【特別公開】佐伊津町阿弥陀寺(寺ノ尾)の古文書解読

第1節 解読までの流れ

① 天草アーカイブズにおいて目録検索。
『上田家古文書調査事業報告書』天草上田家文書目録/平成8年3月発行/天草町教育委員会

② 上田家資料館で原本確認。
『柄本河内諏訪社神主玉木氏并才津阿弥陀寺由緒

③ 読みくだし、意訳。

第2節 天草アーカイブズにおいて目録検索

上田家古文書調査事業報告書_天草上田家文書目録_平成8年3月発行_天草町教育委員会 (4)

上田家古文書調査事業報告書_天草上田家文書目録_平成8年3月発行_天草町教育委員会 (1) - コピー


第3節 上田家資料館で原本確認

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (0)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (1)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (2)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (3)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (4)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (5)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (6)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月 (7)

栖本河内諏訪神主玉木氏並佐伊津村阿弥陀寺由緒旧記写_慶応4年辰4月(8)

第4節 読みくだし

(原文)
慶應四辰四月書上 柄本河内諏訪社神主玉木氏并才津阿弥陀寺由緒旧記写

01 肥後国天草郡佐伊津村阿弥陀寺由緒書之写
御宝御所御直末寺肥後国天草郡佐伊津村 古儀真言宗大乾山満珠院阿弥陀寺
昔者長福寺与申候正保二酉依御上意寺 領被仰付御代官鈴木三郎九郎殿御取立被成候之節寺号阿弥陀寺与御改被成天下安全 五穀成就御祈祷相勤可申旨被仰付候本尊 中品中生弥陀如来者恵心僧都之彫刻 ニ而御座候天草郡切支丹蜂揆之節郡
02 中寺社不多破却仕候得共長福寺本尊霊 験多御座候旱魃之節者広瀬村於無心渕 本尊ニ灑水候得者忽雨降候故切支丹之賊徒茂恐本尊之威霊破壊不仕候先年 御寺領田茂余程御座候由於爾今寺田与 申佐伊津村内ニ御座候従往古代々御仕官 何も御帰依被成服部六左衛門殿御代官之節ハ 阿弥陀本領纔ニ而相続相叶間敷与被仰 米拾八石宛毎年被下置候其上金子共三両 御寄進被成候而祠堂之田畑相調候様被 仰付候其上御寄附金銅不動尊壱体
03 弘法大師御作十二天繪像弁財天繪何も 弘法大師御筆ニ御座候妙見菩薩木像
右御寄進被成候正五九月御祈祷御役所 ニ而護摩供執行被仰付候
一天草郡寺社御建立之節長福寺今之阿弥陀寺住僧龍盛法師前簾ゟ住居   候得共寺之由緒書付差上候義延引仕寺領大方相極候上ニ而難被成寺領纔被仰付候寺之由来書上候得者三郎九郎殿被仰付候ハヽケ様之故蹟ニ候ハヽ寺領之内ニ而も高取ニ
04 可被仰付処御残念思召候由其後被達上聞御奉行被附置本尊修復被仰付候砌 仏胎中ニ弘法大師御筆紺紙金泥法華経一部有之候ニ付鈴木三郎九郎殿為後鑑記文壱通被下置候
一阿弥陀寺像従先年正月四日御陣屋江修正御祈祷御礼献上仕独礼申上候     明和五戊子年四月日
05 御宝御所より当郡御役所参諸状之写 一翰致啓達候然者当御所御直末其表才 津村阿弥陀寺義於其郡中他宗門之寺院 与照合罷在候趣然ル処阿弥陀寺ニ不拘当 御所御末下之諸寺院他宗門之寺院と結 衣式者組合候義者御寺令御差支之廉も御座候故今度阿弥陀寺他宗門寺院と 組合候義被差止度候就而ハ猶其御役場宗旨 人別御改等之義者同寺一印ニ而直々為差出度候 依之向後住職交代之節者従当聴
06 御本寺証文共御役場へ可差出置候仍今般も 別紙御本寺証文被差出候将又右寺住寺 死去之節葬式引導之義者最寄御同 末肥前国島原温泉山一乗院ゟ為相勤申候 右等之趣被御承知置阿弥陀寺より委細 出願およひ候節ハ乍御厄害宜敷御通し御座候様致御頼候此段可得其意旨ニ付 恐々謹言           十二月廿七日     矢守左近 判
07                   吉田□伝之介 判                     山崎近□之介 判                    久留橋磨介  判         当国      御陣屋        御役人中         肥後国天草郡才津村阿弥陀寺寛秀 御本寺証文写 
          右  当御所御直末真言宗ニ紛無御座候如件
08                     芝築地中将印                        池田岩之丞殿    
覚 一 御支配御交代之節ハ拙寺ゟ其趣本山御宝御所へ申上候ハヽ先年仕来之通御宝御所御直末之義ニ付年頭并御祝義之節ハ諸宗前ニ独礼ニ相勤申候様本山御宝御所ゟ当郡御役所へ御頼之御奉書参候由


