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第3章 天草独特の神社形態「十五社宮」のすべて

要約

 熊本県天草市に多く点在する十五柱(じゅうごはしら)・十五社宮(じゅうごしゃぐう)。
 一般的には、神社にはメインの一体の神様がいらっしゃったり、三社託宣(さんじゃたくせん)の影響等で三体の神様がいらっしゃたりする。
 しかし、この十五柱・十五社宮というのは、その神社に神様が十五体と多くの神様が鎮座する。
 具体的には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と阿蘇神社の十二柱、そのほか二柱の合計十五柱の神社である。
 これまで100年間近く、神社の神職や郷土史家などがその解明のため研究を進めてきた。ただ一つの十五社宮の見解により、それ以上の研究は盛んに行われなくなる。その見解は十五社宮の云われと呼ばれ、具体的な証拠のないまま現代まで引き継がれてきた。いわば「十五社宮」は謎の多い神社であった。そこでわたしは、神道学・民俗学の見地から研究をし、十五社宮の成立の経過から関わった人々までを調べ上げることができた。この研究に際して、近世阿蘇家文書や天草町大江 大江八幡宮の木下家の古文書を扱うなど第一次史料を基にして結論を出している。

※「柱」とは、神様を数える際の序数詞である。

はじめに

 熊本県天草市には、十五柱(じゅうごはしら)の神を祀り(まつり)、十五社宮(じゅうごしゃぐう)と呼称する神社が多数ある。それ以外にも十五柱の十五社宮ではあるが、その土地の地名をつけて「〇〇神社」といっているところもある。
 例えば、佐伊津十五社宮(佐伊津神社)である。古来より、十五柱の神がご鎮座される。天照大神、神武天皇、神八井耳命、阿蘇十二柱をお祀りしている。
 先行研究で十五社宮を調べた方がいて、そこで用いられた分類法によると、当社のご祭神の種別はC型である。詳しくは、本論で紹介するが十五柱の神の中に必ず天照大神と阿蘇十二柱の神が存在している。
 なかなか他県では、見られない合祀(ごうし)の仕方であり、かつ、天草に(宇土半島も)十五社宮が特別に多いことに疑問を抱き、調査に臨むこととした。

※「合祀(ごうし)」とは、神様をその神社に集めることである。

第1章 十五社宮の規模と分類

『天草県内神社誌』に次のように記される 。
 
 十五柱の御祭神を祀る神社が全天草神社の三分の一に近い八十五社もある。河浦町には法人甲乙二十七社中、十五柱神社が十六社もあり、町内神社の三分の二近くに達する。
 十五社の御祭神は大まかに言って六種類に分けられる。
 (A型)は最も多く、天照大神・阿蘇十二神・春日大神・八幡大神を祀り三十七社。
 (B型)は十五社とあって、祭神区分のないもので二十一社。
 (C型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・神八井耳命を祀り十二社。
 (D型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・綏靖天皇を祀る六社。
 (E型)は天照大神・阿蘇十二神・神武天皇・八幡大神を祀る五社。
(F型)は十五社に他の祭神二~三を加えたもので、実際には十五柱以上の祭神を有しながら十五社と名乗るもの。
 これでみると、どの十五柱も天照大神と阿蘇十二神の計十三柱を祀り、それに他の二社系を加えたものとなるようである。

第2章 十五社宮の云われ

『歴史と民俗 神奈川大学日本常民文化研究所論集二』所収「天草の十五社信仰」に次のように記される 。

 天正の天草合戦誌によると、天草独自の十五社宮は、海に生きた原住民、すなわち古代天草の海人族が信仰を寄せた還シナ海文化圏につながる龍(神)宮が「ジュクサさま」「ジュウゴさま」と転訛していたものに「十五社」の漢字をあて、いつしか天照大御神や阿蘇十二神をふくむ大和朝廷文化圏の神々十五社をあてて併祀したものらしい。
 この十五社は、戦国時代まで天草郡に属していた薩摩の獅子島、長島、それに江戸時代まで天草と海上交易が盛んだった肥後の高橋や松合にもある。

