20/08/2020:『The Bird』
渡り鳥が隊列を組んで飛ぶのは、受ける風の抵抗を少なくするためだ。彼らはV字のフォーメーションのまま何百キロも飛行し続ける。最も風の抵抗を受ける一番先頭のポジションは、交代交代で務める。どれくらいの距離で交代するのかはわからない。でも、きっと「そろそろいいかい。」とか言って合図を送ったり、「代わるよ、無理しないで。」だとか声をかけたりするんだろう。
「ねぇ、本当にそれだけだと思った?」
と、彼女は言った。河川敷の芝生は太陽をいっぱい浴びて青々しく茂っていて、その下の土からは温もりが感じられた。少年野球の試合が下のグラウンドで行われていて、金属バッドに軟式ボールが当たる音が僕らのところまで届いてくる。
「何が、本当にそれだけなの?」
と、僕は聞き返した。だって、なんのことか分からなかったから。
「渡り鳥のことよ。彼らの事情を考えたことがあるの?」
僕はなんだか混乱していた。
「羽を上下させることによって、下へ追いやられる空気だけじゃなくて、羽の先端では上昇する空気も生まれるの。つまり、羽ばたきごとに、下降気流と上昇気流が順繰りでそして同時に生まれ続ける。そして、そのまま進んでいくから、後ろに残るのは上下にうねる波線の気流ということになる。わかる?」
「うん、わかる。」
どうしてドイツ文学専攻の彼女がこんなにも渡り鳥の飛行について詳しいのか、僕はそっちの方が気になった。講義で使っているノートを見せてもらったが、ドイツ語の文法はあまりにも複雑すぎて、とても渡り鳥の研究に割く時間などないように思えたからだ。
「後ろを飛ぶ鳥たちは、その波線気流に合わせて、風に乗るように羽を上下させるの。これによって無駄なエネルギー消費を抑えることができる。」
加えて彼女によれば、一見、みんな同時に羽を動かしているように見えるのだか、実はそれぞれが前の鳥たちの動きからズラして連動することで、後ろになびいた波線状の空気に羽を乗せるようにして飛んでいる、ということらしい。
「そういうこと。だから、みんながそれぞれ頭を使って、個人の責任で飛んでいるの。ただ闇雲にV字になればいいってわけじゃないの。考えなきゃダメなの。」
そして、彼女は僕の方を見て、
「そうやって見えているものばかりを追いかけていたらダメなの。」
と、言った。
・・・
逃避行を続ける。ただずっと動かしていないと、きっとそのまま落ちていってしまう。真っ暗な夜で視界はほぼ無いに等しいが、なぜか、我々は迷うことなく真っ直ぐに進むことができる。生まれた時は、目も見えず餌を取ることさえできなかったのに、気がつくとむしろ地上を歩くよりも空にいることの方が楽になっていた。誰かに教わった記憶など皆目なくて、ただ、その時にはもう風に乗っていた。
畑の作物がすべて収穫され、ビニールハウスや区画仕切りなどがすべて小屋にしまわれた。曇り空が時間の多くを閉めるようになると、山脈の方から冷たい風が吹いてきてーでも、きっとそのもっと先から風は吹いてくる。我々が遠くへ行くのと同じようにー、そのせいで土は瑞々しさを失い、日に日に崩れるようにして乾き始める。
それを冬という。普段から根城にしている林がもうすぐ裸になる。日中を過ごしていた湖は氷に閉ざされて泳ぐことはできなくなる。そういう季節のこと。
「今年はきっと長くなるだろう。」
と、農夫が言った。
「蓄えは十分あるわ。春が来るまで待てばいいだけよ。」
と、妻は言った。
また強く風が吹くと、2人は小屋へと入っていった。
そして私たちは、その山脈から吹いた風を捕まえるために、一斉に飛び立った。
・・・
何度か攻守交代をした後、整列して互いに礼をすると、子供達はそれぞれ散り散りに帰っていった。河川敷に吹いてくる風は、草の青い匂いがして僕たちを仰いだまま、またどこかへと過ぎ去る。
「ねぇ、さっき君が解説してくれたのは、彼らー渡り鳥たちーの事情ではなくて、ただ、その飛び方についてだと思うんだけど。」
と、僕は聞いた。だって、事情、というと、どうして彼らはそこまでして海を渡るのかとか、渡らなければならない本能と生まれた土地への郷愁との葛藤とか、そういうことなんじゃ無いかと思ったからだ。
「えぇ、まぁ、そうだけど。つまり、あなたが言いたいのは、その背景としての事情ね。エピソードを支えるエピソードのことね。」
「んー、そうなのかな。」
と、僕は何も言えなかった。
隊列を作って綺麗に飛んでいるように見える渡り鳥たち。でも、もっと近づいてみると、浮かび上がるのは、彼らが非常にシステマチックに、洗練された化学的セオリーを遵守した動きを繰り返しているということ。彼女が言いたいのは、こういうこと。
「うん、そういうこと。中と外は大きく異なる。」
彼女は頷いた。
「でもさ、」
と、僕は続けた。
「外と中の関係に加えて、裏と表という座標もあるわけで。君は君で、見えているものしか見えていないとも言えるんじゃないかな。」
「あなたが着目したのは、その裏と表、ということ?」
と、彼女は聞いた。
「んー、強いて言うなら、ね。」
風に乗った雲の流れは速い。さっき視線の先にあった雲は、もうずっと向こうの陸橋を過ぎていて、今度はまた新しい雲がやってきては横切っていく。
「例えば、どんな話?」
彼女は芝生人寝そべると僕の方に転がってきて、ちょうどいい具合に収まった。僕はうつ伏せになって肘を立てると、少し考えた。
横切る雲が影を落として、そしてすぐに流れた。
そして、僕は北国を発つ渡り鳥たちと、農場に残された夫婦の話を始めた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Charlie Parkerで『The Bird』。
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