宮は畳敷である。この形式の社殿は、北野神社では平安時代にすでに成立していた。屋根は、萱葺に限らず瓦葺など幅広い。正面の破風は、千鳥破風・軒唐破風である。柱は、左右対称で、左右方向には偶数本の柱が配される。拝殿が最も幅が広く、石の間と本殿はどちらかが広い。
 八幡造の特徴としては、切妻造、平入の二つの建物前殿・後殿を前後に連結させ、中間に一間の相の間が付く。前殿を外殿・礼殿・細殿・出殿・出居殿といい、後殿を内殿とも呼ぶ。前殿に椅子、後殿に帳台が置かれ、ともに神座である。昼は前殿、夜は奥殿に神が移動するとされる。屋根は、前殿と後殿の軒の接する谷間に金属製の樋を渡して雨水を受ける構造になっている。側面切妻の破風は、懸魚で修飾される。柱は、左右対称で、左右方向には偶数本の柱が配される。壁は、正面中央の一か所に観音開き御扉が、相の間の両側面にも扉が設けられている。 外側には回縁が廻らされる。床は、相の間の床だけ低いのが古式である。(一七)
 
 このように権現造も、八幡造の派生といえるためどちらかを特定するのは難しい。
 しかし、現存するものを見ると回廊が拝殿と本殿の間で途切れている点や屋根が瓦葺で雨水を受けるような構造となっていない点、拝殿と本殿は畳敷であるが幣殿は板敷である点、初代の神官の年代から権現造であると推測できる。
 とはいっても、明治二年に全焼するまでの事態があったこと、幣殿の両側面に扉がないことから慎重に調べていく必要がありそうだ。
 元々、八幡造であった場合は、意外と簡単に証明ができそうだ。それは前述した通り、菊池氏が八幡宮の神社を建立させていたという記事を見つけたからだ。
 なお、天草は八幡宮とは言っていないものの拝殿と本殿が一体化した神社が多い。これについて後で述べることにする。

第11節 天草の十五社宮について

『天草寺院・宮社文化史料図解輯』によると、
 天草には、十五柱神社といって、十五柱の御祭神を祀る神社が全天草神社の三分の一に近い八十五社もある。河浦町には法人甲乙二十七社中、十五柱神社が十六社もあり、町内神社の三分の二近くに達する。
十五社の御祭神は大まかに言って六種類に分けられる。
(A型)は最も多く、天照大神・阿蘇十二神・春日大神・八幡大神を祀り三十七社。
(B型)は十五社とあって、祭神区分のないもので二十一社。
(C型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・神八井耳命を祀り十二社。
(D型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・綏靖天皇を祀る六社。
(E型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・八幡大神を祀る五社。
(F型)は十五社に他の祭神二~三を加えたもので、実際には十五柱以上の祭神を有しながら十五社と名乗るもの。
 これでみると、どの十五柱も天照大神と阿蘇十二神の計十三柱を祀り、それに他の二社系を加えたものとなるようである。
 このような祭神多数を天草地域のみに祀ることについては、さらに研究の必要があるだろう。

 なお、佐伊津神社はこの分類だと(C型)に当てはまる。
ここで(C型)について詳しく見ていく、
本渡市:村社二社(佐伊津神社、廣瀬神社)
牛深市:〇社
大矢野町:〇社
松島町:〇社
有明町:〇社
姫戸市:村社三社(永目神社、牟田神社、姫裏神社)
龍ヶ岳町:〇社
御所浦町:村社四社(崎浦神社、牧島神社、元浦神社、大浦神社)
倉岳町:村社一社(宮田神社)
栖本町:〇社
新和町:〇社
五和町:村社一社(御領神社)
苓北町:〇社
天草町:〇社
河浦町:無格社一社(十五柱神社)
以上、十二社。(二〇)
 このように(C型)は十二社あるのだが、創建年代と由緒が残っている神社は少なく、御所浦町の神社(参考資料集参照)だけであった。
さらに私は、十五社宮の種類別に見た分布図を作成してみた。すると、調査していく中で類似した地図を発見した。それが天草五人衆の支配領域図である。これは現段階で調査段階であるため紹介だけにとどめておく。

第12節 現存する十五社宮の云われ

『歴史と民俗 神奈川大学日本常民文化研究所論集二』所収「天草の十五社信仰」によると、

 天正の天草合戦誌によると、天草独自の十五社宮は、海に生きた原住民、すなわち古代天草の海人族が信仰を寄せた還シナ海文化圏につながる龍(神)宮が「ジュクサさま」「ジュウゴさま」と転訛していたものに「十五社」の漢字をあて、いつしか天照大御神や阿蘇十二神をふくむ大和朝廷文化圏の神々十五社をあてて併祀したものらしい。この十五社は、戦国時代まで天草郡に属していた薩摩の獅子島、長島、それに江戸時代まで天草と海上交易が盛んだった肥後の高橋や松合にもある。これは菊池氏が天草を収める時、天草の各地に十五社宮を建立したものと思われる。またこの十五社宮については諸説あるようだ。十五社と称する神社が多く見られるのは、代官鈴木重成公の政策によるとの説。戦国時代に肥後を領地とした武将に加藤清正(一向宗)が、天草を小西行長(キリシタン)と攻め、社寺の復興・支援をして、十五社宮を広めたという説。(二一)