 第一章と第二章は、現存する先行研究であり、天草の十五社宮を解明するための唯一の通説として扱われている。
 フィールドワークを行う中で、棚底の十五社宮を調査に行った際、未だに「ジュクサさま」という呼称を使い、熱心に神様をお祀りしている。
 要するに、「ジュクサさま」は地域の氏子に浸透した大切な呼び名であり、神様の存在、言い換えれば十五柱であることを分かりやすく後世に伝えるための手段であるように思われる。

第3章 十五社宮の分布

 さて、天草の十五社宮を俯瞰すべく、『天草県内神社誌』を参照し、それぞれのご鎮座地とご祭神の種類を入力し、Google Mapを用いて、地図上に示してみた(図一)。
 一部、Google Mapがご鎮座地を認識できない場所があり、その場所は省略しているがある程度は把握できるだろう。
 全体的に見ると、臨海集落に多数存在するが、それ以外の内陸地域にも十五社宮がある。
 内陸部に存在する場合、果たして「ジュクサさま」などといった竜宮信仰の考え方が通用するのか。非常に具合の悪い様であろう。
 そこで持論であるが、竜宮信仰ではなく、もともとは肥後一の宮、阿蘇神社の主祭神である「健磐龍命(たけいわたつのみこと)」の龍から竜宮信仰にいつしか転換していったのではないかと思われる。
 阿蘇神社の楼門に竜頭の剣というものがあり、それも健磐龍命をモチーフにして作られたと云われている。
 また、阿蘇神社十二柱の神が発生するよりも前に、健磐龍命が鎮座していることが明らかであるため、天草の竜宮信仰の言い伝えが古くから伝わっていることの信憑性が増す。

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第4章 天草の山々

 第三章で述べた通り、竜宮信仰で天草の十五社宮をまとめ上げるのは、少し強引であると感じたため発想を変えてみる。
 天草には多くの山々が存在する。 いくつか地域別に山の名称と標高をあげていくと、大矢野町の柴尾山(二二五.九メートル)、松島町の千元の森岳(二二三メートル)、次郎丸岳(三九七メートル)、太郎丸岳(二八一メートル)、姫戸町の白嶽・鋸嶽・中嶽(―)、念珠岳(五〇二.八メートル)、蕗岳(三二〇メートル)、龍ヶ岳町の龍ヶ岳(四七〇メートル)、倉岳町の倉岳(六八二メートル)、矢筈岳(六二六メートル)、有明町の老岳(五九〇.五メートル)、本渡市の十万山(二三九メートル)、角山(五二六メートル)、行人岳(四〇九メートル)、矢筈岳(四七六メートル)、五和町の天神山(一七二メートル)、天草町の荒尾岳(三四二メートル)、河浦町の行人岳四八三メートル)、頭岳と小頭岳(四六五.七メートル)、古江岳(三四二メートル)、牛深市の権現山(四〇三メートル)、石神山(三三四.一メートル)、高取山(三四一.三メートル)、遠見岳(二二四メートル)、鶴葉山(三二メートル)、六郎次山(四〇五メートル)、遠見山(二一七.二メートル)、御所浦町の烏ヶ峠(四四二メートル)がある。
 また宇城市三角町には、三角岳(四〇六メートル)、宇土市には、雁回山三一四.四メートル)がある 。
 以上のように、天草は山岳地帯であるということも言える。さらに、(図二)を見ると、(図一)と似通っているようにも思われる。

