22/09/2020:『Something to Live For』

大きなくしゃみをした。さっきからムズムズしていたのが、やっとすっきりした。でも、それよりも強く感じたのは気持ちよくしたくしゃみの後、部屋に僕の叫び声のようなものがこだまして、

「やばい、親父にそっくりだ。」

と、いう驚きの方だった。

父は体が大きく、今でも僕よりメシを食いそして酒を飲む。緊張感のない態度と余計に大きな声は、歳を取るごとに増してきているようにも思える。

「昔からあぁだったわよ。なんでこんなのと結婚して、しかもこんな田舎まで来ちゃったのから。」

と、母はよく話していた。

6畳半のアパートには文庫本とCDが壁一面を埋め尽くしていて、それらはこの土地で僕が生きてきた証みたいなものだ。一冊に、一枚になんらかのエピソードがあって、そのどれもがどことなく僕の胸を掴んで離さないようなものだった。

が、それよりもさっきのくしゃみの方が気になって、僕は洗面台の鏡の前に立った。

映った顔は毎日見ている何時もの僕の顔で、どこをどう見ても父に似ているとは思えない。というか、昔から僕は誰にも似ていないと言われてきた。弟は父の系統を強く汲んでいるようで、確かに歳を取るたびにそちら側へと向かって表情が変化しているようにも思える。

でも、僕は自分でもわかるくらいに、誰にも似ていない。

「本当に、ここの家の子なの?」

と、昔よく母親に訊いていたのを覚えている。どうしようもなく不安だった。誰にも似ていないから、僕は宇宙で一人だけの存在なんじゃないかと感じるくらいに。

「そうよ。だけどさ、産みの親より育ての親っていう言葉もあるし、細かいことは気にしなくていいんじゃない?」

と、母はさほど興味もなさげに答えた。

血が繋がっているとはいえ、もう僕は大人で、彼らはそのずっと前から大人で、そして僕よりも早く歳を取り、きっといなくなる。

「確かに、細かいことはいいか。」

と、鏡の中の僕を見ながら思った。

あと、そろそろ髪を切る必要があるかしら、と思った。

                 ・・・

彼女はパンダが好きで、雑貨屋さんなんかでパンダ関連のものを見つけると必ず、

「ねぇ、見て。パンダがいる。」

と、教えてくれた。僕はその動物に対して特別な感情を抱いていなかったのだが、毎度毎度そう言われていると、どうしても日常生活の中でパンダを意識してしまうようになった。

いや、意識と言ってしまうと少し大げさかもしれないが、要するに、

「この世界にはこんなにもパンダが溢れているんだなぁ。」

くらいには気にして過ごしていたといことだ。

「ねぇ、あなたには私のとってのパンダのように、ある程度無条件に惹かれるものだったり、思わず愛でてしまうようなものはないの?」

彼女はパンダが刺繍されたタオルハンカチで、テーブルを濡らしていたアイスティーの汗を拭いた。平日のカフェは落ち着いていて、喧騒も丁度いい。

「ん?どうして?」

「だって、何か一つそういうものがあれば少しでも幸せかなって。これ見ると元気になる、とか。あそこに行くと回復する、とか。」

僕はそう聞いて、神様を信じたり、猛進的に戒律を守ったり、そうやって身を捧げて生きる修道士の姿を思った。

「それは、信じる者は救われる的なやつ?」

と、僕は訊いた。

「そういうわけじゃないけど。どうせ人間はあやふやで自分勝手、人生は行き当たりばったり、そして時間はどうしようもなく過ぎていく。だったら、その中で一つくらい心の拠り所みたいなものがあってもいいんじゃないかってこと。だからと言って、変な水しか飲まない宗教に入ったり、宇宙との交信を始められても困るんだけど、まぁ、そういうことよ。」

と、彼女は言った。ストローでかき混ぜたグラスの中で、氷がぶつかる音がした。

聴いたことのあるようなないようなBGMがかかっている。今まで人の声や街の音にかき消されていたはずなのに、なぜか急にハッキリと耳まで届いてきた。僕らは少しの間黙ったまま、静かに飲み物を飲んで、無作為に視線を交わした。

彼女は僕の返事を待っているようで、でも、特に気にしてもいないようだった。

                 ・・・

誰にも似ていないし特に信じるものもない僕は、だからこうして一人でいるのだろうか。誰かに会う予定を快く立てたところで、出かける直前にとても億劫になったり、全てを投げ出してでも早く家に帰りたかったり。

一人でいることと一人になってしまうことは違う、と誰かが言っていたような気もする。

僕は今、そのどちらなのだろう。

何百冊という小説と何百時間にもなるCDは、僕を孤独にしてしまっているのだろうか。

ベッドに腰掛けて、壁を眺める。

でも、僕をここまで連れてきてくれた物語と音楽は、きっと僕を裏切ることなく、これからもそこにい続けてくれるだろうし、また同時にその数だって生きてくうちにどんどん増えていくんだ。

少なくとも、今の僕にはそれだけで十分に思えた。

鏡の中の僕は僕にしか似ていなくて、そして目の前の壁には孤独な夜を共に過ごし、温かく僕を包み込んでくれる存在がある。

「ま、細かいことはいいか。」

もう一度、小さく呟いてみた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

Ella Fitzgeraldで『Something to Live For』。



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