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第1章 サイツマチのこと

第1節 サイツの地名の由来と沿革

 熊本県天草市佐伊津町(さいつまち)の現在主要部分である平地は比較的新しい。昔は洲ノ崎(すのさき)・堀ノ内(ほりのうち)・浜洲(はます)の3か所に至る一帯は海中の砂丘であった。
 それが年月を経るにつれて、洲ノ崎・堀ノ内・浜洲の3か所に洲を生じた。故にこれを三洲村(さんすむら)と称するようになり、それが後日、一体の陸地となり現在のような町を形成するようになった。
 その後、三洲村がなまって鎌倉時代頃までに「才津(さいつ)」となったらしい。伊能忠敬が文化七年(1810)、文化九年(1812)の2回にわたって徳川幕府の測量方として、天草の測量をしているがその時作成した地図には「才津」とある。「才津」が現在の佐伊津となったのは明らかではないが、明治以後のことではないかと思われる。(注釈一)
 ここで私は、その「才津」と書いてあった地図を探し出した。その他に「佐伊」と書いてある地図、「徸津」と書いてある地図(図1)を見つけ出した。
 これより「徸津」について言及していきたい。伊能忠敬(一七四五~一八一八)の測量結果をもとに、文政七年(一八二四)以降作成された地図『日本国地理測量之図』を参照した。(二三)すると、「徸(徸は、十三画目以降が省略された欠字)津」となっていた。左隣に「廣(廣は、八画目以前が省略された欠字)瀬」があり、右隣に「御(御の異體字として中を使っているのか)領」の文字がある(図一)ため、確実に「徸津」は「サイツ」の場所をさす。しかし疑問点が残る。「徸」の文字の音読みは「ショウ」、「シユ」としか読まない。そのため、「サイツ」と読ませる(『古今各国「漢字音」対照辞典』増田弘著(慧文社)を参考にするも該当部分は見つからない)には、転訛だけではなく、数回の地名の変化が起こってきた可能性がある。さらに深入りすると、「才」の字も財などという漢字の異體字なのかもしれない。
 村名の起原は不詳であるが土俗の伝える所によれば、往古此地は海中に浮ぶ三つの洲になっており地殻の隆起運動により現状に至る。古くは三洲と言ってのち転訛して「サイツ」と呼び、佐伊津の字を当てるようになった。(一)

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 古くの佐伊津村(サイツムラ)は、熊本縣肥後國天草郡天草下島の東北海岸。東は島原海潟に臨み、北は御領村に接し西は城河原村に隣接し、南は本渡町に接する。面積六七.九―八〇平方キロメートル。北・西及び南の三境には高さ七〇―八〇メートルの丘陵があり中部に向かって極めてゆるく傾斜し、中央部より東にかけて低地を造り、海岸は平直にして遠淺をなす。そして、有明海に東面して長い海岸線をもつ。温暖な気候と天然の良港に恵まれ、早くから拓けた開けた地であった。
 初見は、建暦二年(一二一二)八月二二日付の『関東下文案(かんとうくだしふみあん)(志岐文書)』に「佐伊津沢張(さいつさわばり)」とみえる。(三)この沢張とは、当時の入り江のような沼(湿)地が広がっていた(四)ので、そう名付けられたようだ。