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第5章 阿蘇神社の十二柱の成立

 阿蘇神社が十二柱の発生については、諸説あるようだ。
 例えば、一年が十二ヶ月であるから十二柱である。といった考え方である。これはまさに民俗学的な発想であり興味深い。
 ただし、神道学を学んできた私にとってはなんとも歯がゆい表現であると感じていた。そこで調査を続けた。
 阿蘇神社文化財担当曰く、十二柱になったのは、十二世紀で阿蘇神社には、十二人の祝(ほうり)がいたようで、彼らに合わせて神様を合祀したとのことだった。
 それではなぜ十二柱という数にしたかである。
 一番の原因は、農民たちの貧困だと思われる。またそれに加えて、信仰心が薄れてきてしまったのではないか。それを阿蘇神社側が懸念して、ご祭神を増やすことによって、多くの神様からご加護をいただけるという発想を芽生えさせ、氏子を含めた阿蘇地域をまとめ、神社自体の経営を良い方向へ促すための苦肉の策ではなかったかと予想する。
 そのいわば神社復興の立役者のようになった人物は、主に二人だと推察される。それが加藤清正(かとうきよまさ)と阿蘇惟善(あそこれよし)である。

※「祝(ほうり)とは、神道において神に奉仕する人の総称のことで、宮司や禰宜(ねぎ)以下の次位にあって神に仕える者」

第6章 阿蘇惟善(あそこれよし)

 阿蘇惟善(本名・又次郎)についてみていく。惟善は父が阿蘇惟種であり、生没年が天正十一年(一五八三)~承応三年(一六五四)、第七十九代阿蘇神社大宮司を務めた。
 惟善は、苦労を知り、反骨精神の強い人物だと評価する。
 天正二十(一五九二)年、(惟善が九歳のとき)当時大宮司であった兄の惟光が佐敷(現在の芦北町)で起きた反豊臣勢力の一揆に関与した疑いで処分され、阿蘇神社は廃れていた。
 そこで、加藤清正は古くから信仰されてきた阿蘇神社を援助し、阿蘇神社が自身の統治に欠かせない存在であることから、秀吉に復興を求める。
 しかし、うまくいかず、清正が阿蘇神社を復興させようという強い思いを持ち、それを実現することで服従していない勢力を取り込み、人々の心を安定させようとしていた。
 「阿蘇家文書」所収の「慶長六年」(一六〇一)十月十四日 加藤清正所領宛行黒印状刊本三二六号の解説に、次のように記される 。

慶長四年(一五九九)十一月廿九日 加藤清正判物(刊本西巖殿寺文書四〇八号 西巖殿寺所蔵)による還住令の二年後、清正が阿蘇神社神主の阿蘇又次郎(惟善)に対して阿蘇郡内の三五八石三斗四升の所領を宛行った黒印状。近世阿蘇神社の経済的基盤となった社領は、ここで成立した。

 当初の望みも叶い、加藤清正によって、阿蘇神社は復興される形となった。
 さて、ここで政治的視点から阿蘇神社、阿蘇家をみることとする。「梅北の乱」の際に、阿蘇家がそそのかしたとして、文禄二年(一五九三)八月、十二歳の阿蘇惟光は、豊臣秀吉より命じられた下河元宣から命を奪われる。
 こうして滅亡寸前となっていた阿蘇家は、宮地の祠殿を造り、祠官を招き寄せて邸宅をこさえていく。このことによって、祭政一致の阿蘇家は政治と完全に袂(たもと)を絶つこととなった。
 当時を示す資料で、加藤清正判物という文書がある。
 「そもそも当社退転の儀、先年太閤御所御下向のみぎり、郡中のものども邪心を相構えるの儀、神主ひとりの科に究め 御成敗候。其れに付而当社も破滅候―高麗在陣に付いては押し移り候、しかるところ 太閤様御他界に依って 其の志も詮無く候―」(熊本県史料中世編第一)
 加藤清正より阿蘇大明神(宮司は惟善のときであろう)に宛てられた書簡であるが、この阿蘇神社の政教分離に対して、農民はひとすじに神社に対する信仰を厚くしていった。この領国支配の権力をなくした阿蘇家は、もっぱら宗教祭事に頼らなければなくなっていた。阿蘇の農民の神社に対する信仰もそこにあった。結果的に豊臣秀吉はその点をよしとしたのである。
 これ以外にも、加藤清正と阿蘇惟善が密接な関係であったという阿蘇家文書が多数あり、解読まですることができたのであるが、そもそもなぜ阿蘇惟善に目を向けたのか。
 それはフィールドワークを行ったり、古文書を解読したりしていく中で、当の書物の由来部分に、慶長年間に「阿蘇惟善に請い、勧請す」と明記されていたからだ。これは紛れもない証拠である。
 不幸にも大火などで、天草には由緒書き等が残っている神社が極めて少なく、探し当てるのに難儀したが、古くからの社家をあたってみると現物まで見ることができ、これ幸いの喜びであった(後述)。

