08/09/2020:『It Never Entered My Mind』

広がる河口を渡る連絡船。思ったよりも体で感じれるくらい揺れがあって、大きな船体をゆったりと波のリズムに合わせながら進んでいく。合成皮のシートは2人掛けで僕らは進行方向の左側列の窓から外を見ていた。向こうに見える大きな陸橋は車両専用の道路になっていて、確か昔の王様の名前がつけられていた。青く塗られた橋は経年で黒くくすんでいて、本当に年をとった王様みたいにも見えた。

西日が反対側から差し込む。きらめく水の流れはすぐそこのーと言っても5km先ー海へと合流している。

「見て、さっきまであそこにいたのね。」

と、彼女が指差したのは丘の上の古城で、ここからみるとチューインガムくらいの大きさにしか見えない。丘を撫でるように乱立した家々は白い壁とオレンジ色の屋根で統一されていて、僕はそれをとてもきれいだと思った。

「向こう岸に渡ったらジェラートを食べましょう。美味しいお店があるらしいわ。」

彼女はアクセサリーやバッグなどには全く興味を示さず、ただひたすらに食を求め歩き続けた。嫌な言い方に聞こえるかもしれないけど、そんなことはなくて、一緒になって地図を片手に街の中を迷い、曲がり、戻り、そして目的のお店を見つけた時の達成感は僕にとっても感激に値するものだった。

「こんなに寒いのに?大丈夫?」

と、僕は言った。晴れて乾いた天気がずっと続いているが、それでもコートにマフラーは必須だ。日本より緯度が高い位置にあるこの国は、その分冬の太陽が遠くにあるから、淡く滲んだような光が街を包んでいてそれは僕らの気持ちを穏やかなものにしてくれた。が、寒いものは寒い。

「大丈夫よ。それに、寒い時にこそ食べるべきだわ。」

と、彼女は言った。

西日を全身で受け止めながら、連絡船はゆっくりと向こう岸へと近づいていく。

                 ・・・

決まったルーティンができるとそれをなぞっただけ生活になってしまう僕は、きっと常日頃からストレスを抱え込みやすい体質になっていたのだろう。生活を規律正しく整えるためのルーティンにいつの間にか支配されていて、終いにはルーティンを守る僕は消え去り、残ったのは僕を枠にはめ込むルーティンの方だった。そこから抜け出そうと思うと、なぜか罪悪感が襲ってきて、何と無く抜け出すことが僕自身を半端者にしてしまう気がしていた。

そうして僕ががんじがらめになっていて、そろそろ限界じゃないかという頃、彼女が、

「そんなの、全部無くしなさい。今、すぐ。それか私のやり方でよければ、助けてあげる。」

と、言って僕の目の前に現れた。いや、実際は出会って1年ほどになるのだが、その細かなルーティンの合間を縫って実現したデートの途中で、また細かなルーティンの話をした僕に、いよいよ憐憫の情が湧いたらしい。

「手始めに、どこかへ行くわよ。遠く、行ったことのないところへ。」

そして、僕らはこの国にやってきた。

                 ・・・

岸の波止場はこじんまりとした町役場みたいな感じで、出るとすぐにロータリーがあって、そして隣には電車の発着駅があった。船、バス、電車。全てがこんな小さな建物から出ていることに、小さな感動を覚えた。

それぞれ路線図を見ても、その名前は僕らの持っているガイドブックには乗っていない町ばかりで、だからなおさら、心惹かれるものがあった。

「さ、行くわよ。ジェラート。」

と、彼女は先にスタスタと歩き出した。ロータリーからは道が三本伸びていて、その真ん中が目抜き通りの小さな商店街だろうか。人通りもあって、どうやらお店もある。

「河を渡ってきただで、全然違うわね。」

彼女の言う通りだった。人の歩くスピード、家々の質感、聞こえて来る喧騒。全てが小さく少ない。普段聞き慣れた曲から一つずつ楽器を抜き出していった後のように最低限の音だけが流れていた。だけど、おかげでその曲の持つ鮮烈されたメロディや丁寧に積み重ねられたコード進行も感じ取れた。

「いい感じね。いい感じ。」

と、彼女は言った。

道行くテラス席には観光客だけではなく、地元の人たちもたくさんいた。寒いのによく、と思ったが彼らは一様にして楽しそうに食事をしたり、お茶をしていたりしている。

「ほら、見てみなさいよ。誰も、誰も一人でいる人なんかいない。みんながみんな、それぞれ誰かと過ごしているわ。」

本当だった。誰かが誰かの隣にいたり、あるいは向かい合っていたり。彼らはみな、それぞれ繋がり合い、共に時間を過ごしていた。

「分かるかしら。前までのあなたは、ここに入ることもできなくらいに一人で気張っていただけ。別に否定するわけじゃないけど、ねぇ、一人じゃ結局は孤独なだけなのよ。」

それは本当だった。一人で生きていた僕はきっとこんな景色を見ても何とも思わなくらいに、どこか深く暗い所へ篭っていたんだと思う。

彼女の方を見ると、僕を見上げて小さく笑っていた。この道で最も優しい笑顔だった。

「あ、あった、あそこ。ジェラートって書いてる。」

そう言うと、彼女は急に走り出した。その向こうにはこじんまりとしたお店があって、立て看板に色々なフルーツのイラストが書いてある。

西日がそっと通りを包み込んでいて、少し暖かく感じた。人々は笑い合っている。

そして僕は彼女を一人にしないように、後を追った。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

『It Never Entered My Mind』Jackie MacLean with The Great Jazz Trio (ver.)


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