第2節 浦としてのサイツ

 浦とは、湖岸・海岸の地形の1つ。

 元久二年(一二〇五)七月、将軍源実朝の時代、志岐左衛門尉 (六)佐伊津沢張と書かれていた建暦二年(一二一二)頃、光弘は当地を含む天草六ヶ浦の地頭に補任されていた。(三)(建暦二年(一二一二)八月二二日付、『関東下文案(志岐文書)』によると、六ヶ浦とは佐伊津沢張、鬼池、蒲(かま)牟田(むた)、大浦、須(す)志(じ)浦、志岐浦である。有明海沿岸の主要部分に勢力を張っていたものと思われる。志岐氏はその領有を確かなものにするために、志岐浦を執権北条氏に寄進し、北条の御家人となった。(五))
 乾元二年(一三〇三)志岐景光 は「さいつのうら」半分を佐伊津三郎安弘 に永代に譲り、残り半分は安弘一揆の後、嫡子景弘 の知行とした(同年一〇月一三日「沙弥専阿譲状案」志岐文書)。当地は天草氏が支配する本砥(ほんと)島に近く、このため志岐氏は一揆のために有力な人材をこの地に配し、本砥島への勢力拡大の拠点としたと考えられる。
 「肥後国志草稿 (澤正博写、文化五~六年(一八〇八~一八〇九))」には「才津村」と記され、竃数一三五軒・男女数九三五人、「此村ノ内城跡、塩浜モアリ、中ノ村 浜辺漁師居ス」とある。(三)
 N(佐伊津出身・在住中、昭和十九年生まれ)氏曰く、旭町という埋立地 が出来る前(昭和四十六年(一九七一)以前(一九))は、塩田を行っていたことと、そこで作った塩を境内神社の塩竃大明神(しおがまだいみょうじん)にお供えしていたようだ。
 なお、塩竃大明神の発生について、塩竃大明神と塩田は関係性が深そうであるため考察する。
 サイツムラが天草六ヶ浦に加わり、塩・港・潮の干満などに関心持ち始めたであろう元久二年(一二〇五)以降の発生。もしくは、二塩田をが唐津藩の寺沢広高が行っていた(功績の一つである)ため(七)、天草を飛び地領として与えられた慶長八年(一六〇三)以降に発生したかもしれない。塩竃大明神が発生したときの鎮座地については、遷座してきた可能性は低いため、現在と同様の位置であろう。
 佐伊津浦は、定浦の指定年が一六四五年。万治二年(一六五九)舸子役十人。安政三年(一八五六)浦高は三二石七斗五升八合、舸子役十四人の定浦であった(幕末、二四〇軒、二一〇〇人余の漁家人口亀川浦から四人譲渡される )。(三)
 なお、この舸子役の許可を受けていない者が漁をすると打ち首のようだ。
 文政(一八一八―三〇)年間頃には頃には高六〇七石四斗余(うち新田畑十一石二斗余)、家数六五六軒・人数三五二〇人の大村となった。(三)
 西日本の大名や商人は、十四世紀から十七世紀にかけて八幡船に乗って、中国(明)や朝鮮との貿易を図り、巨額の利益を得ていた。天草でも軍ヶ浦、河浦町一町田、本渡、志岐等 の四つの港が、この時代に書かれた中国の史書に、これらの港を中心にして大いに海外貿易が営まれていた。(八)
 これらのことからサイツムラは、十二世紀頃から港として栄え始め、海外貿易をしていた地域と目と鼻の先の距離 で近いことから、漁業だけの港ではなく、貿易港として機能していたのではないかと推測する。
 先ほど述べた旭町埋め立て以前は約一キロメートルもの遠浅(図3)であるため大型船の侵入は難しかったであろう。

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第3節 サイツの城

 サイツムラの城は、志岐氏が関わっていることが分かった。
 志岐氏の鎌倉時代の居館の地は不詳であるが、南北朝時代から居城は山城の志岐城であった。居城の他、出城が内陸の内野川沿いに三か所、東の海岸沿いに五か所あり、その中で最も重要な出城が佐伊津に二つあった。これは東の大浦(有明町)との中継地点であると同時に、本砥の天草氏と対峙 する城であった。(四)
 図3は、一八三八年完成の天保絵図で大まかにサイツムラを切り取ったものである。その中に、城が二つあることが分かり、白丸で示したところが佐伊津高山城(たかやまじょう)で、黒丸が佐伊津金浜城(かなはまじょう)であろう。
 江戸時代になると天草は、唐津藩(現在の佐賀県)寺澤氏の飛び地領 となり、北側の富岡に城が築かれ天草統治の中心とされた。寺澤時代は佐伊津城にも見られるように、従前の中世城の一部に石垣等の技術を投入することで近世化を図る改修が行われている。(九)

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 図4からも分かる通り、佐伊津城はある程度の規模と権力を誇って持っていたのであるが、未だに現存残っしているものがあまりにも少ない。特に佐伊津高山城については皆無である。そこで佐伊津金浜城について、資料を踏まえながら言及する。また佐伊津高山城についてはフィールドワークを行ったが、字数の問題で省略する参考資料集に回すことにした。