第7章 阿蘇文化と熊野文化

 阿蘇神社では、夏の例大祭といって毎年七月二十八日に、「御田植神幸式(おんだ祭り)」というお祭りがある。その神幸式のときや神事の後に歌われるものがあるそれを「おんだ歌」という。
 具体的には、一月十三日(旧暦)の踏歌節会(御田歌のうたいぞめ)、七月二十八日(新暦)御田歌神幸式(御田歌の本番)、八月六日(新暦)柄漏流し(眠り流し)(御田歌のうたいおさめ)のときである。
 「おんだ歌」に関して、近代になって盛んに研究が行われた。その成果もあって、歌の譜面が作られ、地域民謡としては稀な全首文字起こしされ、意味まで解読されている。
 おんだ歌は、労働歌であり、いくつかの節をつけて歌われている。コギリブシ、ウナリブシ、ハカマタツブシ、クマノブシ、ショウトメブシ、ホーヘンヤブシ、ハーゴエブシである。そこで注目したのは、クマノブシである。
 なぜ熊野信仰を彷彿とさせるものがあるのか。熊野信仰に関して、阿蘇神社が特別の思いを抱いていたからに違いない。
『阿蘇宮御田の唄』に、次のように記される 。


南北朝時代、征西将軍の懐良親王は吉野を経て紀伊に回られ、熊野水軍の手によって讃岐を経て忽那島に在住された。さらに薩摩の谷山に何年か滞在されたのである。その後宇土の名和氏を頼られ、さらに菊池氏に寄留された。その際、阿蘇家に水先案内を求められ、その後懐良親王は五条頼元とともに、強大なる惣領権を有される阿蘇惟時(別名は宇治惟時、生年不詳~正平または文和二年(一三五三年)、阿蘇氏の第八代当主)に向けてその保護を求められたものであった。―阿蘇大宮司家は封建的領主化のため南朝の天皇家に従属されていた。―菊池一族とともに活動していた懐良親王の側近の五条広元の軍政に、熊野系修験者の参加していることも事実であった。阿蘇山上の西巌殿寺や古坊中に住んでいた山伏たちは、熊野山伏の教示と規制を受けながら力を蓄えていった。
しかし、一方、阿蘇大宮司ではその熊野系修験者たちに禁制を出さねばならぬことになっていた。そのことは阿蘇神社が肥後一国の地域的な信仰の側面を担当することに対して、熊野系山伏は全国に広がる超地域的な仏教信仰の一面を担当することに基づいていた。したがって、阿蘇山上の祈祷集団は、地域性と超地域との対立に基づいて争われることとなっていた。
その後、阿蘇大宮司家より禁制が出され、熊野修験層との間には、分離と分割が行われる。阿蘇山上の祈祷寺院に祈祷寺院に対する阿蘇神社の優位的地位は、大宮司の祖先神である健磐龍命や阿蘇都姫に既存せねばならなかった。
また、時代は下り約三百年後のことである。
「阿蘇家文書」所収の「寛永七年」(一六三〇)五月廿日 阿蘇惟善証文写 刊本三二八号の解説に次のように記される 。
阿蘇社神主の阿蘇惟善が加藤家の国中知行方奉行であった加藤平左衛門尉正長に提出した証文の写しである。阿蘇神社には、寛永八年(一六三一)五月に同じ加藤正長が神主惟善に宛てた文書が所蔵されている―そこでは、江戸住まいの藩主加藤忠廣の命によって、例年通り、阿蘇行者に大峯(吉野金峯山)において大護摩の修行を行わせるための事前の手筈が、正長によって指示されていた。本文書は前半部が欠損しているが、前年の修行にかかった費用を書き上げて正長に報告したもの。修行は藩主忠廣の命で行われたから、費用も藩が負担したと考えられる。本文書は阿蘇神主から藩の奉行への費用下行申告書の控えといえる。加藤家当主と阿蘇社諸坊・行者との宗教的結び付きを窺わせて興味深い。