第5節 意訳

(意訳)
慶応四年(辰の年)の四月に書き上げたものである。
栖本河内諏訪社の神主である玉木氏と佐伊津の阿弥陀寺由緒や古い書類の書き写しである。

肥後国天草郡佐伊津村の
阿弥陀寺の由緒書きの写し

御宝や御所はすぐ末寺の肥後国天草郡佐伊津村にあります。
真言宗の大乾山満珠院の阿弥陀寺とあります。
その昔は長福寺と言われ、正保二年(酉の年)に仰せ付けられてご創建されました。
鈴木三郎九郎殿によって再建がなされる時、寺号を改めることとなり、天下安全、五穀成就、御祈祷は熱心に勤めるべきだという旨を申し付けました。本尊は、中品中生の阿弥陀如来は、恵心僧都が彫刻したものでございます。
天草郡キリシタンの蜂起の時は、郡中の寺社が壊されてしまいましたが、長福寺の本尊は、霊験あらたかでありまして、旱魃の際、広瀬村において本尊に雨乞いをしたら、たちまち雨が降ってまいりました。すると、キリシタンの賊徒も恐れて本尊の偶像を破壊しなかったのです。以前は、お寺所有の田んぼは少しあったそうで、それ以来、お寺所有の田んぼは佐伊津村内を占めるようになりました。昔より代々、御仕官はいずれもご信仰をいただかれるようになりました。服部六左衛門殿が御代官の頃は、阿弥陀寺の本領を少しも相続させないようにおっしゃり、毎年、米を十八石もらえることとなりました。その上、金子も共に、三両を御寄進なさるようになり、祠堂(檀家の位牌を納めておく堂)の田畑も本来あるべききちんとした状態にするようにとおっしゃりました。その上、ご奉納された金銅の不動尊一体や弘法大師が作られた十二天像の絵、弁財天の絵は、いずれも弘法大師が描かれたものです。妙見菩薩の木像は―
右は、御寄進されたものです。正月、五月、九月に御祈祷を御役所にて、護摩供養が行われます。

一つ 天草郡寺社ご建立の際、長福寺は、今の阿弥陀寺住職である龍盛法師の以前の住居であったが、寺の由緒に書いて差し上げましたことは引き伸ばされ、寺の領土はほぼ決められましたが、寺の領土とすることは難しく、わずかな領土をいただきました。
寺の由来の書き上げたものですので、三郎九郎殿がおっしゃることでありまして、ケ様の実績になりますなら、寺領内においても高額の知行を取る者に言われている場所も領土とできず残念に思いますので、その後君主の耳に入り、御奉行のご判断で、本尊の修復を受けられますこととなり、仏胎の中に弘法大師が書かれた紺紙金泥の法華経の一部があります。鈴木三郎九郎殿は、後鑑の文章を一通書かれました。
一つ 阿弥陀寺の像は、先年より正月四日は御陣屋へ間違ったことを正しに、御祈祷の御礼を献上されて、特別扱いをされました。
  明和五(戌子)年四月 日

