見出し画像

第4章「阿蘇家文書」を読み解く

第1節 阿蘇家文書とは

 阿蘇家文書(あそけもんじょ)とは、304通のものからなる貴重な史料である。

 阿蘇神社の旧大宮司家である阿蘇家に伝来したもので、現在は三十四巻に分装され、熊本大学附属図書館に保管されている。その内容は鎌倉、南北朝時代を中心に平安時代から江戸時代に至る三百四通からなっている。
 阿蘇家は平安時代後期頃に在地領主化し、鎌倉時代から南北朝時代にかけてその勢いは最も強くなったが、以後次第に衰え、天正十五年(一六一〇)秀吉の九州平定時に神領は没収され、大宮司職も廃された。しかし近世は加藤清正、細川氏から篤い信仰を得た。阿蘇神社は北条氏と関係が深く、その社領が一時得宗領でもあったため文書中には北条時政が阿蘇大宮司職に阿蘇惟次を補した建久七年(一一九六)八月一日北条時政阿蘇大宮司職補任状を始め、北条氏発給の下文等が多数存する。また、南北朝時代の複雑な政治情勢のなかで阿蘇家の動向を明らかにする康永二年(一三四三)四月二十一日足利直義御教書や正平十六年(一三六一)五月二十五日征西将軍宮懐良親王令旨など足利氏、南朝関係等の文書がまとまっている。この外、阿蘇の社領が田地屋敷も含めて詳細に書き上げられた至徳二年(一三八五)八月七日阿蘇社領郷々注文など神社領の分析に必要な在地史料も豊富である。
 附の写本三十六冊は、天保七年(一八三六)に阿蘇家文書が火災にあう以前に転写されたもので、十九世紀に阿蘇惟馨が書写し、更に惟敦が一部編集した冊子本である。内容は第一国宣、第二鎌倉下文のように文書の種類によって類別されており、全部で千通以上を収めているが、その半数以上の文書は現存しないものである。

熊本県
平安~江戸
34巻
熊本県熊本市黒髪2-39-1
重文指定年月日:19870606
国宝指定年月日:
登録年月日:
国立大学法人熊本大学
国宝・重要文化財(美術品)

第2節 読み解く①042 書状(天草一揆追討に対する祈願依頼について、堀江勘兵衛他四名より阿蘇山神主(惟善)へ)寛永14年12月2日

042_書状(天草一揆追討に対する祈願依頼について、堀江勘兵衛他四名より阿蘇山神主(惟善)へ)_寛永14年12月2日

(原文)

今度天草表
一揆蜂起ニ付而
為御追伐之御
人数被差出候
然者於貴山ニ
御祈祷可有
御執行之旨ニ而
従御家老衆
被差越使者候
仍而銀子拾枚
被進之候如早晩

可有御配当候
恐惶謹言

  堀江勘兵衛
      (花押
寛永十四年
 申二月二日
  種梨半兵衛
      (花押
  河喜多五郎右衛門
        (花押

(意訳)
これは天草の表である。
一揆が起こったので、追伐するための人出を差し出してください。そして、阿蘇の山において、ご祈祷を行うという旨を家老たちより先に、使者にお伝えください。そういうことで、銀子を十枚ご寄進ください。いつものように、ご配当いただきますよう恐れながらも謹んで申し上げます。

第3節 読み解く②058 書状(天草上津良村十五所神社神道裁許状一件について、阿蘇中務大輔(友貞)・阿蘇宮宮内少輔(友隆)より佐藤四郎左衛門へ)寛文10年(後筆)12月7日

058_書状(天草上津良村十五所神社神道裁許状一件について、阿蘇中務大輔(友貞)・阿蘇宮宮内少輔(友隆)より佐藤四郎左衛門へ)_寛文10年(後筆)12月7日

(原文)

家来方へ之御札
令拝見候然者天草
上津良村 十五所
神社者 阿蘓宮
勧請之依為社従
先年彼社人岡本宮内
此方へ来儀故改名等之
儀致沙汰候併官位与
申儀ニ而者無御座候偖又
吉田へ諸 社之祢宜
参候茂或 神道為
伝受或裁許状等

儀ニ而官位与者分違
申候官位与申者従
禁中勅許之儀尤御存之
通ニ候就夫吉田へ出入之社
人阿蘓へ出入之社人与而
別学茂無御座候然故不致
同座与之作法於吉田茂
不承候彼社人者戸田
伊賀殿御入部以来
遂御礼候由令承智候
間猶以如前々首尾
能有之候様ニ被成御了簡
被遣可然存候猶期重音之
時候恐惶謹言

寛文拾年   阿蘓中務大輔
 十二月七日
       阿蘓宮内少輔
 佐藤四郎左右衛門様

(意訳)
阿蘇の家来の方への御礼
拝見させていただきました。天草の上津浦村の十五社神社は、阿蘇宮の神社の方によって勧請されました。
昔、社人の岡本が当社へ来られたのは、改名等のことで命令を出しに来られました。それに合わせて、官位を伝えに来られたのは間違いございません。さて、吉田家へ諸神社の禰宜が来られました。神道を伝授し、裁許状等のことで、官位よりは間違いなく申し上げました。官位より申すことは、禁中の勅許のことで、もっとも今これまで通りにしてください。それは、吉田家へ出入りする社人であり、阿蘇へ出入りする社人によって、別学でもございません。ですから、同座でいたしません作法は、吉田家においても承りませんでした。社人は、戸田伊賀殿がご入部されて以来の御礼でございますので、ご承知の程よろしくお願いします。なお以前のように、うまい具合にいきますようにおとりはかりしていただき、残されるべきでございます。それではまたの機会に。恐れながらも謹んで申し上げます。

第4節 読み解く③074 書状(加藤肥後守母患の護摩祈祷について、惟善より内山永久寺へ)寛永7年6月8日

074_書状(加藤肥後守母患の護摩祈祷について、惟善より内山永久寺へ)_寛永7年6月8日

(原文)

  凡以肥後守長久
  祈念無御油断恃
  存候以上

態令啓入候然者
加藤肥後守母儀
煩ニ付大峯之立
願被申今度阿蘓山
行者之内鏡珍房
了忍房両人為代
峯被指上候於峯
中大護摩御祈
祷之儀被入御情
所仰候猶重而可得
御意候恐惶謹言
   阿蘓宮神主
寛七     惟善
 六月八日

内山
 永久寺
    参


(意訳)
肥後守が永く続きますようご祈念―


緊急のお便りがありました。
それは、加藤肥後守の母のことです。病気を患いまして、大峯で願いを申し上げられ、今度阿蘇山の行者である内鏡珍房と了忍房の二人に代わりに大峯入りしてもらい、大峯にて大護摩祈祷をしてもらいたいです。それではまたご報告まで。恐れながらも謹んで申し上げます。


貴重なデータです!(取り扱い注意)





ご質問や調査依頼等がある場合は以下のメールアドレスへご連絡ください。
saitsujinja@yahoo.co.jp

画像4

【注釈】
阿蘇家文書(アソケモンジョ) | 熊本大学附属図書館 所蔵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?