 阿蘇神社が加藤家並びに諸坊・行者(山伏)とともに宗教活動を行っていたことが確認できる。
 要するに、阿蘇神社大宮司の惟善と加藤清正と山伏との交わりは、強いものであったと感じる。さらに言い換えれば、惟善は先代宮司が行った禁制を一旦緩和させるなどして、布教者として山伏らを起用したのではないか。そうすることで、少しでも早く阿蘇神社の体制を整え、神社としての再生(再出発)を図ろうとしたのだろう。
 また、肥後の政治を司る(政治家)としての加藤清正肥後の宗教を司る(宗教者)としての阿蘇惟善、それを布教して回る(布教者)としての山伏という立場を三者が一丸となり確立していったのだろうと推察される。

第8章 天変地異

 阿蘇山はご存知の通り活火山であり、古くより多くの被害をもたらしていた。その変動に関しては、阿蘇家文書にも多く散見され、山伏らを含む多くの人々たちの苦難が垣間見える。
 そこで、阿蘇山に対しての畏敬の念が、阿蘇神社の健磐龍命に対する尊敬としてもとられ、参拝や祈祷をつのらせていく要因の一つであったのは紛れもない事実である。
 具体的に阿蘇山の噴火の歴史は、『阿蘇宮御田の唄』に次のように記される 。(イ~ツの記号は便宜上つけたもの。)

イ) 欽明天皇(五五三年)明の承楽中成宗らが「寿安鎮国山」と称す。水涸れ火燃え黒煙天に昇り池中鳴動し泥水沸騰す。
ロ) 貞観六年(八六四年)振動声あり、池水沸騰す。
ハ) 貞観九年(八六七年)夜奇光照耀朝雲動及崩る。
ニ) 文永九年(一二七二年)宝地明動雷の如し。電光耀々砂礫四方に散落。
ホ) 文永十年(一二七三年)砂石を雨にして闇夜の如く火石空中に相うつ。
ヘ) 弘安九年(一二八六年)申刻鳴動して龍形の雲烟池中より起る。
ト) 元弘元年(一三三一年)神池鳴動火石夜相撃って震となす。
チ) 建武二年(一三三五年)辰刻鳴動火口砂礫を雨らせ、煙中に物あり車輪の如し。
リ) 天授二年(一三七六年)火石蒼天に登り西南方に棚引く。連日白煙断絶することなし。
ヌ) 文明五年(一四七三年)火石黒煙天に登り僧徒大半山を去る。
ル) 大永二年(一五二二年)火石黒煙天に登り、砂山二つ池中にできる。山に日の如きもの二つ出ず。
ヲ) 永禄五年(一五六二年)黒煙砂石硫黄、よって白川水濁して衆魚皆死す。
ワ) 天正十一年(一五八三年)霊水湧出して本堂を破り、慈恵大師 最栄読師の像を流す。
カ) 慶長三年(一五九八年)砂石を降らせ黒煙登ること多し。石を雨し黒烟大に昇り火燃ゆ。
ヨ) 慶長十八年(一六一三年)宝地苦水湧出黒煙天日を遮り砂石群牛に降る。
タ) 寛永八年(一六三一年)宝地鳴動黒煙登り苦水漲奔、寺川の水熱湯の如し。行人絶ゆ。
レ) 寛永十四年(一六三七年)砂石硫黄を降らす。
ソ) 元禄四年(一六九一年)鳴動甚しく火石天に昇黒煙北方に棚引き、坂梨村、宮地村の間晦瞑にして燭を棄てて至る行人、迷に迷ひて石にあたる。飛禽畑に咽びて死するものあり。此の年の阿蘇の煙前代未聞にて阿蘇中闇となって松明をともす。
ツ) 明和二年(一七六五年)御池鳴動し或時は如雷。千仞の峯より大石を転す音が如く三、四里の間は戸障子にひびきて安眠せず。豊後路、鶴崎、府内、筑後、肥前、薩摩にまで及び、当国は八代、芦北、天草辺迄砂を降らす。

