29/09/2020:『Ylang Ylang』

信号が変わりそうになって向こう側からビジネスマン風の男性が走り渡ってきた。僕の方は間に合いそうになかったから、その場で次のターンを待つことにした。だから形としては、彼を迎え入れる立場だった。

悪意も善意もなく渡り切ったところを見つめていると、

「ふうっ。」

と、小さなため息をついた彼と目が合った。すれ違いざまにネクタイを直すと両眉毛を上にあげて目配せをくれる。僕も足並みを揃えるように口を「にっ」として少し首を傾け合図した。

そして、そのまま彼は僕が来た道を来た方向へと歩いていった。

                ・・・

明るい昼過ぎの交差点では路駐管理のために交通局の職員がスマホを片手に作業をしていた。この辺には駐車場がないのでどうしても路面に停めるしかないのだが、その際はこの職員さんに声をかけて切符のようなものをもらわないといけない。その切符を車内側から窓に貼り付けて、決まった時間だけそこに停められるのだ。

せかせかと働いている横で、タバコ売りのおじさんが歩道のベンチに座っている。昔の駅弁売りみたいにして、木箱を首からベルトで提げている。

「おじさん、二本くれよ。」

路駐チェックの職員が声をかける。僕と同じくらいの青年だった。こちらではタバコを一本ずつバラでも買えるから、タバコを箱ごと持たずとも吸いたいと思ったときにこうして手に入れることができる。

青年はタバコを受け取ると、スラックスのポケットをじゃらじゃら言わせて、小銭を差し出した。

でも、

「はい、タバコどうぞ。」

と、言ったのはタバコ屋のおじさんではなく、青年の方だった。そしておじさんの横に腰を落ち着けると二人して一服し始めた。

毎日ここで顔を合わせているのだろうか。名前も知らなければどこからきたのかもわからない。「だけど、もう顔見知りなんだからさ」と言った雰囲気だった。

持ちつ持たれつ、という言葉はこの場合適切ではないかもしれないが、なんとなく、同じ空間を共有する人間同士の心の介在のようなものを見て取ることができた。

彼らがどんな話をしていたのかは聞き取れなかったけれど、でも時折楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

                 ・・・

交差する車線の信号が赤になる。行き交っていた車たちが止まり、一瞬だけ無人の、無音の時間が広がる。午後の太陽はとても明るくて、でも風が涼しいから、何の変哲も無いオフィス街もここだけが特別にあしらわれた場所であるかのように心が落ち着いた。

こうして涼しい午後のなんでもない時間に風が体を包むとき、とてもリラックスしているはずなのに、どうしてか心が緊張した時みたいな動悸がするのはなぜだろう。冷たい血液が胸から一気に体の隅まで巡り出しているのがわかる。

僕の周りにぞろぞろと横断歩道を渡ろうと人が集まってくる。同じように向こう側にも。

この先で何かが待っているわけじゃない。でも、僕は今ここを渡ることで向こう側へ行き、そして歩き続けていく。

そわそわとした心の動悸がそのまま信号の青になった。

背中を押すように風が吹いたと思ったら、タバコの香りがほんのりと届いてきた。

僕は歩き出した。

・・・

今日も等しく夜が来ました。

Fkjで『Ylang Ylang』。


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