 なぜ共通して阿蘇十二神を祀っているのか。なぜ「十五」なのか。
 それらのことについて、神道学的観点から次の章で解説していくこととする。

「第3章 天草の十五社宮」へつづく…

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【注釈】
(一)『佐伊津小学校創立百周年記念誌 かなうま』佐伊津小学校創立百周年記念事業期成会発行、昭和五一年(一九七六)七月三十一日発行参照
(二)『日本国地理測量之図』(「https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000310」)伊能忠敬(一七四五~一八一八)の測量結果をもとに作成された地図参照。小図(縮尺四三万二千)を元に作成された「日本全図」。経緯を示す線が引かれ、地図の周囲に、里程・緯度・方位等の一覧表が記載されている。また海岸線の周りに、都市や湊の位置等を記載した付箋が貼られている。文政七年(一八二四)以降の作成と言われている。原図サイズ:東西四四四cm×南北四六七cm
(三)日本歴史地名大系第四四巻『熊本県の地名』八九一頁、下中弘、株式会社平凡社、一九八八年一月八日初版第二刷参照
(四)『図説 天草の歴史』五六頁中段、鶴田文史監修、神津良子発行、株式会社郷土出版社、二〇〇七年十二月二十二日参照
(五)『改訂版 天草の歴史』三八頁図、堀田善久執筆、天草教育委員会編集・発行、平成二十年(二〇〇八)三月発行参照
(六)『天草近代年譜』九~十一頁、松田唯雄著、昭和四十八年(一九七三)九月参照
(七)『唐津市史 復刻版』唐津市、平成三年(一九九一)三月一日発行参照
(八)『天草の海上交通史』二〇頁、濱名志松発行、イナガキ印刷、平成九年(一九九七)一月二十五日発行参照
(九)『史跡棚底城跡 保存管理計画書』二十三頁、天草市教育委員会編集・発行、株式会社 九州文化財研究所レイアウト・印刷、平成二十四年(二〇一二)三月参照
(一〇)熊本県文化財調査報告第六六集『熊本県歴史の道調査―天草路道―』熊本県文化財保護協会発行、新写植出版(株)熊本支店印刷、昭和五九年(一九八四)三月三十一日参照
(一一)『日本人の死生観と葬墓史 五来重作集 第三巻』五来重著、株式会社法藏館、平成二十年(二〇〇八年二月二十五日初版第一版発行)参照
(一二)「記録」佐伊津神社々務所所蔵、自明治二十二年(一八八九)至明治四十一年(一九〇八)参照
(一三)『戦国大名家辞典』森岡浩、東京堂出版、平成二十五年(二〇一三年)十二月二十日初版参照
(一四)『熊本史学第六十六・六十七合併号』所収「8 菊池系図の実態について」熊本史学会、花岡興輝、平成二年(一九九〇)六月二日参照
(一五)『五和町史』五九五頁、五和町史編纂委員会、二〇〇二年十二月参照
(一六)『阿蘇神社』阿蘇惟之編、株式会社学生社発行、平成十九年(二〇〇七)一月十五日初版発行参照
(一七)『神社建築』山内泰明著、神社新報社、昭和六三年(一九六七)九月三十日七版発行参照
(一八)『天草 本邑のあゆみ【CD-R】』鶴田功著、平成二十三年(二〇一一)九月参照
(一九)「家紋の由来」丸に三つ柏部分(http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kasiwa.html )参照
(二〇)「武家家伝 菊池氏」(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kikuti_k.html )参照
(二一)『歴史と民俗 神奈川大学日本常民文化研究所論集二』所収「天草の十五社信仰」二二〇頁から二二三頁、北野典夫、株式会社平凡社、一九八七年六月二日第一刷発行参照
(二二)『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞、中央公論社、昭和五十二年(一九七七)七月五日八版参照
(二三)『九州キリシタン新風土記』浜名志松著、葦書房、平成元年(一九八九)年六月、六六頁、A-1キリシタン墓碑参照
(二四)『島原の乱とキリシタン』一五一頁、五野井隆史、吉川弘文館、平成二十六年(二〇一四)九月一日第一刷参照
(二五)『西海のキリシタン文化綜覧』所収「天草コレジヨの教授名簿(付志岐美術学校ほか)」鶴田文史編著、天草文化出版社、昭和五八年(一九八三)八月参照
(二六)『熊本史学第六十二・六十三合併号』所収「2 肥後阿蘇社の支配と権能」熊本史学会、昭和六十年(一九八五)十一月参照
(二七)『天草寺院・宮社文化史料図解輯』天草史談会著、西海文化研究所出版、平成十六年(二〇〇四)三月、「天草郡中寺社間数帳」(旧山方番役高田家文書)平成一六年発行参照


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