 改めて、阿蘇山は多くの噴火が起こしており、被害が広範囲に至る場合もあることが分かった。
 火口鎮静の神である健磐龍命神はたびたびご神威を発揮され、二十年足らずで従四位から正二位にまで上ったという功績を称えながら、地域の人々は健磐龍命を崇め、頼っていたのであろう。

 さて、天草に最も近い活火山は、思いつくだろうか。
 それは雲仙普賢岳である。近年にも、多大な被害をもたらす噴火が起こっている。それも含めて、まずは噴火の歴史をご紹介させていただく。
『雲仙・普賢岳大噴火』に次のように記される 。

雲仙岳の記録に残っている火山活動は、明暦三年(一六五七年)以来二十数回に及ぶ。そのうち煙を上げたと記されている活動は、
次に、各々の噴火の被害については、明暦三年(一六五七年)、寛文三年(一六六三年)、寛政四年(一七九二年)、寛政十年(一七九八年)、平成二年(一九九〇年)及び平成三年(一九九一年)の六回のようである。その他爆裂とあるのが万治元年(一六五八年)、火飛ぶと述べられているのが天保六年(一八三五年)で、他は地震、鳴動あるいは土砂噴出などである。一般に噴火期間は長く、寛政四年(一七九二年)に始まった噴火では数年間に達したようである。
(一) 明暦三年(一六五七年)…噴火、古焼溶岩流
(二) 万治元年(一六五八年)…噴火
(三) 寛文三年(一六六三年)…噴火
(四) 寛政三年(一七九一年)…鳴動、山崩れ
(五) 寛政四年(一七九二年)…鳴動、噴火
(六) 寛政十年(一七九八年)…噴火
(七) 天保六年(一八三五年)…鳴動、噴火?
(八) 大正十一年(一九二二年)…地震群発
(九) ~(二十四)は省略

