28/09/2020:『Time Tonight』

スイッチを入れたら自分から動き出すお掃除ロボットは、深海生物のように小刻みに前足を回しながらウィンウィンとモーター音を鳴らす。彼が動きやすいように僕は床に物を置かずに、そしてカーペットやなんかも敷かない生活をしていた。

僕以外にこの部屋で動く物体は少なく、彼はそのうちの一つだ。いつも名前を付けてあげたいと思っているけれど、今の今までいいアイディアが浮かばずにいた。

頭のてっぺんにあるライトが青く点滅する。テーブルの脚やソファに近づくと、その直前で一瞬ためらうように留まり、そして右か左に方向転換をする。そして、またウィンウィンと言いながら前へ進んでいく。

「あ、オーバーテイク。」

壁に取り付けたアームが支えるテレビではF1中継が流れていた。贔屓のコンストラクターがあるわけではないけれど、洗練された車の走る姿やピットの統率されたチームワークを見るのが好きだった。

「いいなぁ。いい天気。」

サーキット上を飛ぶヘリコプター。快晴の空に浮かび上がるシケインからのメインストリートはとても美しく見えた。

窓の外には曇り空が広がっている。洗濯物は外に干した。降らない方に掛けたのだ。

お掃除ロボットがこっちにやって来る。

僕はソファに足を上げて、彼のコースを開けてあげた。

スムーズに、そのまま足元を抜けていった。

                 ・・・

窓辺の水槽を目の前のテーブルに持って来て、久しぶりにゆっくりと中を覗き込んでみる。天井のない球体の水槽に、砂利と水草をしっかり敷き詰めて専用の水を入れる。そうすれば日光ーあるいは強い電球の光ーによって光合成が働き、自然とプランクトンが生まれるシステムになっていた。

「お、相変わらず。」

赤と白のエビが二匹、ふわふわと、そして時に稲妻のように素早く泳ぐ。この部屋の中で、僕とお掃除ロボット以外に動くもの。お弾きくらい大きさの彼らは、水槽の中ではとてもちょうどよく収まっていた。僕ら人間が例えばハンモックに体を横たえるように彼らは水草の影に隠れていたし、敷き詰められた砂利は公園のベンチみたいだった。

そして、彼らにも名前がなかった。便宜上、赤い方と白い方という風に呼ぶことはあったが、それを僕は名前だという風には認識していなかった。

「大きい方?小さい方?」

と、作ってくれたハンバーグを彼女がお皿に移しながら聞いた。

そして、

「ん、大きい方かな。ありがとう。」

と、答えた。それはただ、二つのものがあって、片方をもう片方から切り離して認識するためだけそう呼んだだけだった。

名前のない赤い方と白い方は透明な地球の中をスムーズに泳ぎ続ける。水草から生まれた気泡が水面に上がって割れた。

「今日もとっても美味しかったね。」

僕はお皿を洗いながらソファに座る彼女に声をかけた。彼女は食後のアイスを食べながら、

「まぁね、楽勝よ。」

と、拳を上げた。勇ましい仕草だな、と思った。

そして今、そのソファに座る僕はただ空虚に水槽を見つめている。赤い方と白い方のエビ。湾曲して映る向こう側のテレビでは、何台ものF1カーが第3コーナーを鋭く曲がり消えていく。

同じようにして二匹のエビも水草の影に隠れた。

                 ・・・

この部屋の中で動くお掃除ロボットと二匹のエビは、同じ世界を生きながらも同時にそれぞれの領域であくせくとしていた。彼らは名前もなくそしてその意思や願いのようなものもない。あると仮定したとしても、それはこちら側ーつまり僕ーが慮ってあげないと存在しなく、だってそうしない限りは、お互いに交差することもなくただ時が流れていくだけ。

それでも名前のない彼らは与えられた世界で真っ当に生きているように思えた。

一方で、唯一名前を持つ僕だけが、こうして一人無作為にソファに身を投げてパッとしない1日のキリッとしない時間帯に漂いながら次の一手を打てずに甘んじている。

自由に動かずとも同じように時間が過ぎ、名前がなくともその世界で完結できるのであれば、じゃあそのどちらも持っている僕はどうにかして持っている分の何かを生み出さなければいけないんじゃないか。

僕は指紋認証でロックを外すとLINEの履歴を眺めた。一番上にある彼女の名前は昨日の夜が最後のやり取りだ。

通話ボタンを押す。

「やぁ、元気してる?」

「何よ、どうしたの。夕方前にはそっちにいこうと思っていたけど。」

彼女のフラットな声が聞こえる。

「うん、ありがとう。そうだと思って、掃除してる。」

「あら、素敵じゃない。」

ウィンウィンとどこかからモーター音が聞こえる。水槽のエビがまた水草から出てきた。

「ねぇ、そろそろ彼らにも名前を付けなきゃと思っていたんだ。」

「そうね、それがいいわ。だってね、名前を付けてあげることで、そこに命が宿るのよ。」

「オースティン、言語行為。」

窓を見やると曇り空が晴れ、明るくなっている。

「駅まで迎えにいくよ。」

と、言った。少しでもここから外へ出て歩きたい気分だった。それに、せっかく動くなら誰かのために動きたい。

「わかった、ありがとう。いつもの改札のところね。あと30分で出るわ。」

電話を切ると僕はソファにもたれかかった。いつの間にかレースは終盤で、いくつかのマシンがリタイアしていて、でもトップ3はそのまま変わらずだった。

ウィンウィンと音を立てていたお掃除ロボットはどこからか現れると、充電コンセントがさしてある所へと後ろ向きに近づき、そして収まった。青い点滅がオレンジに変わり、休息に入ったようだ。

目の前の水槽では、また二匹のエビが行ったり来たり泳いでいる。

僕は自分の名前をいくつかに分解したりして、そしてそれに飽きると立ち上がってベランダに出た。

このまま雨は降らなそうだった。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

John Fruscianteで『Time Night』。


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