 金浜城は、天草市の指定文化財にされており、その石垣の前に看板が作られている。

金浜城石垣
指定年月日:昭和五十年六月十三日
管理者:天草市
 この石垣は、金浜城に伴う高石垣で、高さ約五メートルの規模を誇る。後世の開発により、金浜城の面影を残すものはこの石垣のみとなっており、貴重な文化財である。石垣はその構造から江戸時代初頭の築造と考えられ、関ヶ原の戦いの後に天草を治めた唐津藩寺澤氏によって築かれた可能性が高い。寺澤氏が築いた城郭のうち、同様の石垣を備えたものとして苓北町の富岡城や久玉町の久玉城などが知られている。
 唐津藩士並河太左衛門(なみかわたざえもん)の覚書 には、天草には富岡城など六城があったことが記され、金浜城も「斉津城」と標記されている。また慶長肥後国絵図には、「佐伊津城」に天守閣が描かれている。金浜城は石垣と天守を備えた堅固な城であったことが想像される。
      平成二十四年十二月天草市教育委員会

 さらに天草市教育委員会は佐伊津金浜城の石垣について、
 石垣は幅約一五メートル、高さ五メートル以上を測るが、隅角部は壊され天端も削平されている。石垣の中央部には、城の中心に向かって五〇センチメートル方形の抜け穴らしきものが作られており、類例の少ない貴重な遺構といえよう。(九)
といい、抜け穴に関しては県内の民話でも取り上げられている。さらに、原城にもそのようなものがあったということを聞いたことがあるが原城に関しては、これ以上深入りはしないようにしておく。

 一方、熊本縣教育會天草郡支會編輯一九二八年二月発行の『天草の史蹟と遺物』によると、

佐伊津村金濱城址
 佐伊津ハ乾元二年(一三〇三)ニ志岐氏ノ一族三郎安弘ノ領地ト定メラレシ所ナルガ金濱城ハ其ノ後間モナク安弘ノ手ニ依リテ築造サレシモノナラントイハレテヰルサレド城トシテノ生命ハ何時代頃マデ續キシカ詳カデナイ

 乾元二年(一三〇三)以降に志岐氏一族の三郎安弘によって築城とあるが、何年まで築城されていたかは分からないようだ。
 なお、三郎安弘に関して調査したが、生年など人物概要を記す書籍を見つけることはできなかった。
 これらのことから、佐伊津城金浜城の築造年度が大きく離れていることが分かる。前者は十七世紀(江戸時代)に対し、後者は十四世紀(鎌倉時代)といっている。前者が教育委員会の作ったものであるから信憑性が高そうに思えるが、一部矛盾点があると思う。それは慶長肥後国絵図 に「佐伊津城」の天守閣が描かれているからだ。慶長年間は一五九六年~一六一五年の安土桃山時代をさす。立派な天守閣を作るには堅固な石垣、基礎が重要になり、それだけで長い年月を必要とするだろうし、着工が江戸時代初頭となれば時空の歪みが発生してしまう。

第4節 サイツの民間信仰

①  佐伊津の昔話「鼻なし地蔵さん」のモチーフとなった隅田川上流の江(え)川(ごう)地(ち)所在の延命地蔵。この地蔵尊を作ったのが、源信(げんしん)(恵(え)心(ご)僧(そう)都(ず))と言われ、彼は二体の地蔵を残したと言われるが、島原にあった一体が消え失せてしまった。それが「鼻なし地蔵」と言われ、島原、長崎方面からのお参りも多い。(一〇)
②  旧道沿いに地蔵堂が点在(浜洲地区・町地区・堀ノ内地区・宮口地区・洲ノ崎地区・寺ノ尾地区)し、寺ノ尾のものは六地蔵として祀ってあり、「(キリークという梵語で、阿弥陀如来と大日如来のシンボル(一一))、図5)光明真言供養」の碑が六地蔵の下 にある。(一〇)

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③  室町時代創建し、鈴木重成が再興したという大乾山阿弥陀寺(旧 長福寺) (真言宗→曹洞宗)がある。(N氏曰く、京都仁和寺の末寺。)そこの歴代の住職の墓には寛文(一六六一から一六七七二)の年号の碑がある。(一〇)
④  慶長二年(一五九七)有明町島子創建であるが、島原の乱で焼失し正保年間(一六四四から一六四七)鈴木代官の時に佐伊津に再建された(寺ノ尾区阿弥陀寺(旧 長福寺)敷地内付近)という西法寺(真宗西)は、庭園に僧侶の指導のための学校があったようだ。(一〇)
⑤  佐伊津神社の向かい側に光連寺(真宗東)がある。慶長一五年(一六一〇)に開山、開基は教山法師という。(一〇)
この光連寺の開山の年は、佐伊津十五社宮の初代神官就任の年である。 