[島原大変肥後迷惑]
島原半島南対岸の肥後国天草郡は、島原藩の預地で、(寛政四年(一七九二年))四月一日前山崩壊のとき、激浪は十八か村の海岸を襲った。―大矢野島には死体の漂着がことに多く、村民がこぞってこれを埋葬した。
天草郡の損害の概数は、次の通りである(寛政四年島原事変記、金井俊行による)。
一、 被害十八か村海辺
流家 三百七十三軒
損家 三百五十二軒
流厩小屋 四百三十九軒
一、 溺死人 三百四十三人(内男百四十八人、女百九十五人)
一、 流死牛馬 百九疋(内牛四十四疋、馬六十五疋)
一、 田畑 六十五町八反一畝歩程
一、 苗代 四十九町五反歩程
一、 地船 六十七艘
一、 高札場 三ヶ所
一、 唐芋畑 四十町六反五畝歩程
一、 見取田畑 十五町五反歩程
一、 郷蔵 二ヶ所
一、 塩 六千六百十石程
一、 塩浜十六ヶ所反別 二十町七反四畝歩
一、 刈干置候大変 五百六十九石程
一、 汐除川土手石垣 十一ヶ所(但、石垣長六百五十間、高さ二丈四尺より八尺迄)
一、 土橋 十一ヶ所
一、 平汐に二丈五尺(七.二一メートル)程より十五丈(四五.四五メートル)位迄増、さらに津波は島原半島東対岸熊本領にも甚大な損害を与えた。
肥後国宇土郡・飽田郡・玉名郡などの有明海沿岸地帯には、正月十八日(新暦二月十日)の地震発生以来、昼夜分かたず一日五回~六回から数十回に至る群発地震が襲来していた。
そこで人々は、対岸島原の地に噴火の災害が発生したなら救助しようと船の出航準備をしていたが、津波の発生の心配は誰しもしていなかった。そのうち、三月下旬(新暦五月中旬)になって地震も止み、雲仙岳は澄み渡って望見できたので、人々は安心していた。
その矢先、四月一日の夜八時過ぎ、西方で万雷一時に落ちたような大音響が聞こえ、しばらくして海水がもくもくと盛り上がり、巨大な山体のようになって海岸に襲来した。「津波だ」という恐怖の叫び声で、いち早く内陸に逃げ出したものは助かったが、家財器物を持ち出そうとして逃げ遅れた人たちの大部分は、波にのまれて流死した。
雲仙・普賢岳の変動は、十五、十六世紀(一四〇一年~一六〇〇年)に頻繁に起こっており、さらには天草から宇土半島の被害も確認できる。―
現在、熊本川の沿岸各地には、寛政四年(一七九二年)の津波供養碑や「津波止め石」などの石碑がある。その他「浸水絵図」や古文書を参考にして津波の高さを推定すると、熊本市清田で二十三.四メートル、三角町大田尾で二十二.五メートルであった。(日野貴之らによる)。まさしく「島原大変肥後迷惑」という言い伝えの通りなのである(図三)。

 すると、どうであろうか。火山の被害を減らすことを祈り、心を落ち着かせるために、火山の神様でもある。阿蘇神社の神様を含めた神社を造り祈ることで、いわば心の拠り所のような場所を設けたのではないか。
 この被害のあった範囲とご鎮座の関連性は、幾分にもあると思われる。さらに、古くから日本人は自然崇敬を第一に、神社で願いを叶えてもらっていた。

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第9章 天草の十五社宮の成立

 加藤清正(政治家)より助けを受けながら二人三脚で阿蘇惟善(宗教者)が慶長年間に勧請した。ということは分かったが、そもそも十五社宮とは、どのようにして成立したのであろうか。
 結論から言うと、熊野権現の考え方、山伏や修験者ら(布教者)の宗教観を基に阿蘇惟善(宗教者)が発案したのではないか。
 熊野十二所権現(図四)の赤枠に書かれてある「勧請十五所」というものである。熊野本宮大社・熊野速玉大社では、十二柱の神が祀られるのであるが、惟善は阿蘇神社独自のやり方を示すべく、十五柱「十五社宮」の原型を考え出したのではないか。
 ただ、現代では「十五所」ではなく、広く「十五社宮」と言っている。
 しかし、その「勧請十五所」を基にしたのではないかという証拠ともいえる古文書を発見することができた。
 それが近世阿蘇家文書(所有者番号:五八)の「書状(天草上津良村十五所神社神道裁許状一件について、阿蘇中務大輔(友貞)・阿蘇宮宮内少輔(友隆)より佐藤四郎左衛門へ)寛文十年(一六七〇年)(後筆)十二月七日」と天草町大江の大江八幡宮の社家木下家古文書「神社明細写(この名称は筆者がつける)」から「十五所」という文字が見つかる(図五、六)。
 さらには、天草の神社の社人に山伏が配属されていたことも確認できた。例えば、『江戸時代に於ける肥後国神社大観』所収の「天草郡内氏神表」上米良純臣著の中に、現在の坂瀬川神社が山伏の昭宝院、金剛院、楠浦神社が山伏の盛徳院、成宝院、小島子神社が山伏の光明院、棚底の十五社宮が山伏の大光院である(図七)。
 記録として残っているものは少ないが、それ以外の十五社宮もいくつかは山伏が関与し、前述したように山伏や修験者らが(布教者)としての役割を果たしていた可能性はある。