御宝御所より当郡御役所にたくさんの書物の写しが届く
一通の手紙が伝えますことには、その所の末寺は、佐伊津村の阿弥陀寺のことであり、郡中の他の宗派の寺院より証明されるのでございます。阿弥陀寺に関わらず御所末社の諸寺院や他の宗派の寺院と結束して組合を作ることは、御寺の都合の悪い理由でもございました。ですから、今度、阿弥陀寺や他の宗派の寺院との組合を差し止めたく思っていることについては―なお役場の宗旨人別御改等のことは、同寺の一印で直々に差し出したいのであります。これによって、今後は住職交代の際は、そのことを伝え、御本寺の証文とともに御役場へ差し出すべきなのであります。よって、今回も別紙で御本寺の証文を差し出しました。また右の寺の住職が亡くなった際、引導(死者を葬る前に法語などを説き、浄土へ導く行為)は、最寄りの末寺である肥前国島原温泉山一乗院より見えて、ご奉仕していただきます。これらの趣旨はご承知の上、阿弥陀寺より詳しいことを願い出る際、及び―の際は、厄難しながらよろしくお通しくださいますようお頼みいたします。この文章は、その意図や趣旨をもって、恐れながらも謹んで申し上げます。

  十二月二十七日               矢守左近 判
07                      吉田□伝之介 判
                       山崎近□之介 判
                      久留橋磨介  判
    当国      御陣屋
       御役人中
        肥後国天草郡才津村
              阿弥陀寺寛秀
御本寺証文写
右は、末寺の真言宗に紛ぎれもなくそうでございます。
08             
芝築地中将印
       池田岩之丞殿
   覚
一 支配される方が交代される際は、お寺よりご本山のへ申し上げるならば、
以前よりいらっしゃる通御宝御所である末寺のことで
御直末之義ニ付年頭并御祝義之節ハ諸宗
前ニ独礼ニ相勤申候様本山御宝御所ゟ
当郡御役所へ御頼之御奉書参候由


第6節 鈴木重成公による再建

 ここまでご覧いただいてショッキングではあるが、今回の一次史料(写し)についての信ぴょう性は定かではない。
 また現在、阿弥陀寺と呼ばれている寺院が、以前は「長福寺」であったが、天草の代官であった鈴木重成公によって寺号を改めたということが今回の調査で初めて分かった。各調査書や自治体資料にも全く載っていなかったからだ。
 さらに、キリシタン関連の文章が出ていたことについても驚きであった。
 
今回扱った史料は以下のとおり書かれていた。<>は加筆。

<文明4(1473)年   長福寺創建(開祖隋了順公)>
 正保2(1645)年   阿弥陀寺として再建※
 明和5(1768)年4月 文書作成
 慶応4(1868)年   写し作成

※天草の代官であった鈴木重成公は、寛永年間(正保年間の前)に神社や寺の再建に貢献していることから実証できそうだ。

『天草寺院・宮社 文化史料図解輯』 天草史談会 鶴田文史編には、明治後期編『芳證寺日供』から引用として、次のように記している、

御代官鈴木三郎九郎重成公ナリ寛永年間邪蘇鬼利子丹変乱ノ為神社仏閣悉く破壊セシ后ヲ右重成公御下向ナリ秩序回復セラレ仏法再興ノ為益峰禅師ヲ長崎皓台寺ヨリ拝請セラレ重成公居城ヲ同師へ寄付セラレ一ニハ両親ノ菩提ヲ吊ヒ玉フ故に当山ノ寺号ハ右両親ノ戒名ノ字ヲ取テ命名セラル是レ本郡寺院建立ノ最初ニテ尓来禅浄土宗ノ寺院を郡内処ニ建立セラル其開基タリ

(注)皓台寺の禅師とは、中華珪法。中華珪法は、芳證寺の他、明徳寺、正覚寺、観音寺、東向寺、明栄寺、金性寺の開山者である。


第7節 民話から探る具体的な雨乞いの方法について

[出典を忘れてしまいましたが]数珠を数えて紙の中に入れてそれを振るという行為だったと思います…


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