「第2章 佐伊津十五社宮のこと」へつづく…

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【注釈】
(一)『佐伊津小学校創立百周年記念誌 かなうま』佐伊津小学校創立百周年記念事業期成会発行、昭和五一年(一九七六)七月三十一日発行参照
(二)『日本国地理測量之図』(「https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000310」)伊能忠敬(一七四五~一八一八)の測量結果をもとに作成された地図参照。小図(縮尺四三万二千)を元に作成された「日本全図」。経緯を示す線が引かれ、地図の周囲に、里程・緯度・方位等の一覧表が記載されている。また海岸線の周りに、都市や湊の位置等を記載した付箋が貼られている。文政七年(一八二四)以降の作成と言われている。原図サイズ:東西四四四cm×南北四六七cm
(三)日本歴史地名大系第四四巻『熊本県の地名』八九一頁、下中弘、株式会社平凡社、一九八八年一月八日初版第二刷参照
(四)『図説 天草の歴史』五六頁中段、鶴田文史監修、神津良子発行、株式会社郷土出版社、二〇〇七年十二月二十二日参照
(五)『改訂版 天草の歴史』三八頁図、堀田善久執筆、天草教育委員会編集・発行、平成二十年(二〇〇八)三月発行参照
(六)『天草近代年譜』九~十一頁、松田唯雄著、昭和四十八年(一九七三)九月参照
(七)『唐津市史 復刻版』唐津市、平成三年(一九九一)三月一日発行参照
(八)『天草の海上交通史』二〇頁、濱名志松発行、イナガキ印刷、平成九年(一九九七)一月二十五日発行参照
(九)『史跡棚底城跡 保存管理計画書』二十三頁、天草市教育委員会編集・発行、株式会社 九州文化財研究所レイアウト・印刷、平成二十四年(二〇一二)三月参照
(一〇)熊本県文化財調査報告第六六集『熊本県歴史の道調査―天草路道―』熊本県文化財保護協会発行、新写植出版(株)熊本支店印刷、昭和五九年(一九八四)三月三十一日参照
(一一)『日本人の死生観と葬墓史 五来重作集 第三巻』五来重著、株式会社法藏館、平成二十年(二〇〇八年二月二十五日初版第一版発行)参照
(一二)「記録」佐伊津神社々務所所蔵、自明治二十二年(一八八九)至明治四十一年(一九〇八)参照
(一三)『戦国大名家辞典』森岡浩、東京堂出版、平成二十五年(二〇一三年)十二月二十日初版参照
(一四)『熊本史学第六十六・六十七合併号』所収「8 菊池系図の実態について」熊本史学会、花岡興輝、平成二年(一九九〇)六月二日参照
(一五)『五和町史』五九五頁、五和町史編纂委員会、二〇〇二年十二月参照
(一六)『阿蘇神社』阿蘇惟之編、株式会社学生社発行、平成十九年(二〇〇七)一月十五日初版発行参照
(一七)『神社建築』山内泰明著、神社新報社、昭和六三年(一九六七)九月三十日七版発行参照
(一八)『天草 本邑のあゆみ【CD-R】』鶴田功著、平成二十三年(二〇一一)九月参照
(一九)「家紋の由来」丸に三つ柏部分(http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kasiwa.html )参照
(二〇)「武家家伝 菊池氏」(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kikuti_k.html )参照
(二一)『歴史と民俗 神奈川大学日本常民文化研究所論集二』所収「天草の十五社信仰」二二〇頁から二二三頁、北野典夫、株式会社平凡社、一九八七年六月二日第一刷発行参照
(二二)『日本の歴史1 神話から歴史へ』井上光貞、中央公論社、昭和五十二年(一九七七)七月五日八版参照
(二三)『九州キリシタン新風土記』浜名志松著、葦書房、平成元年(一九八九)年六月、六六頁、A-1キリシタン墓碑参照
(二四)『島原の乱とキリシタン』一五一頁、五野井隆史、吉川弘文館、平成二十六年(二〇一四)九月一日第一刷参照
(二五)『西海のキリシタン文化綜覧』所収「天草コレジヨの教授名簿(付志岐美術学校ほか)」鶴田文史編著、天草文化出版社、昭和五八年(一九八三)八月参照
(二六)『熊本史学第六十二・六十三合併号』所収「2 肥後阿蘇社の支配と権能」熊本史学会、昭和六十年(一九八五)十一月参照
(二七)『天草寺院・宮社文化史料図解輯』天草史談会著、西海文化研究所出版、平成十六年(二〇〇四)三月、「天草郡中寺社間数帳」(旧山方番役高田家文書)平成一六年発行参照


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