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むすびに

 天草十五柱の「十五社宮」の成立は、慶長年間に阿蘇神社大宮司阿蘇惟善(宗教者)と加藤清正(政治家)、山伏・修験者ら(布教者)のそれぞれの折衷案の現れだと認識する。
 当時阿蘇地域では、農民たちの貧しさは耐えきれぬものであった。その要因として自然災害があげられる。火山など自然と向き合う時間の長い阿蘇では、阿蘇神社の神様を崇め、お祀りすることで、自然災害の被害の軽減を祈り、一日でも早く変動が落ち着き、元の平安な暮らしを求めていた。
 天草地域は、阿蘇山と雲仙・普賢岳に挟まれるように位置している。一定の距離はあるが、時折その被害が天草に及ぶこともある。
 さらには、雲仙・普賢岳の被害は、宇土半島にも及ぶことがあった。この点が十五社宮を宇土半島でもお祀りする要因なのであろう。長島に関しては、本論でも述べた通り、海上交易が影響していると認識する。
 十五柱という多くの神様のご神徳を預かることで、地域の人々が神様受け入れやすい、言い換えれば、信仰しやすい体制となっており、火山鎮静の神様を含む阿蘇神社のご祭神など、一柱でも多くの目には見えないものへの信仰を持つことによって、さらなるご加護を求めていったのであろう。
 また本論では、山伏・修験者ら(布教者)が多く勧請して回ったなどと表現したが、社格によってその考え方が適しない場合があると思う。
 例えば、無格社に至っては当時のムラ(共同体)の中での話し合いで、当時天草地域で流行っていた「十五社宮」をお祀りしようとする働きかけがあった可能性がある。
 「十五社宮」の流行というのは、あまりに不敬の念とも感じとられる表現ではあるが、当時の人々は心のよりどころを求め、純粋な思いで新たに祈りの場を設けたのであろう。
 現在でも「十五社宮」が天草や宇土半島、長島で広く、篤く信仰されているのは、どんなに知識の蓄積や技術革新が進んでも、人間は自然に勝てないということの表れでもあろう。



第4章「阿蘇家文書」を読み解く へつづく…


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【注釈】
『天草県内神社誌』上米良利晴、昭和五六年(一九八一)十月参照。
『歴史と民俗 神奈川大学日本常民文化研究所論集二』所収「天草の十五社信仰」二二〇頁から二二三頁、北野典夫、株式会社平凡社、一九八七年六月二日第一刷発行参照。
天草の山々「 http://www.oukan.jp/yama.html 」参照。
「阿蘇家文書」所収の「加藤清正所領宛行黒印状」( http://kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp/asoke/monjo/31-271-01.html )第三十一巻、刊本三二六、熊本大学附属図書館貴重資料参照。
『阿蘇宮御田の唄』吉良敏雄、熊本日日新聞社、昭和五十五年(一九八〇)六月二十日参照。
「阿蘇家文書」所収の「加藤清正所領宛行黒印状」( http://kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp/asoke/monjo/31-273-01.html )第三十一巻、刊本三二八、熊本大学附属図書館貴重資料参照。
『雲仙・普賢岳大噴火』村山磐、東海大学出版会、平成四年(一九九二)六月十五日参照。

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